大ケ池女性殺人事件
……それから三日後、同じく岡山県備前市で奇妙な殺人事件が発生した。
昭和△△年十月八日(日)のことである。 死体発見の一一0番通報を受けて、岡山県警本部総合通信指令室は、ただちに所轄の備前警察署と管内の移動局に対して現場への急行を指令した。同時に岡山県警捜査一課と鑑識課に対しても出動を命じた。
国道二号線の両側に広がるなだらかな丘は、夏の緑から秋の黄金色へと変わろうとしていた。
澄みわたった青空に、真綿を小さく刻んで散りばめたような白雲が浮かんでいて、すがすがしい。そして、ちょうど山の緑の切れるあたりには、うっすらと棚引いた雲が、やわらかい陽の光を鈍く反射して、秋の気配を感じさせた。
その年の異常に短い梅雨と、真夏の日照り続きは、各地でダムや溜め池の水を干上がらせたり、一部の都市においては深刻な水不足をきたした。しかし,その灼熱の夏は、日本全土を大混乱させることなく一段落つき、やがて日月の運行とともに、秋の深まりのなかに沈んでいこうとしていた。
岡山県警の本部指令を、音倉警部は備前警察署二階の刑事課で聞いた。その日はちょうど当直で、朝から出勤していた。
二台のパトカーが、ほぼ時を同じくして備前警察署から出動した。
昼前のゆるい陽が車窓から後部シートにまで差し込む。おだやかな秋晴れで、流れるように背後に消え去る光景も、くっきりと浮き出ているように彩やかだ。
ほどなく右手の対向車線の向こうに、底の地肌があらわになった溜め池が見えてきた。大ケ池だ。浅いところには、水はほとんどない。所々に、小さな流れが箱庭の河川のように蛇行して、低部へと続いているのが、地肌の凹凸でうかがえる。
池の西端の土手には、既に二台のパトカーが到着し、一台のルーフ上では非常燈の点滅が現場の位置を知らせている。その点滅が新幹線のガードでさえぎられて、断続的に見える。ちょうど池の中央あたりを、国道二号線と並行して山陽新幹線の高架が敷設されているためだ。
本部指令を受ける直前まで眺めていた、古備前風に仕上げた若手作家の新作を思いだしていた。その昔、この辺りの田圃の土が、備前焼に使われ、掘った跡地が、大ヶ池になったという。
岡山県備前市大内、通称大ケ池で発見された全裸女性死体は、備前署、岡山県警の合同捜査の結果、他殺死体と断定され、翌日午前九時、備前警察署に「大ケ池女性殺人事件捜査本部」が設けられた。
一方、死体は同日午後四時より吉備医科大学法医学教室(牧田権蔵教授)で司法解剖に処せられた。
合同捜査会議に先立って、既に数回の打合せ会によって、各人の捜査が割り当てられた。事件発生と同時に、必要な捜査は着実に展開された。
主任格の音倉警部は殺しのベテランで、水島警察署から移ってきて半年目である。石油コンビナートのある倉敷市南部の水島地区は、ここ数年難事件が多く発生している。そこで数々の殺人傷害事件の解決に手腕を発揮してきた人だけに、今回の事件でもその指導力に期待を寄せる署員は多かった。
音倉警部の指示で、井上、小林の両刑事が被害者周辺の調査、中井、植田の両刑事が現場周辺の聞き込みというように分担した。
第一発見者については音倉警部自らが事情聴取した。
第一発見者の供述
氏名 中野三太
住所 岡山市大多羅町2丁目○○目の×× 本籍地 右に同じ
職業 東洋耐火煉瓦(株)
片上工場勤務
年齢 四十七才
いやあーもう驚きました。はい。今日は十一時から魚とり大会があるというので、会社の同僚二人と、楽しみにしてやってきました。同僚の一人がこの近くに住んでおりまして、これが終わったら今日の獲物を肴にして一杯やるつもりでおったんですが、中止になりまして……。参加料が一人五百円で、死体が発見されて中止になったのでみんな返してもらいました。魚とり大会が中止になったという落胆よりも、死体を発見したという気持ちの悪さで、今は胸が一杯です。たとえ魚とり大会が行われていたとしても、死体の発見された池の魚で一杯やる気にはなるまいからまあ仕方がありません。
はい、発見したときのことは、今でもはっきり覚えております。わしら三人は、西の下手の方が深こうなっとると聞いてたもんですけぇ、あっちの方へ行って、水が抜かれて開始の合図があるのを、待っとたんです。はい、開始は十一時頃の予定で、十時四十分頃から、水が抜かれ始めました。そして、ある程度水が抜かれたところで、主催者がピストルで合図をするということになっておりました。それまでは、勝手に水の中に入ってはいけないちゅうことで、みんな水際で、今か今かとピストルの鳴るのを待っていた次第です。
