2019年7月13日土曜日

ふるさとの史跡をたずねて 第121-130回 


ふるさとの史跡をたずねて(121)

齋島神社  (因島大浜町黄幡)

 従五位下を授けられた隠島神社最後の候補は大浜町の齋島神社で、いむしま神社と読み隠島神社と同音である。とはいえ、皇太子神社を明治32年に今の名に変えた。だから、なぜ由緒ある名称を捨てていたのか、ということになると他の候補と変わらない。最近知人と話して、中庄町ほどの歴史はなかろうから、まず大浜は除外してよいと結論したばかりであるが、今回順に書いてきたので、再検討してみたい。

 因島の古い時代のことを考えるのに、三庄、中庄、重井浦の荘園時代が頭にあって、そこから発展してきたと考えがちであるが、それが過去を見る眼のフィルター、すなわち曇りガラスになっていないかと反省する。フランシス・ベーコンはそのような偏見のタイプを四つのイドラ(偶像)として示した。『ノヴム・オルガヌム(新機関)』(岩波文庫)によると、種族のイドラ(人間本性)、洞窟のイドラ(人間個人)、市場のイドラ(社会生活)、劇場のイドラ(学問)と呼ぶ。そういうものをひとつひとつ剥がしていかないと真実には到達できないというわけである。先入見を取去って考えてみることはなかなか難しい。

 古くは広畑の縄文遺跡があり、また後期弥生時代の大石遺跡(重井町)からも近く、古くから人が住んでいたことは確かだろう。また因島の大部分が干拓地であるのに対して、大浜町には扇状地が広がっていることに注意したい。扇状地は自然現象の結果であり、干拓地と違って土木技術の進歩を待つ必要がなかった。さて、因島大橋の下の海を和刈(めかりの)瀬戸と呼ぶ。和布刈神事(めかりのしんじ)というのは、神功皇后伝説にもとづく。近くに和布刈神社や住吉神社はなく、岩子島の白砂青松の海水浴場があったところは厳島神社で、関係はなさそうであるので、神武天皇御座石があり、またかつては御留松とか艫取松と呼ばれた、神武天皇が風待に船を留めた松があったということだから、伝説の上塗りのような形で和布刈神事があったのだろうか。こうしてみると、神武天皇伝説の真偽はともかく、大浜町の古い時代にもっと注目してもよいのかもしれない。




ふるさとの史跡をたずねて 
第122回 山口道路改修碑(因島中庄町山口)
話を中庄町権現の隠島神社に戻すと、ここから発掘された瓦が権現廃寺出土品として昭和39年に因島市の重要文化財になっている。なぜ、隠島神社の出土品と言わないのであろうか。また対岸の、と言っても今は陸続きであるが、熊箇原八幡神社にも隠島神社のことが書いてある。一見両社が我が社こそ従五位下の隠島神社だと争っているような構図だが、明治6年に権現の隠島神社から遷宮されたということであるから、権現の隠島神社は隠島神社跡で、従五位下を授かった隠島神社はこの地にあった、と主張しているものと解しておこう。なお、この地には多くの伝承があり、発掘調査をすれば何か出てきそうな予感がする。
こうして見てみると、いずれの神社も元は海の近くにあったようで、往時の景色は今のサイクリングロードなどと比べものにならないほど壮観であっただろうと思う。
それではどこまでが海だったのだろうかと、考えるとその先は際限がないので、程よいところ、少なくともこの辺は…というところを示しておこう。
山口の三叉路がある。右側を南へ進めば大山峠に至る。左手は奥山行きで、どちらも興味深いのだが、今は干拓の話を進めるので、深入りはしない。島四国井戸寺の二百メートルほど手前と書いておけば、だいたい見当はつくであろう。そこに彰功碑と書かれた道路改修碑がある。大正十年七月に建てられている。その三叉路で北を見ると少し低くなっている。ここまでが、かつて海であったと近くの方に教えていただいた。そこには石灯籠があったが道路拡張のため、少し上(南)に移築されたらしい。近寄ってみると献燈と石に掘られてあった。
三方を山に囲まれており、特にこのあたりの山は深く高い。何年にもわたって少しずつ土砂が堆積されたことだろうから、はるか昔には、もっともっと奥まで海であった可能性がなくはない。しかし、ここを起点にしても、広大な土地が干拓によってできていることがわかる。そして干拓地でも水はその周辺の山から、十分に供給され、人が住むことが可能だっただろう。

