2019年7月17日水曜日

夕凪亭閑話 2012年4月 

 
2012年4月1日。日曜日。晴れ。
「明暗」の二十九から三十三を読む。叔父の所を辞す。昔、読んだとき、明暗は凄い小説だと思ったが、このところ、あまり感動がない。このようなシーンは覚えていない。こんな緊張感のない小説であったとは・・。
「二重人格」は第五章。自分の部屋に帰る前に、ついに自己から分離した自己の幻影を見る。とはいえ、乱れた神経を冷静に書くと、嘘になる。それを乱れたままにすると作品にならない。そこを作者はどのように自覚してこの小説を書き始めたのだろうか。
 
2012年4月2日。月曜日。晴れ。
「明暗」三十四から三十九を読む。朝鮮へ行くという小林とやっと別れて、帰宅する。翌日は、いよいよ入院して手術をする日である。

塩野七生さんの「ルネサンスとは何であったのか」はやっと、前半の第一部「フィレンツェで考える」を終わった。終わり頃になってロレンツォ・メディッチヤマキャベリが出てきて急におもしろくなる。残念ながら、これらのことは他の巻のことである。いずれ読むことにしよう。私の好きな、青春はいかばかりうるわし・・・という詩が「バッカスの歌」といって八番まであるとか。そして、吉井勇の「ゴンドラの歌」の命短し恋せよ乙女がまさに同じことを歌っており、そちららを旅行した上田敏あたりから聞いたことを歌ったのだろうと著者は想像する。なるほどと、思った。私は、ヘッセの小説で知ったが、辻邦生さんの「春の戴冠」の扉にも引かれていた。

さらに今日も暖かい日で、桜の蕾が一段とふくらんだ。今週中に咲き始めるだろう。

明日は荒れるとか・・
 
2012年4月3日。火曜日。嵐。
朝から雷。昼過ぎに大雨。雨があがると強風。天気予報通り嵐の一日となる。夕刻風はやんでいたのに、夜になってまた雨が降り出す。
「明暗」は四十から四十五。津田の手術は済んだ。お延は実家の家族と芝居見物に行く。「ルネサンスとは何であったのか」の第二部「ローマで考える」は法王庁主体のルネサンスについて述べる。主役はミケランジェロ。
「地中海」「西洋の没落」「遠い崖」を借りてくる。「天皇の世紀」は貸し出し中だった。それに既に借りている「歴史の研究」を加えれば歴史の海に浸ることができよう。この年になれば溺れることもなかろう。一つずつ終わってからと考えていたら、日が暮れてしまうだろう。ということで併せて読んで、おもしろそうなのが自ずと先行すればよいと思っている。もちろん、これだけに限定せず、興のむくままに他のものも参加ありだ。
「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄」は第一巻を読んだ(と思っているのだが)ところで、年をとってからでも読める、というまことに単純な理由で後回しにすると決めたのだが、その「後回し」がいつになるかもわからないので、併走にしようと思ったのだ。ということで、今回は二巻目。「薩英戦争」から。
「西洋の没落」はずっと前にまえがきを読んで、ニーチェとゲーテの影響を受けていると著者自ら述べていたのを覚えている。活字が小さいのが、老体には堪える。・・ということで、精神の活性化になるか混乱になるかは、わからない。
 
2012年4月5日。木曜日。晴れ一時雨。
本日は日中雨が少し降るも、桜の花が少し咲いて春らしくなった。
エアコンは止まっている。
塩野七生「ルネサンスとは何であったのか」(新潮社)を終わる。
予約していた「天皇の世紀」を借りてきた。

昨夜は、3月中旬の視察旅行の報告書を書いていただいたお礼を込めて、夕凪亭にて打ち上げ。
 
2012年4月6日。晴れ。
今日も桜が一段と花開く。家の前の公園の桜もやや咲きかけた。下のほうの桜は三分から四分咲きだろう。
前田宏一著「三島由紀夫『最後の独白』」(毎日ワンズ)を読む。自決直前のインタビューはこれまで公表されていなかったものである。
昭和45年11月17日。10時15分に訪問し10時45分までインタビュー。その日、新全集でも公開されている清水文雄先生宛の郵便を投函するところを目撃している。
 
