2019年7月18日木曜日

夕凪亭閑話 2011年11月 

  
2011年11月1日。火曜日。晴れ。
11月になった。最近日記が途絶えがちになった。心に余裕がないということだ。

昨日は凄い霧。
今朝はおだやかな天候。秋晴れの一日。
灯油を買ってくる。

桐野夏生著「ナニカアル」(新潮社)は林芙美子の戦時中の行動を推定して小説化したもの。力作である。現代小説のように見えるが、歴史小説といってもいいかもしれない。
 
2011年11月2日。水曜日。晴れ。
弱い日射しです。7時40分になってやっと照りだした。明日は文化の日でお休み。

昨日は息子の初出勤の日。大学院を辞めて就職したので11月入社ということになったが、ともあれ独立してくれた。これでやっと「三人の子どもたちも独立し・・」と言える。

私は浪人して、大学を4年で卒業したので、働き始めるのは、息子のほうが少し早い。

白州正子さんの「西行」を今日こそは読んでしまいたい、と思っても、なかなか進まない。熊野詣も当然している。健脚の人である。いくら都からは近いといっても、凄いことだと、思わざるを得ない。先年、職場の旅行で訪れた。おりしも、世界遺産に登録されて、盛り上がっていた頃である。熊野古道をハイキングよろしく歩くのもコースにあった。なんということもない。山道を歩く。ここらの山道とたいして変わらない。ただ、ところどこにある石像だの、木で作ったそれらを覆う祠だのに、○○王子と名前がついていたことには驚いた。

西行といえば、白峰のことも思い出す。西行の史跡を訪ね歩いていた訳ではない。四国88カ所のお寺巡りをしていたとき、白峰寺という名前に、雨月物語の「白峰」を思いだしたのだ。ああ、あの話はここが舞台だったのかと。そして御陵もあった。白峰に詣でる西行の気持ちを歌とともに描いてみせる。体制側から見れば、危険な人物に違いない。しかし、西行は、捕まることはない。出家僧というだけで、あれだけ自由に活動できたのが、不思議といえば不思議である。

白州正子著「西行」(新潮社)は1988年、すなわち昭和が終わりかけた頃の作品である。
 
2011年11月3日。木曜日。文化の日。晴れ。
文化の日である。
朝から曇って、やや肌寒い。とはいえ、例年に比べたら暖かい秋の日だろう。
さいわい予定もなく、のんびりと過ごせそうだ。

渡辺淳一「失楽園 上」(講談社)。かつてベストセラーになり映画にもテレビドラマにもなった著名な作品である。子どもが買ってきて二階の本棚においてあったので読んでみた。物語展開のうまさは、さすがに渡辺氏の腕の確かさを感じさせる。上巻は阿部定事件のことに重ねながら、一方では破滅の予感を抱かせながら終わる。
 
2011年11月4日。金曜日。晴れ。
曇り空の金曜日。昨日が休みだったので月曜日のような感じ。

暖かい日が続く、と思ってもよいのだろうか。20℃前後で落ちついている。朝、少し暖房を入れるが、すぐに消してもよい程度。


坂東真砂子さんの短編集「パライゾの寺」(文藝春秋社)は、さすがにベテラン作家のものだけあって、それぞれの作品が見事に完結しているのが小気味よい。
「まんなおし」は漁業や船舶関係者の縁起かつぎということが主題のように見えるが、実は女の意地を書いたもの。
「残り香」は幼児に鍛冶屋の父の仕事場を見ていて失明した男の体験談。
「パライゾの寺」は隠れキリシタンが明治維新でキリシタンであることを明かして捕らえられたという、よく知られた事件の高知での後日談。パライゾとはパラダイスのことか。
「虫の声」は酒飲み男の家庭崩壊話に自由民権運動を絡ませた凄惨な短編。「六部さま」は遍路の行き倒れになったものを祀っているところ。妻子を見殺しにした男が悔いて遍路中に死んだ。そのゆかり。
「朱の棺」は戦死した息子への母の思い。
「お接待」は集中最高の傑作。若き日に縁のある村を尋ねた老人に起こる怪異。
 