ふるさとの史跡をたずねて(123)

唐樋  (因島中庄町唐樋)

 前回のタイトルは、山口道路改修碑(因島中庄町山口)となるところが、前々回のままになっておりました。お詫びして訂正させていただきます。

 さて、中庄町には唐樋(からひ)というバス停があり、そのあたりを唐樋と呼んでいる。唐樋という以上は、唐風の樋門があったということである。その地名は多くの人に知られており、長い歴史があることがわかる。しかし、今ではゴミ集積場の方が目立って、史跡とか名所とかいうイメージとは遠い。

 堤防の下から水を排出するところが樋門である。それに対して上からオーバーフローさせて流すものを「イデ」とか「イテ」と呼んだから重井町の伊手樋というのは、かつてそのようなものがあって、それが地名として残ったのだろう。

 樋門には三形態があるようだ。一つは岡山県の児島湖の締め切り堤防にあるようなもので、管理所があり、複数の職員によって維持されているような大掛かりなもの。二つはめ地元の委託された人が管理しているもの。三つめは排水口に上部に蝶番のついた鉄扉が垂直に垂れており、水圧差で自動的に開閉するもの。近年大幅に変更されたのが、二つめのものである。

 唐樋も二つめのものに属し、設立時が唐樋と呼ばれる形式のものだった。それは三つめのものと構造は似ていたが材質と人が開閉するのが、異なっていた。後に改良されて、上部に轆轤(ろくろ)すなわち、滑車を付けて上下に上げ下げするものに変わった。このようなものを南蛮樋と呼んだ。

 南蛮樋から材質や上下させる機構が時代とともに変わったが、基本的にはこの形で維持され、地元の委託された管理人(樋番人)によって維持されてきた。しかし、人件費の高騰はこの世界にも影響を与えないわけにはいかなかった。電動化と増水時の排水ポンプの設置である。かくして、両方が設置されると、維持管理のことを考えれば機械的な制御よりも排水ポンプによる電気的な制御の方に利があり、それが主流になるのは必然であった。潮の干満とは関係なくある水位に達するとセンサーが感知してポンプが作動しているようだ。




ふるさとの史跡をたずねて(124)

油屋新開潮回し  (因島中庄町油屋新開)

 唐樋の内側(西側)に水郷地帯がある。と、書けばオーバーであろうか。飛ぶ翡翠の別名のあるカワセミが目の前を飛んで行った。慌ててシャッターを押したが、掲載できるものは撮れなかった。かつて野ウサギの時(場所は非公表)もそうだった。野生動物を写すのは難しい。

 さて、干拓地の防潮堤の内側には池があり、樋門やポンプによって排水されている。通常の河川と違い、こちらの方が海水面より低いせいだ。それで、潮が引いて、こちらより低くなったとき、樋門を開けて水を流した。水路を海面より高くすれば

よいのだがが、干拓地ではなかなかそうはいかない。

 このような池を潮回し(潮廻し)という。重井町ではタンポという。湯たんぽのタンポである。他の地域で潮待ちと呼ぶ人がいた。意味はわかるが、鞆や牛窓などの潮待ち港での海水の流れの方向が変わるの待つことを潮待ちというから、紛らわしい。おそらく潮待ち池の意だろう。そんな具合であるから、紛らわしい。かつて遊水池と私自身も書いたことがあったが、遊水池、遊水地には別な意味があるので、このような場所を呼ぶのは適切ではないようだ。ただ、場所によっては遊水池的役割を果たしているものもあるようだ。

 潮回しの役的は、低地ゆえに集まる水を溜めておく他、灌漑用水、塩害の防止などがある。しかし、近年その役目を終え、埋められたり狭められたものも多い。そして、そこが干拓地であったことすら、わかりにくくなっているところもある。だから、潮回しや樋門のあるところは貴重な干拓遺跡であり、産業遺跡である。そしてそこに行けば、先人たちが海に挑み、陸地を広げた苦労が偲ばれる。また、それを維持するのに膨大な費用を費やしたことも想像される。