2012年4月8日。日曜日。晴れ。
バートランド・ラッセル著、中村秀吉訳「自伝的回想」(みすず書房)を読む。
英語の参考書か入試問題かはたまた大学の教養課程の読本などでその断片を読み、偉大なる常識人に敬意を感じるものの、ハイデガーやフッサールやサルトルなど違って、その著作にあたってみようという気持ちがわいたことはなかた。それは、もっと難しいものを!という若者の奢りのような意識がずっとつきまとっていたからかもしれない。・・・もう、若くはないぞ、と思い始めて数年がたつが、わかりやすい人たちに耳を傾けてもいいのではないのか、と思うようになったのは、やはり年齢のせいだろう。
結論はやはり偉大なる常識・・・であった。ミルの自由論への思い、精神と物質についての見事な見解、そして歴史学への期待・・。ラッセルならではの智慧であろう。
 
「二重人格」は第六章。同じことの繰り返しではないか、と思いながらも、やはり話は展開していく。文章が短いのでロシア語と併読もよいかもしれない。
 
2012年4月12日。木曜日。晴れ。
どんどん季節は進んで、満開の桜は昨日の雨を境に散り始めた。わずか一週間ばかりの桜の季節であった。とはいえ、まだまだ桜吹雪は楽しめそうだ。
日記がおろそかになった。いつもの四月である。繁忙期の四月である。5月の中旬まで、年度当初の仕事が集中して落ち着かない日が続く。それでも暖かい日になったので、肩凝りが少し遠ざかったようでうれしい。
トインビーの「歴史の研究1」(長谷川松治他訳、経済往来社)をやっと読んだ。壮大な計画のもとに書かれた書だけに、期待はしているのだが、1巻は、概論でやや退屈であるが、ただ、日ごろ忘れている地域の古代史が出てきたりして、けっこう楽しい。しかし、深入りしないのが心残りでもある。
 
 
2012年4月15日。日曜日。晴れ。
満開の桜が至るところで、花吹雪を舞わせているのどかな春の一日であった。至る所、これで今年の桜は見納めといわんばかりに、人が出、散る桜を惜しんでいた。

「明暗」は 四十九から五十一を読む。面白くない。なぜだろうか。
「二重人格」は第七章。自分の部屋で、自分の幻想の分身と会話をする。奇妙なシーンではあるが、よく書きか分けられており、退屈はしなかった。
 
2012年4月16日。月曜日。晴れ。
ひとつ、大きな仕事が終わった。しかし、まだ騒擾の春は終わらない。
「明暗」五十二から五十四。劇場の食堂での会話。雑然としてまとまりがないというよりも、個性的描写に失敗している。
与謝野源氏で「松風」。例によって嫉妬の物語。明石の上と姫君を大井に住ませる。そこへ自由に通えない源氏。
 
2012年4月17日。火曜日。晴れ。一時雨。
水曜日。午後、にわか雨。
暖かい日が続いている。
皮膚科へ行く。右手の中指を中心に指のつけねが痒くて、しだいに皮膚が荒れてきたのだ。関節が裂けていたくなった。なにか病原菌のせいではないかと思ったが、そうではないらしい。薬を処方していただく。

「明暗」五十五 から 五十七 。お延は劇場から自宅へ帰る。こんな話があったかな、と以前読んだのと随分印象が異なる。 
 
2012年4月19日。木曜日。晴のち雨。
暖かくなった。夕方から曇り、小雨。二三日雨が降るかもしれない。
「明暗」五十八から六十一まで。「二重人格」第八章。いずれも、これといっておもしろい訳ではないが、真似のできない表現が頻出する。何年も読まれるものは違うという気持ちになる。
 
2012年4月20日。金曜日。晴れ。
「明暗」六十二から六十五まで。ここに来てやっと主題らしきものが現れた。お延が人を見る目があるということで、従妹の継子の見合いに呼ばれていたということが明らかになった。
「愛の渇き」(新潮文庫)を終わった。2度目である。もう何十年も前に読んだきりだから細部はあらかた忘れていた。今度読んで改めて、よくまとまっていると思った。代表作といっても過言ではない。そういえば、高校生のとき読んだ、新潮日本文学の第一回配本の三島由紀夫集の中に入っていたのを読んだのだから、三島作品としてはかなり早い時期に読んでいたことになる。・・・それから四〇年以上にもなる。
 