2011年11月5日。土曜日。雨。
朝から雨。嫌な雨だ。


坂東真砂子さんの短篇集「神祭」(岩波書店)もおもしろい。

「神祭(じんさい)」は秋祭りといっても神社だの御輿だのは出てこない。親戚中が集まってくる。そして、多くの小説にこれでもかこれでもかというように出てくる「跡取りはまだか」、すなわち、男の子はまだ生まれないのかというテーマに話題が集中する。一番悪いのは姑、すなわち義母。その次に悪いのが夫、と相場は決まっている。叔父が夫に鶏の生き血を飲むと精がつくなどといって、その日の料理に飼っている鶏の一羽を殺すところから騒動が起きる。首を切られた鶏が逃げてしまった。鶏に味方していた主人公はその後妊娠し男の子が生まれた。乾涸らびた鶏の頭部をお守りにしている。四〇年後、頭のない鶏が走り出て、頭部と合体して消えた。

「火鳥(ひとり)」はミズヨロロという鳥を食べて火事で家と家族を失った寡婦と少年の恋。少年が見ている前で寡婦と男は焼け死ぬが遺体は一つだけ。少年は寡婦が生きていると信じたまま年老いて死ぬ。

「隠れ山」は公務員をしている夫が突然失踪する。家族に思い当たることはない。ここまではよくあるパターン。しかし、記憶の襞を少しずつ開いていくと・・・。それまでに消防団の活躍などがユーモラスに描かれている。失踪というのは事故かもしれないし、意図的な家出かもしれない。そこのところが残された家族にはわからないことがよけいに感情の整理をつかないものにする。事故なら失踪した者に対して同情し、なぜ防げなかったのか反省するとともに万全の対策をとる。意図的な家出なら、同情と言うよりも、残されたものへの裏切りだと思うのがまず普通の感情だろう。切れかかっていた糸が完全に切れたことの証明でもある。

「紙の町」は頭が弱くて性に放縦な子が、村で起こった悪いことはみな彼女のせいにされるという話。

「祭りの記憶」は戦後、父が戦死した少年がアメリカ人、イギリス人を殺す事件を起こす話し。戦後数年たって生まれた私が小学校に通った頃は随分と戦後教育は角が取れて落ちついていた。しかし、米英憎しの感情、逆に言えば愛国心はすっぽりと抜け落ちていた。そういう意味でこの小説は画期的な作品だと思う。
夕方、小雨の中を散歩していて、街灯が蛍光灯から発光ダイオードに換わっているのに気づいた。すべてではないがかなり変わっていた。次第に換えていくのであろう。
 
2011年11月6日。日曜日。曇り時々雨。
曇り空の日曜日。気温は20℃ぐらいでいつもよりも暖かい。
朝から因島へ。小雨が降ったりやんだりしていたが庭木の剪定。山桃の先を切り短くする。

皆川博子さん短篇集「少女外道」(文藝春秋社)はいずれもオール讀物に掲載されたものだが、私が購読を中止してからのもので、はじめて見る最近の作品である。
「少女外道」は出入りの植木職人の家族との交流。少女は画家になり、出入りの次男が戦後植木屋を継ぐ。血を嗜好することが恋愛感情の発露であるというやや難しいテーマである。
「巻鶴トサカの一週間」はトサカ婆さんが亡くなって火葬にされるまでの一週間ということであるが、ほとんどが最後の一日のことである。娘息子孫と係累は増えている。その中に憧れの画家がいた。
「隠り沼の」は新興宗教の集会に連れて行かれる少女の覚めた眼がとらえる世界。
「有翼日輪」は少年が同級生の兄の左官に恋するという三島由紀夫さんが生きておられたら絶賛されたかもしれないような作品です。でもその心理は理解できなかった。
「標本箱」は叔母の遺品の標本箱に入った堕胎された子どもの骨の霊があらわれるというせつないファンタジー。
「アンティゴネ」は終戦直前直後の勤労動員された女学生とその周囲におこる悲話。
「祝祭」は女流作家の幼児を記したものである。大地主の伯父の家で父母を亡くして育ててもらったが戦後伯父は没落して死に家を出る。
 