 文政2年(一八一九)というから二百年前であるが、中庄村絵図には、既にここまで干拓が進んでいたことが示されている。そして唐樋の隣にはお社も描かれている。現在の唐樋明神社である。




ふるさとの史跡をたずねて(125)

           写真・文 柏原林造

大浜中庄村界碑  (因島大浜町新開・因島中庄町新開)

 唐樋のところは東西南北に道が分かれるのだが、少しずれていて、純粋な交差点とは言えない。だが、大浜町の方にも行かず、外浦町の方へも行かず、ジュンテンドーの方へも行かず、北側への最も小さい道を進んでみよう。この道より右側が大浜町で、左側が中庄町です、と書けばわかりやすいのだが、そうではないので、もうこれ以上説明はできない。住宅地図などを見てください、としか書きようがない。ということで、そのようなことは考えないで、まっすぐ進み、突き当たりを左折して注意深く右端を探すと写真のような石碑がある。

 この場所では右側が大濱村、左側が中庄村ということになる。あくまでも、この位置での話で、先ほど唐樋のところから進入してきたところではそうではないので注意が必要だ。

 何ともわかりづらい説明になって恐縮であるが、丸池からまっすぐ東へ歩くと山を越える前に大浜町になってしまうというわけだ。これには初めて訪ねたとき、驚いた。

 これは西の方から埋め立てたら・・と書けば、話がわかりやすいが、ここは埋立地ではなく干拓地である。鼠屋新開という。だから、唐樋に近いところに堤防を築き、水を抜いたら、新開地ができて大浜村とつながった、ということであろう。

 せっかくだから、ここを起点として、二つの峠道を記しておこう。まず、写真の右方向へ来た道を引き返し、唐樋の方へ行かず山の中へ入る。これが島四国の遍路道で大浜町最後の7番十楽寺から中庄町丸池傍の8番熊谷寺への道である。途中竹藪の中に手入れされた歩道があり、素晴らしい景色だった。しかし、残念ながら今ではイノシシに荒らされこの先、多くのところで道は壊されているだろう。

 もう一つは、写真の左側を上へ向かう道で、これは北に登る農道である。その先を越えるとた大浜町の見性寺よりさらに北にある村上氏先祖碑のところに至る。数年前に通った時も道らしきものは途中で消えていたから、現在でも通れないと考えた方が無難である。




ふるさとの史跡をたずねて(126)

新設道路開通碑  (因島大浜町)

 前回紹介した大浜町の二つの峠道を理解していただくためには、現在大浜中庄間の主要幹線である海岸道路のことを書かねばならない。そこで、中庄町から大浜方面へ左側に注意しながら海岸道を進むと、山側の花壇の間に写真のような石碑がある。多くの人が途中止まることなく進む道であるから、注意しないとわからない。だから、脇見運転をすすめるような説明になって恐縮であるが、ご寛恕願うしかない。八重子島の前までは行かない、と書いておこう。

 この石碑には、「新設道路開通記念碑 寄附者 久保田権四郎 大正十二年四月 大濱村建之」と書かれている。島内に多くの道路改修碑があるように、たいていが「改修」であるのに、ここは、「新設」であることに注意したい。すなわち、大正12年までは、ここには道路はなかったと考えられる。もちろん、海岸のことであるから、潮が引けば通れたところがあっただろうし、人一人がかろうじて歩けるほどの崖道が部分的にあったかも知れない。しかし、急峻な斜面や、長い曲がった海岸線を考えれば、道らしきものはなかったと考える方が自然である。

 この石碑の左側面には「自大濱村至中庄村 海岸線 自大濱村至重井村大池奥崩岩線 総工費貳万五千圓」、右側面には「大正十年九月起工 大正十二年三月竣工 石工 小林茂三郎 濱井房信 彫刻 須山辰次」、また裏面には当時の村長以下役員の氏名が彫られている。

