2025年1月28日火曜日

神島

 神島   

             

 それから数日して、神島へ行くことになった。

 岡山駅を十時八分にでる、山陽本線の下りに乗って、笠岡まで行った。列車は一時間ほどで笠岡駅に着いた。その日はよく晴れていた。空にわたる薄雲が美しい。

 笠岡まで一時間かかる。駅前でタクシーを拾う予定で改札をでたとき、ふと見上げると駅の時計が十一時半を示していた。お昼ご飯には少し早いと思ったが、ここで食べておくこにした。駅前の商店街をあるいて行くと、食堂があったので、そこで一休みするこにした。喫茶店も何軒かあったが、今日の雰囲気からするとやはり、鄙びた食堂で食べたほうがよい。

 食事後、駅前からタクシーにに乗った。

 タクシーが駅前をでたのが13時半であったから、意外に早く神島にはついたことになる。

 ちょうどっ島の南側に古い旅館が二軒ある。「甲蟹壮(かぶとがにそう)」と「みづき」である。その一つの件かん


 「古備前哀歌」の作詞者の水城弘絵の経営する旅館「みづき」は、ふるい木造でいかにも伝統ある旅館という感じではじめて訪れた者に好感を抱かせるに十分なだけの外観であった。


 南向きの明るい客間で私は水城弘絵から話を聞いた。

「もうあれはずっと前のことになります。この沖で貨物船が沈んだときのことですよ。島の潜水夫がそのとき事故で死んだ。……表向きは事故で死んだけれど、後で変な噂が流れた。その噂が流れる前に関係者が引っ越ししたので、結局結末はかわらなんだが、この島にとっては後味のわるい事件でございました。今から思うと、あの噂のほうが正しくて警察がだした結論のほうがまちがっているような気になることのほうが多いのです。といっても何ら証拠のようなものがあるわけではなく、ただそんな感じがしております。

これを神島事件と呼んでおこう。

 神島事件は20年前に起きた殺人事件である。地元の人々には幾分かの不満と何かふっっきれない後味のよくないものを残したが、当時の操作としては審理を尽くして一応結論をだして事件は解決されたいる。

 しかし、きけばきくほど不可解な事件である。


  事件は秋風の吹く頃、備前片上港から熊本へと備前焼き輸送していた貨物船第二穂浪が神島沖で沈没したことにはじまる。


  20年前の話を聞く

   台風のとき、古備前を積んだ貨物船が島の沖で沈没した。それを引き上げる技術は当時はなかった。しかし、島に新しい潜水漁法が導入されると、それをもって沈没船の遺物探しを行う者が出て来だした。はじめは、ごく限られた者だけが、少しずつ潜っては引き上げていたが、中には相当高価に売れる物があり、噂はいつとはなしに広まり先を争って、沈没船に向かった。当然のことながら、争いが起こる。殺人事件が起こる。こうしてタイラギ漁師は離散し、神島のタイラギ漁は全潰した。

  鴻野島のタヒラギ漁  郷土史資料に土地の古老が書いている。

  鴻野島の南側の流れの速い淵には、タイラギがよくとれた。タイラギ漁をする漁師は多くなかったが、鴻野島の特産になっていた。戦後プラスチック製品により漁具の発展はタイラギ漁にも大きな影響を与えた。潜水具が新しくなるにつれて、漁場も拡大していった。またそれに合わせて水揚げも上がった。しかし、だからと言って、漁師の生活が楽になったわけではなかった。漁船や、潜水具の出費が高く着いたからである。

 しかし、その鴻野島のタイラギ漁も、事故死以来完全に潰えた。漁業者たちは廃業し離散した。

 




  三人の潜水夫がいる。

                     梶文夫とその妻友子

 山田良一とその妻和子(旧姓・橋本)

 村井宏介とその妻佐和


  山田良一は死体で発見

  梶文夫は傷だらけで生還

  村井宏介は行方不明

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梶文夫の証言

 「村井が山田を殺した。さらに自分をも殺そうとした。双方傷つき、村井は逃げた。」

 事実は梶文夫が山田を殺した。それを村井に見られたので、村井も殺した。

                     山田の妻・和子は事件当時妊娠していた。  これは、梶文夫との間にできた子である 梶はこのことが山田に気付かれたと思い殺害を計画。

                     事件後、和子は男子を出産。旧姓に戻り、この子供を育てる。これがカメラマンの橋本である。本籍は岡山市となっているから、橋本の表面からは笠岡に結びつくものはない。

 事件当時、村井夫婦には女の子が一人いた。長女が村井明美である。事件当時村井佐和は妊娠しており、事件後女の子が生まれる。由紀である。由紀はまもなく、黒沢夫婦にもらわれる。黒沢夫婦は由紀という子供を亡くしたばっかりであったので、そのまま由紀を自分の子供としたので、由紀の戸籍からは、そのことはわからない。由紀が養子だというこになれば、実子の葬儀の件にまで触れないといけなくなるので、黒沢夫婦は由紀の出生の秘密については最後まで、語らない。

 村井明美は村井宏介とその妻佐和の間にできた子供。由紀は村井佐和と山田良一との間にできた子。                                   由紀はその後他の夫婦にもらわれていく。 その新聞を手がかりに、 母(由紀の生みの)から手紙  由紀の実父CはB殺しの犯人だということで、cはずいぶんつらい思いをしましたが、そうではなく被害者だということがわかりました。それだけが、気がかりだったものですから、これだけはぜひともお伝えしておかなければという気持ちになりました。


 私たちは貧しくて、最初の娘が咳き込んだとき、医者に見せるお金もなくただ家族三人で寒い路頭をさまようしかなかったのです。 広島県との県境あたりで、最初の娘は死にました。海の見える丘に埋めました。寒い冬の日でした。海岸のほうから冷たい風がヒュウヒュウと吹き付けてきておりました。小雪が舞い海が白く霞んで見えたことを覚えております。

 今でもそのときのことを思うと、涙が溢れて止まりません。……しかし、その時の私たちは冷たくなった娘をそこに埋め、小さな石ころを拾ってきて、卒塔婆代わりにのせて、ただ手をあわせるほかは、何もできませんでした。


 信号のある交差点の角っこにはお好焼きやが一軒あるきりだった。看板には「お好焼き・焼きそば」と簡単にかかれていたが、外から見てもお好焼きを店の中で食べている人などなくて、店の主人とおぼしき中年の背の低い男性が、両手をせわしげに動かしているのが見えた。焼きそばを作っているようだ。たぶん出前かなにかのだろう。それを助けるように奥さんが主人の後を右へ行ったり左へ行ったり甲斐甲斐しく動いている。その二人が見える窓ガラスの端の入り口に近いほうに「タコ焼き」と書いた赤ちょうちんが釣り下げてあった。これは帰宅を急ぐ主婦の目にとまりやすく結構売れるのではないかと思われた。