 
2011年11月7日。月曜日。晴れ。
久々によいお天気。
月曜日。仕事。忙しいのでおにぎりを作ってもらってもっていく。
昨日の剪定で、朝起きるとからだのほうぼうが痛い。体操をしたり押さえたり、ラブローションを塗ったり・・・いろいろとやってみる。

光原百合「扉守  潮ノ道の旅人」(文藝春秋社)はかつてオール讀物で読んでいた短編連作である。尾道だとわかるのに潮ノ道、向島は唄島、というように地名を変えてあくまでもフィクションとしているのだが、どうもこういうのは目障りである。作者が後書きで明言しているし、多くの事実を現実のものにあわそうとされているのは方々でわかるのだから、地名を別名にする意味はないようにわたしには思われる。

「帰去来の井戸」といのはその井戸の水を出て行くときに飲むともう一度帰って来られるという伝説の井戸の話。
「扉守」は人についてその人に変わって話をしたり、その人と話をしたりするという変わった霊のはなし。天童さんの「悼む人」に出て肩に乗った霊と似ていなくもない。でも悪霊ではなさそう。扉守と自ら名乗る。この霊のシリーズものかと思ったがそうではなさそうである。

「桜絵師」は乱歩のように少女が絵の中へ入ってしまうという小説で集中の最高傑作。

他に「写想家」「旅の編み人」「ピアニシモより小さな祈り」があるが、素晴らしい描写に出会ったと思ったら変な地名などでしらけてしまう。
 
2011年11月8日。火曜日。晴れ。
火曜日の朝だ。昨日に比べたら気温は低し、曇っていたが7時半を過ぎる頃から弱い日が照りだした。
季節はだんだんと冬に向かっていく。
やっと咳がおさまったようだ。長かった。いろいろと薬を変えてもらい、いまの薬はよくあっているので、さらに5日分出してもらった。ますます減っているから快方へ向かっているのだろう。


スクールバスが何度か通過する。49分に通過したのは大門駅北を45分に出たバスだろう。バスで4分ぐらいかかるのだろう。歩けば20分はかかる。

予約していた沼田まほかるさんの「猫鳴り」(双葉社)がまわってきたので読むことにする。これは長編小説。「海鳴り」というぐらいだから、猫鳴りというのは猫の鳴き声のことだと思う。
その猫は最初からずっと出てくる。そして老いる。人も老いる。だが、物語ははじまらない。
2011年11月9日。水曜日。晴れ。

寒い朝。 最低気温は10℃だったようだ。6時半から朝ご飯を食べて、咳と高血圧の薬を合計5種類も飲んで、新聞をゆっくりと見る。それから夕凪亭に入ると15℃。ファンヒーターを入れて水の本を少し読んでから、室温が上がったところでラジオ体操。毎朝毎晩やっているのに、いつも身体が堅く感じられる。まるで古い機械のようだ。私の住む地域でもお年寄りが公園でラジオ体操をされているが、矍鑠として元気なものだと感心する。

さて、今日は坂東真砂子さんの「善魂宿」(新潮社)と「快楽の封筒」(集英社)をよむことにする。結局この二冊は挫折。

2011年11月10日。木曜日。晴れ。
実力テストの採点、休暇、出張と忙しい。

今日は午前中3時間授業。午後は先日の土曜日と振り替えて休暇。
明日から松江に出張。若い人に行ってもらい私は行かない予定で計画していたのが変更になったので、仕方なしに行く。

昨夜遅く、息子に電話。皇居のまわりを2周走ってきたとのこと。帰り道は明るく車の往来も多く治安は大丈夫だろうとのことだった。

2011年11月11日。金曜日。晴れ時々小雨。
今日から松江に出張。7時半発。少し小雨。
 
2011年11月12日。土曜日。晴れ。
松江に行ってきた。
出雲大社では神在月の大祭で今日の12日は神様のお帰りになられる大祭の日とか。
1泊の出張でもかなりくたびれる。年をとったものだと、つくづく思う。