 重井村間の大池奥崩岩線というのは、現在のしまなみ海道の側道の原型となった道路で、因島北インターと因島北インター(北)の信号間にある塞の神のところに出ていた道である。この道をここから入ると、しまなみ海道と交差して消えている。

 この二つの道路が久保田権四郎さんの寄付によって新設されたわけである。それまでは船の利用もあったであろうが、多くの人たちは峠越えをしていたのである。現在と違って多くの山が山頂近くまで耕作されていたので、峠道は今では想像できないほど整備されていたのである。



ふるさとの史跡をたずねて(127)

因島八景・第二景  (因島大浜町)


 大浜中庄海岸道路の新設道路開通記念碑まできたら、すぐ先に因島八景第二景の石碑があるので、見ておこう。「因島八景     

 大浜海岸から八重子島を望む景観」と書かれた石碑が左手、すなわち崖の下にある。すぐ先に駐車スペースがある。

 しかし、その八重子島と石碑は反対方向にあるので、同時に撮影はできないので、、別々に写したものを並べて表示しておく。八重子島の入らない方向でも十分に楽しめる光景であるが、あえてこの位置で八重子島を入れているのには、背後に因島大橋が入るからである。

 空、橋、海、島、山は光の具合でいかようにも変わる。さらに海は潮位によって高さも変わる。また、船などが入れば、まさに千変万化で、同じ写真は二度と撮れないということになるではないか。

 こういう場所が近くにあるということは、とても幸福なことである。・・・しかしその幸福感に酔ってばかりはいられない。目を右に転じてみよう。梶の鼻の向こうに見える島が横島である。東側の田島とは陸橋で結ばれており、田島は橋の途中で曲がっている内海大橋で沼隈半島と結ばれている。田島と横島が福山市内海町である。田島の西側、すなわちこちら側を大浜海岸という。といことは海を隔てて両方が大浜なのである。

 因島の荘園は後白河法皇の所有だったので近くの浜を法皇の浜、法皇浜と呼び、皇浜を大浜と書いたのかも知れないが、ただ大きな浜という一般的な呼称の可能性が高いと思う。




ふるさとの史跡をたずねて(128)

           写真・文 柏原林造

鼠屋新開 (因島中庄町新開)

 中庄村史によると土生谷新開が完成したのが天正元年(一五七三)年で、鼠屋新開ができたのが貞享2年(一六八五)年であるから、およそ1世紀ののちであり、土生新開が特別に早かったということである。だから、土生新開が鹿穴の土生神社から下の谷が平地になったあたりから、仮に丸池あたりまでが、出来上がっていたとしても、それから先は海で、村界碑がなくても、中庄湾の北側は依然中庄村と大浜村が海で隔てられていたということになる。それが江戸時代になって鼠屋新開によって大浜村と続いたということであろう。

 村界碑の近くに道路改修碑のほか、古い石仏があり、おそらく中庄村四国八十八ケ所の一部だと思われる。その後ろがゴミステーションである。

 そしてその道路改修碑の反対の電柱の傍に「ねずみや新開 貞享二年」と書かれた、剥げかけた看板があり、ここが鼠屋新開であることがわかる(写真)。

 それにしても、土生新開の名前の由来も面白かったが、こちらもなかなか面白くて、いろいろ想像してみたくなる。小学生に自由に考えさせたら、笛を吹いてねずみをおびき寄せて・・という有名な話に似た作り話をしてくれるであろう。

 今の子供たちはネズミは見たことがなくても、ハーメルンの笛吹き男の話はよく知っている。どこか怖いようで、一方ではもの哀しく、なおかつ民衆の貧しい生活も透けて見えるようなエキゾチックな話で、こども向けの童話として読まれているが奥が深いようである。

 多くの子供たちが不幸な事故にあったということと、他郷から来た旅芸人に町の執政者が冷淡で、おまけに約束を反故にするという非人間的扱いをしたという、二点が少なくとも読み取れる。中世のドイツのことであろうが、日本の近世農村社会の風景と重ねても、そんなにかけ離れているようには思われない。

 時代はやがて元禄時代に入るが、その華やかなイメージとは裏腹に、生産者に対して消費者が多すぎる徳川時代は、そのシワ寄せが農村にのしかかったのは周知の通りである。


 