水も相当引いて、もうそろそろ合図のある頃ではないかと思っていた矢先、何やら水の中から、真黒なビニールのようなものが現れてきました。もちろん、まわりには色々なゴミがありましたから、ビニールの袋があっても不思議ではありません。ですが、この池は、ご存じのように何年かぶりかの、この夏の大干魃で水量が減っており、ちょうど田んぼへの給水も終わっておりますので、水を抜いて底ざらえをやるはずだったと聞いておりました。いつも水はたくさんあって、底が現れるということはありませんから、多分今回の底ざらえは、新幹線の工事の時以来ではないかと思っております。それで十何年も掃除がされておりませんから、空き缶だの棒切れだのがたくさん散らばっておりました。それもかなり前に捨てられたものと見えて、あるものは錆が浮いて赤茶けており、またあるものは水垢がべっとりと着いていて、一目でそこに沈んでいた期間の長かったことがわかりました。そんな古びたゴミ、芥の中で、その黒いビニールは光沢もあざやかでーーもちろん水に濡れて光っていたせいもありましょうがーー新しいものと思われました。
こうして見ているうちにどんどん水位が下がり、何やら人の足らしきものが出てきたときには、びっくりしました。そうですね、頭の方が、深い方に向いてありましたけれど、どちらかといえば、横に近い形だったようです。それですから、あれよあれよという間に、ビニールシートにくるまれた仏さんが出てきました。
たしか足が見えたときだったと思いますが、私が何か声を発し、近くにいた人が集まってきました。そして、そうこうするうちに、誰ともなく、それ百十番だ、それ駐在所へ連絡だと言って、警察へ連絡したと思います。 ビニールシートらしきもので覆われていたとはいえ、姿形から女だということがわかりましたから、近づいて見るものもいなかったようでございます。ちょうど獲物にに襲いかかる前の動物のように数メートル離れたところから、おそるおそる死体を眺めておりました。あるいは、最近ではテレビの影響で、現場を荒らしてはいけないということをみんな知っていて、近づかなかったのかもしれません。 そのうちにーーさあ、最初に足が見えてからどれくらいたっていたかはわかりませんがーー若いお巡りさんが一人来られて、我々を少しうしろにさがらせました。最初に発見したのは誰かと聞いたので、私が名のりを上げた次第です。そのうち、パトカーが着いて警察官も増え、ロープが張られたりしました。以上が死体が出てきたときの模様でございます。
はいそうですね。昔はよくこの池に魚釣りに来たことはありますが、最近はいつも赤穂線でこの傍を通っても、ここに来ることはございません。
……それから、若いお巡りさんが来る前だったと思いますが、誰か、多分この土地の人ではなかったかと思いますが「あ、センターの村井さんだ。陶芸センターの村井さんだ」と言う声が聞こえました。向こうで、お巡りさんと話をしている、あの方です。
第一回目の捜査会議は翌日の、午前九時より始められた。
大ケ池女性殺人事件捜査本部長である、備前警察署の中村署長より事件の概要説明があり、中村署長の司会で会議は始められた。
井上刑事の報告
被害者は、現場での目撃人の証言により、備前市伊部四丁目五番二十五号さくら荘、陶芸センター勤務、村井明美、三十一才、女性と判明いたしました。また解剖前に、被害者と同じアパートの住人二人、及び勤務先の職員二人によって、本人に間違いないことを確認しております。なお、本籍地は笠岡市。
兄弟はなく、小学校のとき両親は離婚し父親に引き取られておりますが、その後父親は再婚しておりません。父親、別れた母親とも既に死亡しておりません。したがって、身内らしき者の手ががりは掴めておりません。以上が被害者の概要です。被害者のアパートの状況については、後で報告します。
解剖所見ーー県警本部・只野鑑識課長
捜査に直接関係ののあると思われるもののみ、述べさせて頂きます。詳細は書類に記載してありますので御覧おき下さい。
死因は溺死。死後二日ないし三日。胃残留物の腐敗および微生物検査により二日ないし三日と推定されますが、皮膚の変化のようすから、それよりも短時日とも考えられます。従って死亡推定時刻は十月五日の正午より十月七日の二十時の間と考えられます。死体の特徴として、全身に数箇所の擦り傷、ひっかき傷がありました。また、被害者の血液型はAB型。妊娠四ヶ月で、胎児は女。また人工中絶の経験が一回あると思われます。
