アルバイト学生
大学の近所に全国チェーンの古書店ができたのは,二年ほど前のことだった。市の中心部の店には時々行っていたが,近くの店舗に行く強い理由がなかったので,気にはなっていたが,今まで一度も足を運んだことはなかった。近いからいつでも行くことができるという安心感からか,強いて行こうという意志を働かせなかっただけかもしれない。
秋晴れの空気の澄んだ日,ちょうど午後の時間が空いていたので散歩がてらに足を伸ばした。大学に上がる坂の分岐を逆方向に行ったところにあった。そちらは,しばらく平地が続いて,スポーツ用品店とか,オートバイ屋などがあって,若者が集まりやすい一画だった。駐車している車も多くて,その店が賑わっていることがわかった。
初めてなので,ゆっくりと店内を歩いた。ゲームソフトやCDや漫画は今回は見ないことにした。それでも二十分ほど費やしてから,最後に,専門書の類ではなくどちらかというと娯楽用に近い何冊かの本を買うことにした。
入り口近くのレジに並んだ。二人ほど先客がいたので,カウンターの中で作業をしている店員を順に眺めていた。カウンターの中には三人店員がいた。女性の一人はレジを受け持ち,もう一人の女性はゲーム機の部品をポリエチレンの袋で包んでいた。男性の店員はプラスチックの箱に入った本を,大きさで分けてレジのうしろに並んだ本棚に移していた。年格好からかんがえて,おそらく全員が学生アルバイトだろう。私の勤める大学の学生もいるかもしれないが,三人とも記憶にはない。そのとき,レジをしている一人の店員が私の目を引いた。おそらく,アルバイトの女子大生だろう。この近くには,私の勤務する大学以外に何校かあるので,彼女が我が校の学生とは限らない。
そのアルバイト学生は,言葉遣いも上品で,明るくきびきびと働いている姿や,清楚な服装が好ましく思われ,ひとりでに視線が彼女のほうに向いた。前の二人のレジが済んで,自分の番になったとき,自分が彼女に曳かれた理由にやっと気づいた。彼女の下顎のふくらみ具合が知人の女性と似ていたのだ。そのことにはっと気づいて私は胸の動悸の高まるのが自分でもわかった。私は努めて平静にし,請求されるままのお金を払い,彼女がポリエチレン袋に入れてくれた古書を受けとった。彼女の態度は終始沈着で私の動揺に勘づいた気配は見られなかったので,私は安心して店を出た。
その知人というのは二年下の文学部の同じ学科の学生だった。同じ教授の下で卒業研究をして卒業後は岡山県の中学校に社会科教諭として赴任した。私はといえば大学院の途中で神経症にかかり,半ば休学のような状況であった。そこで,卒業と就職が決まった彼女に,私は別れ話を切り出した。
もとはと言えば,採用試験を受ける段階から私はそちらの方向の考えだった。広島県と岡山県は採用試験が同日にあり,両方を受験することは不可能だった。彼女の両親はもちろん岡山県に帰ってくることを希望した。私が大学院に残り彼女が広島県で勤めたほうがいいことはわかっていたが,私には健康に自信がなかった。このような状態で彼女と結婚してやっていく自信はなかった。だから,ここはひとまず彼女は両親の近くで就職し,私の健康が回復して,仕事についてから彼女を呼び寄せてもいいと思っていた。
年が明けても,私の健康は一向回復の兆しはみられなかった。むしろ,悪化しているというほうがよかった。無気力は益々つのり,時には思考が混乱した。また,何を読んでも,何を考えても長続きしなかった。
ときおり訪れる彼女の顔にも心無しが明るい表情が少なくなっていった。それは離ればなれになるという環境の変化への不安というよりも,私の健康への心配と,私への遠慮から明るく振る舞えないのではないかと思われた。こんな状況で,彼女を新生活に送り出すことに私は耐えられないような焦燥感を感じた。
私は二月のある日,混濁した思考の中で,最後の力を絞り出すような思いで,彼女に語った。
彼女の新しい生活を支えることができないこと。結婚の約束もできないこと。
新しい職場で,新しい仕事で,いろいろとストレスの多い中で,私のことにまで気を遣って貰うことが忍びないこと。まして,貴重な休日を使って,尋ねてきてもらったりすると,その負担をかけることに対して申し訳ないし,また申し訳なく思う自分の心の負担が増すように思うこと。だから,僕のことなど気にせず,精一杯頑張ってほしいと伝えた。
要するに別れ話であった。しかし,前から言おうと思っていた,いい人がいたり,いい出会いがあれば,そのチャンスを逃がさないでほしいし,僕のことは忘れて結婚してほしい,ということは言いそびれた。ここまで一息に言うことが残酷なように思えたからだ。未練がないわけではなかった。でも言うべき事は言った,と思った。
彼女は終始うつむき加減で,時々頷いていた。
彼女からは律儀に,手紙や挨拶状がきた。
彼女は学生時代から筆まめだった。春や夏の休みに帰省したときなど,長い手紙をよくよこしてくれていた。
自分の酔歩のような乱れた字に対して端正な字は美しかった。その美しい字をみていると万年筆を持った彼女の白い指が想像された。
それに返事を出さなければ,彼女は私のことを忘れてくれるだろうと思った。しかし,それも礼儀にかなわないし,不親切だし,また落胆させてもいけないと思い,返事は出した。もっともっとたくさん書きたかったが,忘れてくれと言った以上,いつまでも彼女を引き留めておくのも悪いと思ってできるだけ簡単に書いた。彼女には悪いが,こちらから手紙を出すことは控えた。ほんとうは,いろいろと尋ねてみたいと思った。いろいろと意見を交わしたいと思った。しかし,そうして彼女の思いを留めておいてはいけない,と必死で耐えた。
二年後のある日,彼女から電話がかかてきて,会いたいと言った。二人は会った。私のアパートに来て,最終列車で帰った。
「ごめんなさいね。わたしの我が儘を通しちゃって」
「そんなことはないよ。別れることを決めたのは僕なんだから」
「ううん・・」彼女はうつむきながら頭を左右に振った。「ごめんなさい。あなたを支えていくことができなくて」
ほどなく,結婚したという挨拶状が届いた。
時々年賀状が来たし,教授の退職パーティや出版記念会,古希のお祝いなどで,その後も会うことがあった。
年賀状には,男と女の子の名前が書かれて,その下に年齢もかかれていた。
アルバイト学生のバイクが信号無視のトラックと衝突して女子学生が死んだ。
町を歩いていて,彼女と会った。どうしたんだと言うと葬儀に来たという。
「実は双子だったの。女の子ほうは,子どものいない姉夫婦の養子にしてこの町で育った・・・」