 





1685     貞享 2     鼠屋新開築調吉右衛門なるものの築調で屋号の鼠屋をとって名ずく  広さ1125 

と中庄村史

には書いてある。「1573 天正 元 土生新開竣工す」の次の干拓である。


ふるさとの史跡をたずねて(129)

唐樋明神社 (因島中庄町唐樋)

 鼠屋新開の次は油屋新開である。油屋新開が中庄町最大の新開であることは、以前紹介した潮回しが最大であることからも容易に想像できる。さらに、油屋新開の歴史はもうひとつの新開の歴史を含む。すなわち前新開の歴史である。

 前新開というのは、庄屋又兵衛が発起した村をあげての事業であった。地蔵鼻から徳永山鼻間に捨て石をした。片刈山の東端から南へかけての辺りであろう。完成する前の元禄13年(千七百)に豊田郡小田村の庄九郎という人物が、その沖に干拓することになったので、こちらは途中で中止した。庄九郎は元禄16年まで工事を続けてひとまず完成したのであろうが、宝永4年(一七〇七)には倒壊した。      

 その後、尾道町油屋庄左衛門等によって再度干拓が試みられ正徳3年(一七一三)に完成した。油屋新開である。これによって前新開も同時に完成した。

 私の60年以上前のかすかな記憶では、当時の因ノ島バスはボンネットバスで、未舗装のデコボコ道を砂ぼこりを上げながら走っていた。青影トンネルはまだできていなかったから、西浦峠は登れなく重井町経由で中庄町、大浜町へと走っていたと思う。

 今はゲートボール場になっている片刈池の前を通って、南に進むと堤防の上に出た。そこで東へ左折して、入川橋の先でまた左折して北へ向かい唐樋を経て大浜町へ入った。すなわち、油屋新開を囲むようにバスは走っていたのではないかと思う。

 因北小学校の正門前の道の当時の様子は覚えていないので、小学校移転に伴い東へ寄ったのか、元のままなのかはわからないが、おそらくこの辺りが前新開との堺ではないかと思う。

 唐樋の配水場の隣に唐樋明神社、すなわち三社明神社が建っている。防潮堤を海水から守るとともに、油屋新開を守ることも願って建立されたものだと思う。





ふるさとの史跡をたずねて(130)

菅原神社 (因島中庄町天神)


 油屋新開の沖に蘇功新開がある。新入川橋を超えて、外浦町の方へ行った

ところである。外浦町でなく中庄町になる。海をどんどん干拓していけば、よその町村の前に至る。今も昔も複雑な問題である。しかし、原則はその工事をしたところの所有にあるのであろうが、感情的にも面白くないと思う。その蘇功新開の工事の苦心は吉助洲に象徴されるように難工事であった。

 中庄町柏原氏の祖は今でも天満屋と呼ばれている。初代の権右衛門が宝永7年(一七一〇)に菅原神社(写真)を勧請し、その近くへ住んでいたからである。重井の柏原家の分家らしいが、川本、蔵本、中屋等どこの柏原家かはわからない。まだ屋号が付いていなかった時代の分家ではないかと、私は想像する。

 その中庄町柏原氏本家の7代吉助が歴史に登場するのは寛政の頃である。(一七八九頃)。

 土生新開を作った宮地家の子孫である、竹内与三兵衛の依頼で、数年にわたって海に石や砂を入れた。これを吉助洲と呼んだ。しかし、水泡に帰した。こういう失敗談は色々と脚色されるものであるが、重機のない時代の干拓の苦労を伝えるものだから、無批判に紹介しよう。

 膨大な費用をかけて吉助洲ができた。そして酒肴で完成を祝った。しかし、翌朝見ると堤防も石も海の底に沈んでいた。

 与三兵衛は広島藩から資金援助を受け、再普請を試みた。与三兵衛は茅屋に住み「放蚊亭」と称して蚊帳も吊らずに辛抱したが、生存中には完成しなかった。工事はその子与三兵衛長光によって天保14年(一八四三)に完成された。蘇功新開である。