現場付近の聞き込みーー中井刑事
事件発生後、現場付近の聞き込みを行いました。被害者が包まれていた黒い農業用ビニールシートの件ですが、これに似たものが、数日前から現場付近に捨てられてあったと証言するものが一人おりました。それは土手の北側で、現場から十メートルぐらいのところで見たと証言されております。
私もその当たりを捜してみましたが、それらしきものはなく、同一物である可能性も考えられます。なお、証言者が最後に見たのは六日の正午頃だということです。
他に事件と直接結びつくような手掛りは得られておりません。以上です。
音倉警部「もし、同一物だとしたら死体が投げ込まれたのは、それより後になる」
県警・吉村刑事「いや、まだその時は生きていたかもしれない。死因は溺死なのだから」 中村署長「ひととおり報告が終わってから討論したいと思います。今までの件について質問はございませんか。ご意見は捜査方針のところでお聞かせください。質問がなければ、次に被害者周辺の報告をお願いします」
被害者についてーー井上刑事
被害者に対する調査では、勤務先とアパートの家主および隣人より、興味ある事実が指摘されておりますので、報告します。
まず、勤務先である陶芸センターには五年前の開館時からの勤務で、受け付けから湯茶の接待、簡単な事務等、たいそうまじめで、有能な働き手であったというのが、全員の一致した意見です。ただ、同僚女性職員の話では、明るい性格であるにもかかわらず、私生活については一切話したことはなく、家族や生立ちのことは誰も知りませんでした。また焼き物に対する愛着が強く、特に古備前についてはよく勉強していたそうです。異性関係については誰も心当たりはありません。なお月曜日が休日ですが、七日、八日と休暇を取っていたということです。
一方、アパートの家主の話では、先月末に今月分の家賃を貰ったとき、今月一杯で解約するということを告げられたということです。また同じアパートの隣人の証言では、隣近所との交際は一切なく、町内会費の徴収などで声を交わす程度で、彼女について知っていることといえば、一人暮らしをしているということぐらいでした。ただ時折耳に入る雑音から、時々男性の訪問があったということです。顔などは全く見たことはなく、聞こえて来る会話などから推定すると、若い男性と少し年配らしい一人で、どちらも車で来ていたと思うと述べております。また、この二人は別々に来ており一緒に来たことはなかったそうです。
アパートの隣人の証言
はい、私はもうこのアパートができたころから住んでおりますから、かれこれ六年半ぐらいということになりましょうか。それまでは息子夫婦と一緒に住んでいたのですが、息子らが岡山に出て行きましたもんで、わしらのように年をとってから一緒について行く気にもならず、ここで主人と二人暮らしております。まあ、家賃は安いですから、生計には困りませんが、何しろ安普請の建物ですからーーこれは大家さんには内緒ですよーー隣の声もよく聞こえてきます。でも幸い、みんな年をとったかたばかりで、夜なども十時過ぎには気味の悪いくらい静かになります。ですから騒音に悩まされるというようなことはございません。また、よそ様のことを考えてテレビの音も小さくしておりますので、時折隣の物音など聞こえて来ることがございます。でも、村井さんは、ほとんど近所付き合いのないかたで、私らが顔を合わせるのは、回覧板に印をついてもらう時と町内会費を集める時ーーそれも三箇月に一回ですがーー程度でした。それにお風呂に行っての帰りに会うことがありましたか。ええ、お風呂でお会いしたことはございません。別に避けていたというのではなくて、私らが行くのが早いので会わなっかたのでしょう。私らは五時前後の外の明るいうちに行きますが、村井さんが帰って来られるのは、五時半から六時頃でした。村井さんがお風呂に行かれるのは、九時頃ではなかったかしら。その頃に戸の開閉の音がして、三、四十分くらい静かになって、そしてまたテレビの音が聞こえて来るというような生活でしたから。多分、あの時がお風呂へ行っていた時間ではないかと思います。いつも決まった時間に帰って、決まった時間にお食事をしてーーもちろん、いつも自炊されてたんじゃないかしらーーそして、夜は十時過ぎには電気は消えていたようですね。