2012年4月23日。月曜日。晴れ。
松浦寿輝「不可能」の中の「一、地下」を読む。これは、奇妙な小説である。「平岡」と呼ばれる、男がいる。これは三島由紀夫の本名である。そして、平岡と呼ばれる老人は、首のところに傷のある、無期懲役囚で、仮釈放され、地下室のある家で優雅な生活を送っている。すなわち、三島由紀夫の自衛隊での事件が失敗し、自殺出来ないで、生き延びた三島由紀夫という想定らしい。何でまたこんな変な話を?と思ったが、読んでいると、これはこれで作者の人生探究の書なのだと思う。三島由紀夫への作者の思いなどというものではない。ただ、こんなに激しい風変わりな状況を仮定してまでも書きたかった作者の人生観に素直に耳を貸せばいいのではなかろうか、と続きを読んでみることにした。
家の前の街灯が青と白の発光ダイオードに変わった。美しい。
 
2012年4月24日。火曜日。晴れ。
松浦寿輝さんの「不可能」は二、川,三、鏡よ鏡,四、塔と読む。所々に三島の作品やモチーフを老年の平岡が否定する表現が出てくる。こういおう形で作者の超克が書かれているのであろう。自死に失敗した平岡が無期懲役囚ながら裕福なのは、三島作品による印税ということになる。ということは暗に作者は三島作品を認めているということになるのだろうか。それと、この作品中の平岡はウィスキーをよく飲む。三島さんはあまりお酒は飲まなかったように私は理解しているのだが、どうなのであろうか。
ハナミズキの花が満開で、至る所で目にする。遠く目には可憐であるが、近くで見ると、ガクが花の形になっているだけで、何とも気持ちが悪い。
急に暖かくなったのでメダカが浮いて逞しく泳ぎだした。しかし、例年より少ない。昨夏、卵から孵った稚魚をそのままにして、親池のほうへ戻さなかったので、結局数が減ったせいである。やはり、ほっておくとそこの広さに応じて数が制限されるようだ。
 
2012年4月25日。水曜日。晴れ。
夜になってまた雨。
昼間は暖かく春たけなわ。
もっこう薔薇が咲き始めた。


松浦寿輝「不可能」(講談社)の残りを読む。
最後になって、作者の時代を描く情熱を感じた。とともに、最後の「不可能」にいたっては、悪趣味になりかねないぎりぎりのところで、こういう作品を書くという行為に、感動に似たものを感じる。この松浦という作者の他の作品を読んだことはないし、ましてお会いしたこともないので、この人が三島さん流の「狂気」をどの程度内在させた人かはただ、この書だけで推し量るしかないのだが、その松浦さんの「狂気」と三島さんの「狂気」が共鳴したところで、この作品が成り立っていることがわかる。そして、それを推し進めめるものは、「情熱」以外の何ものでもなかろう。
 
2012年4月29日。日曜日。晴れ。
連休前半は孫が来て賑やか。

あまりによいお天気なので、読書が進みません。やっと「二重人格」の第九章を終わった。手紙編です。だんだんとこの世界を書くのに、大変だったことに気づく。
 
2012年4月30日。月曜日。雨後曇り。
孫と動物園に行く予定であったのに雨が降っているので中止。
この季節にしては寒い。
塩野七生「ルネサンスの女たち」(新潮社・ルネサンス著作集2)。中公文庫が本棚にあるが、こちらで読んでいみた。後書きに、処女作だとのこと。「ローマ人の物語」に比べたら、読みにくいが、細部にまで書いてあるので印象には残る。
 
 
 
今年22冊目。
塩野七生著「ルネサンスとは何であったのか」(新潮社・ルネサンス著作集1)。
今年23冊目。
前田宏一著「三島由紀夫『最後の独白』」(毎日ワンズ)
今年24冊目。
バートランド・ラッセル著、中村秀吉訳「自伝的回想」(みすず書房)。
今年25冊目。
トインビー著、長谷川松治他訳「歴史の研究1」(経済往来社)。
今年26冊目。
三島由紀夫著「愛の渇き」(新潮文庫)。
今年27冊目。
松浦寿輝「不可能」(講談社)。
今年28冊目。
塩野七生著「ルネサンスの女たち」(新潮社・ルネサンス著作集2)。