2011年11月13日。日曜日。晴れ。
実家へ行って剪定。
今日は、ウバメガシとモッコクのような木と金木犀。ふたつは高いので落下防止のロープをつけての高所作業。
今日で大きなものがほぼ終わったので、来週からは切り枝やこまかい修正や松などへ入る。松は難しくて本質的なところは、再度本で勉強しなおさないといけないと思っている。

2011年11月14日。月曜日。晴れ。
朝5時に起きる。ファンヒーターを入れて、ベッドの上で毛布をかけて本を読む。寒い。温度設定20℃では早朝が寒いのだ。炬燵がほしい、と思う。
去年はベッドの上に置いた。動きが悪くなるので健康上よくない。

2011年11月15日。火曜日。晴れ。
早いもので11月も半ばになった。
慌ただしい生活が続く。少し読書の傾向が変わり、古いものを手当たり次第に読んでいる。それぞれにおもしろく、新しいものに眼が行かない。
一段と寒くなった。冬が近い。

2011年11月16日。水曜日。晴れ。
退廃的な読書の日々。
最後までいかない。つまみ食い。
血肉にしようとも思わぬが、元気の出るものを読むべきだろう。

2011年11月17日。木曜日。晴れ。
若い人2二人と飲む。
大学院時代の同級生と12年ぶりに再会。18日の研究会に合わせて、夜福山入り。
一度帰って、車を置いてから自転車で学校まで行く。そこで、若い人と合流して福山駅へ。そして3人で会場へ。久し振りにビールを飲んで、車で送ってもらう。
2011年11月18日。金曜日。雨。
公開研究会。
懐かしい人たち多数。夜、打ち上げ。
ウーロン茶。8時半には帰る。
2011年11月19日。土曜日。雨後曇り。
冬の雨が昨日から続いている。
今朝も引き続き、本格的な雨。


本日は8時頃雨の中を出て、山陽道経由で因島へ。
まずは、散髪。
昼食後、雨が止んだので、松の剪定。それと山桃の小枝の移動。

帰りに、しまなみ海道へ因島北から入ると。電光掲示板に「因島北-向島 自転車有り注意」と出ている。2度見た。荷台から自転車が落ちて、転がっているのかもしれないと思った。しばらく、いや、入ってすぐのところに、パトカーの点滅。自転車を持ったお兄さんが停められていた。そういうことだったんだ。どう処理したのだろうか。少し行ったところに大浜パーキングがあるので、そこから降ろす。パトカーが先導するのでなく後からガードしてついていくのが一番安全だ。ゆっくりと押して歩いて、戻らせて因島北からおろさせる。大きな車を呼び、載せて移動。時間がかかるし、ばかな話。

「1Q84」の2章に入った。ふかえり と 「空気さなぎ」。またまた新人賞だの文学賞だのという話で、うんざり。それで、これは、今日は、ここまで。誰の作品かも覚えていないが最近読んだ小説にもあった。フィクションの中に新人賞だの文学賞だのを出さないといけなくなったらおしまいだ。そんな自家中毒のようなものを書き、それを読むのがそんなものの話題に興味をもつとしたら、まるで無限大のフィクションの世界が収束してしまうではないか。

読書が進まない。断片的には読んでいるが。 
2011年11月20日。日曜日。晴れ。
風が強い。冬になった。

暖房が必須だ。

「1Q84」は二章を終わった。結局、「空気さなぎ」女子高生が書いた出来損ないの小説を主人公が書きなおすことになった。
2011年11月21日。月曜日。晴れ。
 
2011年11月22日。火曜日。晴れ。
朝5時に起きる。10℃だ。寒い。なかなか暖かくならないので厚着する。
2011年11月23日。水曜日。勤労感謝の日。晴れ。
週のまん中での休日。
雨が降りそう。
2011年11月24日。木曜日。晴れ。
朝も寒い。
教室ではエアコンを入れている。