そうですね、一年くらい前から時々男の人が来ていたかしら。これも、声や音だけで想像するだけで、顔は見たこともありません。声や車の音が違うのでーーこれは相当後になって気付いたのですがーー多分、二人の男性が別々に村井さんを訪ねてきていたのではないかと思います。年齢はよくわかりませんが、年上のほうが五十前後、若いほうは二十前後かあるいは三十近くだったと思います。会ったことも見たこともないのだから、勝手な想像をするだけですが……
中村署長「以上の捜査結果に質疑がなければ、捜査方針について県警の斎藤捜査一課長に説明をお願いします。ご意見は一応の説明が終わってからお願いします。」
斎藤捜査一課長「ただ今報告して頂きました、初期の捜査結果に基づき、以下のように捜査方針を立てております。
まず、遺体発見現場の状況より、他殺と断定して間違いないものと思われます。現時点では自殺、事故によるとは考えておりません。ただし、死因が水死ということにより、他の場所で殺されて大ケ池に運ばれた場合と、大ケ池に投げこまれた時はまだ生きていた場合の両方の可能性が考えられます。
次に被害者の異性関係。被害者が妊娠していたということから、被害者のアパートに出入りしていた二人の男性に的を絞っていきたい。
以上のような観点から、捜査を次のように分担したいと思います。
まず、一班。被害者の住居周辺の聞き込みにより、二人の男性の割りだし。
二班。被害者の足取り。一班、二班は重なるところがありますが連携をとりながらやってほしい。
三班は、現場付近の聞き込み。
なお本日正午に記者会見をして、公開捜査にしたいと思います。それから、一週間以内の早期解決を目標にやってもらいたい」
中村署長「ただ今の捜査方針について、ご意見があればお願いします」
県警・岡村刑事「えー、被害者の解剖所見にありました、数ヶ所の外傷についてはどのように考えておられますか、単なる異性関係のもつれからというよりも、女性の絡んだ怨恨の線は考えられないでしょうか」
斎藤捜査一課長「その可能性は十分にあります。しかし二人の男性を割りだすことによって、共犯の女性も浮かぶと思われます。もし、いればの話ですが。しかし、女性の単独犯とは考えておりません。その点は、捜査のの展開を待ちたいと思います」
これに対して岡村刑事からの再質問はなかった。
県警・吉村刑事「少し疑問に思うのは、魚とり大会があれば、死体が発見されることは想像できる訳だから、犯人は付近の者ではないと考えてよいのでしょうか」
井上刑事「それは、大いに考えられる」
中井刑事「逆はどうでしょうか。魚とり大会のことは知っていて、犯人を遠方の者と思わせるための偽装かもしれません」
井上刑事「いくら何でもそこまでは……」 中村署長「それは今後の課題としておくことにして、その他にありませんか」
県警・吉村刑事「本日記者会見をして公開捜査に切り替えるということですが、しばらく非公開にして、被害者宅にどちらかの男性が訪れるのをまつのも一つの案だと思いますがいかがでしょうか」
中村署長「それは十分に考慮しました。しかし、事件発生を十七日以前とすると、既に二日が経過しております。ですから、できるだけ早く公開捜査にして、市民からの情報を期待するほうが有利だと思います。また、死体発見が魚とり大会の開会前ということで地元住民の大部分の者が知っておりますので、非公開の意味がありません。本日正午より公開捜査にしたいと思います」
県警・吉村刑事「はい、わかりました」
ーーーその時、電話が鳴った。中井刑事が出てみると陶芸センターからの電話を交換が取り継いだ。さきほど、村井明美名義の郵便が届いたということである。その旨、中井刑事が全員のほうに向かって誰に言うでもなく、復唱すると、音倉警部より「すぐに行くから指紋保存を伝えろ」という指示が間髪をいれずなされた。
中井刑事が今度はそれをやや丁寧に伝えた。「すぐに取りにまいります。指紋を取りたいと思いますので、これ以上触らずに置いていて下さい」
この電話が捜査会議の雰囲気をがらりと変えた。
井上刑事には、こういう手紙が郵送されること自体が事件撹乱をねらったものであるので、先程の斎藤捜査一課長の説明した捜査方針が、何か重要なものを見落としているような気がしてならなかった。
もちろん、先程の捜査方針というのは、斎藤課長一人のものではなくて、会議に先立って、それまで得られた情報をもとに、音倉警部らが参加して決められたものであった。
「署長、記者会見を少し遅らせてもらえないでしょうか」
