難破
着水した救命ボートには乗員が二名ずつ乗っており、両側で懸命にオールを漕いだ。
「とにかく、できるだけ離れるんだ」
乗員の一人が言った。
「ベルサイユが沈んだとき近くにいたら、渦に飲み込まれてしまう」
もう一人の乗員が言った。二人は自分たちで、確かめるとともに、乗客たちにも聞こえたほうがいいと思って、できるだけ大声で話した。
「視界が悪い。他のボートとの間を充分とるんだ」
ベルサイユからどんどん離れて行く。
風は激しく舞っている。波も高い。
乗客は震えながら、じっと海を見ていた。
「乗客の方も周囲をよく見ておいてください。近くにボートが見えたらすぐに報せてください」
ベルサイユからの距離がとれて、余裕ができたのか、一人の乗員が客に向かって叫んだ。
「わかりました。……みんな、船員さんが言われたとおりだ。みんなで周囲を見張ろう」
年配の男が言った。この紳士は船首に近いところで、進行方向を向いていたので、自分が重要な役目を担っていることを自覚していた。
「そうだ、ただ座っているだけでは、申し訳ない。みんなで、周囲に注意しよう」
別の男が言った。
その男のとなりにいるイギリス人に抱かれて和彦は眠っていた。
「ありがとう。みんなお願いしますよ」
「ベルサイユから遠ざかるのだ。もう少しだ。まだ充分ではない」
二人の乗員は必死だった。せっかく救命ボートで脱出しても、ベルサイユに衝突したり、沈んだとき生じる渦に飲み込まれたら、その甲斐がない。
その次に危険なのは、他のボートとの接触だ。波が高い上に、接触でもしようものなら、ともに転倒してしまうだろう。これは当面、お客さんに任せて、二人のの船員はとにかく、ベルサイユから離れることに全力を注いだ。
風はますます強くなった。雨もいっこうに止む気配はない。
空には黒い雲が厚くおおっている。波にゆれる海面は黒々と光っている。風や波の音で、近くのボートの音は聞こえない。夜は暗くて、近くにいたボートも少し離れるとすぐに見えなくなった。しかし、ベルサイユの両側から降ろされたボートは、それぞれできるだけベルサイユから離れる方向へ漕ぎだしたから、半分は同じ方向へ向かっているはずだった。
「あ、ボートだ。あそこだ。右前方だ」
船首にいる男が大声で言った。
「見えたわ。たしかに見えたわ」
すぐうしろの婦人が言った。
和彦は目を開けた。さっきの男の声で目が醒めたのだ。
「ママ、ママ……」
和彦はすぐには、ここがどこだかわからなかった。しかし、美紀がいないことは確からしい。
見る見るうちにボートは近づい来た。
「左だ。左へ避けろ」
乗員が叫んだ。和彦の乗っているボートは大きく左へと旋回して、接触を避けた。
「おおい!」
乗客の一人が手を振った。しかし、相手のボートの声は聞こえなかった。手を振っているのは見えた。
和彦も騒ぎの中心になっているそのボートを見ていた。互いにゆられているし、雨の中だから顔まではわからない。
激しく風が吹いた。多くの人が顔を背けた。また、ボートが近づき、乗員が必死で漕いで再び離れた。
「リカー」
その、もっとも近づいたとき、和彦はそのボートの中に美紀ではない大人に抱かれたリカを見たように思った。
「リカー、リカー」
和彦は声をかぎりに叫んだ。しかし、その声はボートの接近にあわてて騒ぐ客たちの声に消されて、ほどんどの人に聞こえなかった。乗員の見事なオールさばきで再びそのボートは遠ざかっていった。
「わぁー」「わぁー」
「倒れた。ボートが倒れた」
遠ざかって、今にも視界から消え去ろうとするとき、そのボートは転覆したのである。
「おにーちゃーん……、おにーちゃーん」
「リカー、リカー」
和彦はそのとき、風の音にまじってリカの呼ぶ声が聞こえたと思った。
和彦も叫んでだいた。しかし、あっというまにそのボートは視界から消えた。
風が激しく吹いた。大波に激しくゆれ、乗客の何人かの悲鳴が聞かれた。
しかし、転覆したボートを救援するだけの余裕がなかった。自分たちのボートをいかに波に対して守るかに乗員は必死になっていた。
一方、乗員たちを乗せて最後に脱出した救命ボートの一つでは、気を失った美紀は横に寝かされていた。
「リカ! リカ! 待ってリカ」
突然美紀は起き上がり、ボートの縁に駆けよって海に飛び込もうとした。
驚いたのは乗員たちであった。さきほどまで、死んだように眠っていた美紀が、突然起きて、乗員が気がついたときには、ふなべりに立っていたのである。
「危ないじゃないか」
かろうじて美紀をつかんだ乗員はしばらくものもいえなかったが、やっとこれだけのことをいうと、大きく息をした。
「リカ! リカ! ママよ、リカ!」
「海の上だよ、ここは」
他の乗員が言った。
「離して、離して。リカがいるのよ。リカがいるのよ」
乗員に取り押さえられて、ボートの真ん中に座らされていた美紀は泣きながら叫んだ。顔には雨と波がかかっており、涙もすぐにそれらに混ざった。
「夢でも見ていたんじゃないか」
離れたところの乗員たちが話していた。
「ああ、リカ!リカ! ごめんなさいね。リカ……」
美紀は顔を両手で覆って泣きじゃくった。雨も風も依然として激しかった。美紀の長い髪に向かって雨は横なぐりに吹き着けていた。雨や海水で濡れ衣服の上を風が通り過ぎた。
黒い雲の下を救命ボートは激しく蹂躙されながら、木の葉のように舞っていた。