いろいろな外国語。日本の小説はすすまない。


今日は整体の日。首のところが凝るという話で、寝ころんで頭を上げるのはやめたほうがよいとのアドバイス。首はいろいろな神経が通っているし、血液の流れが悪くなると、眠れなくなり、鬱になるとのこと。気を付けよう。
 
2011年11月25日。金曜日。晴れ。
三島さんの命日。家でゆっくりと全集のどれかを開いてみたいところ。
だが、夜の街で夜会。
 
2011年11月26日。土曜日。晴れ。
朝、コーヒーハウスでワッフル。
2011年11月27日。日曜日。晴れ。
因島で剪定。といっても、今日からは細かいところの調整と松へ。
 
2011年11月28日。月曜日。晴れ。
今日は朝から東広島市へ行って90分の講義。こちらの授業は3時間あったのだが、すべてプリントで自習。

昼過ぎに終わって、桔梗さんに作ってもらったおにぎりを食べながら帰ってくる。
一クラスは少し間に合ったのですが、まじめに(?)自習をしていたので、邪魔をせずに頑張ってもらう。

その後、少し余裕がでてきたので、物理の本などを読む。数式が出ても解いたり誘導したりせずに、ひたすら読むことにする。数学の公式でも受験生ではないのだから、証明など気にせずに使おう。

「物理の散歩道」というのは今では古典的な作品であり、先頃、筑摩学芸文庫にも収載された。古い単行本を借りてきて少しずつ読むことにしようか。以前一冊だけ買って読んだことがある。それに当たれば飛ばすことにしよう。

まず最初の本。「つめこむ」。結晶のパッキングのことか思ったら電車への人のつめこみのような話。こういうのは寺田寅彦向きである。
 
2011年11月29日。火曜日。晴れ。
不思議なことにまた暖かくなった。
最低気温10℃だから、かなり暖かい。

「物理の散歩道」の「すてる」「くっつける」を読む。今でも通用するテーマだが、初版は昭和38年。書かれたのはもっと以前。ということで、当然内容はやや古い。現在ではまた違った考察が加納だろう。捨てる・整理するのにパソコンの威力は欠かせない。先日、息子が引っ越しするのに、300冊をpdfファイルに変換したと連絡してきた。私には考えられないことだが、若い人たちにとっては、ということは今後は、それが当たり前になるだろう。

接着剤はかのアロンアルファをはじめとして、驚異的なものが出たし、分子間力などの原理もよく言われるので、こちらも時代に進歩にあわせて書き直したらよいと思う。
 
2011年11月30日。水曜日。曇り。
今日も暖かい。だが夜雨予報。
今日で11月も終わり。
前半は読書三昧。後半はその反動ではなく、いろいろと行事で寸断されたので、少し生活を反省。

綿矢りさの「夢を与える」を少し読む。幼児から写真モデル、そしてコマーシャルモデルとして人気者になる少女が主人公。なかなかよく書けていて、おもしろく読める。

かつても書いたこともある、季刊「考える人」が行った海外小説ベストランキングの20位以内のものを原語と翻訳でそろえようと思って少しずつ増やしていたが、「ロリータ」の原文がないことに気づいた。ロシア語だと思っていたが、英語のようである。アマゾンで注文した。1000円ちょっと。
 
 
今年118冊目。
桐野夏生著「ナニカアル」(新潮社)。
今年119冊目。
白州正子著「西行」(新潮社)。
今年120冊目。
渡辺淳一著「失楽園 上」(講談社)。
今年121冊目。
坂東真砂子著「パライゾの寺」(文藝春秋社)。
今年122冊目。
坂東真砂子著「神祭」(岩波書店)。
今年123冊目。
皆川博子著「少女外道」(文藝春秋社)。
今年124冊目。
光原百合著「扉守  潮ノ道の旅人」(文藝春秋社)。
今年125冊目。
沼田まほかる著「猫鳴り」(双葉社)。