井上刑事は何か言わないではいられないような気持ちだったが、それだけ言うのが精一杯だった。確かな根拠などなかった。ただ、そう感じただけだった。既に新聞社、放送関係に連絡していると言われれば、さらに主張するだけの、元気はなかった。しかし、幸いなことに、さっきまで黙って聞いていた県警の斎藤捜査一課長が口をきった。
「ひょっとすると、犯人はまだ死体が発見された知らないのかもしれません。もう少し非公開で捜査を続けてみてはいかがでしょうか」
井上刑事の感じたことが他の人たちにも伝わったということが、その反応でわかった。「それでは、異存さえなければ、本日の記者会見は延期にします。今後の捜査の進展を見てから、公開捜査ににしたいが、本日中に記者会見は行わないことにしたいと思います。それでよろしいでしょうか」という中村署長の言葉に異存を唱えるものはいなかった。
「それでは、すぐに捜査にかかっていただきたい。編成はこの表のようにしております」と言って、西洋紙二枚を黒板にはった。
それぞれ被害者の写真を一枚ずつ持って担当の捜査に出ていった。十時半であった。
なお、音倉警部は暑に残り、新しい事実が発見され次第、捜査本部(内線三十八番)へ連絡することが、確認されており、それを待機することになっていた。
井上刑事は、備前暑鑑識課員四人とともに、被害者宅の捜査に従った。
村井明美の住んでいたアパートは伊部の町並みを少し外れて、山のほうに入ったところにある。北に向かってなだらかな傾斜道が続き、それが終わって急な勾配になって五メートルほど更に登ったところにあった。昨日来たときは被害者についての聞き込みが主であったので、アパートの中は一瞥したでけで、本格的には調査はしていない。既に報告している茶色の紳士靴は鑑識課のほうで、正式に調査をしてもらうためにそのままにしてある。 本日は既に家主に調査する旨伝えてあるので、すぐに調査できた。
まず、戸を開けて驚いたことには、昨日はなかった新聞の折り込み広告らしきものが、投げ込まれているのだった。被害者は新聞を購読している。
戸の一部に郵便受けの穴があり、そこから直接玄関の中に投げ込まれている。昨日来たときは玄関の土間には郵便物らしいものは何もなかったのであるから、井上刑事が驚いたのも無理のないことである。取り上げてよく見ると、裏には広告は載ってなく黒の油性ペンで次のように書かれてあった。
「山本忠夫さんと一緒に行く。村井明美」
明らかにこの事件と関係のあるものだということがわかる。
「指紋を取りましょう」という鑑識課員の声に
「頼む。多分ふきとってあると思うが」
と言う井上刑事には確信らしきものがあった。明らかに犯人は、近くにいる。そして、きっとまだ死体が発見されたことを知らないに違いない。このまま待てばいずれ尻尾をだすに違いない。しかし、反面何かが心の奥にわだかまっていた。それが何かは自分でもわからなかった。
しかし捜査は続けなければならぬ。間借り人のいなくなった部屋をいつまでも放置しておくわけにはいかない。被害者には身内がいないのであるから、ここの荷物は、身元保証人になっている勤務先の上司の責任において、整理されるであろう。整理されてしまえば二度とこの状況を再現する訳にいかなくなる。是が非でも、今回の事件と結びつくものを確保しておく必要があった。
井上刑事は、犯人が近くにいると思いつつも、万が一捜査が長引いた場合のことも考えて、被害者の所持品を綿密に検査しておくほうがよいと思った。
一方では鑑識課員が指紋をとったのち、個々のものにあたって、何らかの形で被害者の過去を再現する資料を集めようとしていた。とくに井上刑事の説得によって、鑑識課員はより丁寧に仕事をした。
係り官は一つひとつノートに記していき、参考になりそうなものや、注意すべきものがあったら、井上刑事に尋ねる。そして井上の指示があれば、重要物件として保管することにしていた。
この日の被害者宅の捜査で、新たに投げ込まれた新聞チラシと「殺してやるという言葉まで含まれた電話を録音したテープ以外にはめぼしいものはなかった。被害者の日記,アルバム身の回り品等はまとめて、段ボール箱に詰められて備前暑のほうに移された。
……すべての手掛りには当たってみた。
初動捜査は一段落ついたと言ってよい。しかし、結局犯人らしき者は杳としてわからない。いつまでもこの事件だけに人員をさくことは難しく、いずれ一人減り、二人と減っていくのは目に見えている。