2019年7月18日木曜日

夕凪亭閑話 2011年7月


2011年7月1日。木曜日。雨時々曇り。
7月になりました。今年も後半へ。
雨のスタートです。
昨夜は障子を開けて、エアコンをつけず、扇風機を中で2時間タイマーで寝ました。朝6時前に目ざめ雨が降っていました。喉がかわいています。扇風機の風を当て続けるのは、ほんとうはよくないのですね。

雨が降って、気温は少し下がって、しのぎやすくなったのですが、今度は湿度が気になります。そこで、今朝は除湿のためにエアコンを作動させています。「除湿」にしなくても「冷房」で充分です。

二階も少しエアコンをいれておこうか。昨日までは窓をすべて開けておくので除湿効果はあったと判断したのですが、今日はエアコンを少し入れるだけで、快適+除湿が可能でしょう。

昨日は「黒死館殺人事件」と「死の家の記録」(全集)を返し、「国銅」を借りてきました。全て途中です。

ロラン・エディゴフェル著、田中義廣訳「薔薇十字団」(文庫クセジュ・白水社)をやっと、終わった。前半は薔薇十字団の基本文献、「ファーマ」「コンフェッシオ」「化学の結婚」の意味解きで、これはこれでおもしろい。そして後半、「化学の結婚」の著者アンドレーエについて、そして背景、さらに影響が記述される。なかでも多くの作家が取り上げ、その影響を作品上に反映しているという紹介がある。これはこれで読書リストに加えておかなければなるまい。また、ヨーロッパ、アメリカでのその後の類似団体の興世が紹介されているのも楽しい。こういう次第だから、小さな本であるが薔薇十字団についてはかなりまとまった本だろう。
 
2011年7月2日。土曜日。曇り。一時雨。
7月最初の土曜日は、曇り空です。
山梔子はほぼ終わりかけ、南天も花の大部分が散りました。まだ少し残っているかな。紫陽花は健在です。百日紅はにょきにょきと新芽を伸ばして緑の葉というよりも新しい枝になっていますが、花が咲くにはもう少しです。

除湿が目的で、各部屋のエアコンを少しだけ入れています。周囲の廊下も含めて、僅かの時間入れるだけでかなり除湿できるようです。

今は、土曜日はフルタイムでお休みです。でも職場ではかなりの方々が土曜出勤されているようですし、この傾向は益々増加しそうですね。

私の仕事歴では、昭和50年の民間会社では、まだ土曜日出勤でした。ただ、午後は内勤ということでしたが。それから岡山県で11年。最後の1年は、教育センターで、事務職員の4週2休とかいう試行制度下で、隔週に休みでした。そんな時は、幼稚園に通っていた長女を迎えに行ったりしました。岡山の芳泉高校の傍に廃線になった臨港鉄道のレールが残されており、好奇心の強い長女はその上を歩くのが好きで、よく通りました。

その後、福山へ来てからは1週間に一度職場を離れて研修することが許されておりました。土曜日は半ドンです。そして、いつの年か、覚えておりませんが、完全週休二日制に全国一斉に移行したわけです。

二日休みがありますと、1日旅行して、翌日休むというようなパターンがとれますから、霊場巡りなどもできたわけです。
さて、午後因島へ。福山は霧が棚引いていたのですが、瀬戸内海は早春の霞のように島影を遠くへしておりました。まもなく海水浴シーズンだというのにこのようなシーンはそぐわないですね。

メダカ池の掃除を少しずつしております。今日はスイレンを移動です。小さな池のほぼ全面がスイレンでおおわれたので、少し広いほうへ移し、その狭いところを完全に元のメダカ生息地に復元しておきました。

2011年7月3日。日曜日。曇り時々雨。
第一日曜日は、老人会のリサイクルゴミ回収日で、新聞紙を一掃します。一掃というのは比喩的によく使われますが、これが本当の一掃です。震災後、新聞を溜めておきましたが、場所をとるので、四〇日分ぐらいで、諦めました。その四〇日分は段ボール箱に入れてあります。

今日は予想最高気温三〇℃の曇りです。でも、朝、暗くなって雨が少し降りました。一分ほどで終わりましたが、それでも、昨日よりはよく降ったようです。こういうのを見ていると、山陰の秋を思い出します。これはもう何度も書いているのですが、若い頃11か月だけ米子市に住んでいました。広島県と岡山県しか住んだことのない私としては、一年に満たない生活でしたが、なかなか貴重な日々だったと思っております。

夏は空気が乾いていて気持ちがよかったですね。そして、夕立のような激しい雨が時々襲ってきます。倉吉で昼ご飯を食べている時に出会ったのは、まるで大雨という感じでしたが、一時間ほどで止んで、再び真夏に戻りました。

秋になると24時間のどこかで降っていると言われていました。そして、短い秋が終わると空も海も鉛色・・・。

今、山陽側の雨期は米子の初秋のような感じです。
さて、その後もほんの短い期間ですが、かなりの雨が降っています。昨日とは、様子が違うようです。そして、今は止んで、少し明るくなりました。あまり気温が上がらないとよいですが。

二階へ行って、エアコンを少し入れて、本のホコリ取りをしました。息子の部屋のエアコンは、因島で近所の電気店のかたにつけていただいたものです。その時はあまり効きがよくなかったようです。こちらへ移ったとき、デオデオの方に設置していただきました。そして、さらに今の所に移転。このときは、室外機と室内機をくっつけたまま移動し、そして両方を二階にもって上がり、室外に置いて、天窓から室外機を入れたわけです。あの頃は若くて何でもできた。

さて、期末テストが済んだら、化学結合、イオン化傾向、反応速度へ入る。反応速度へ入る前にブラウン運動について少し説明する。

ブラウン運動は植物学者のロバート・ブラウンが1827年に見つけたことになっている。水を吸って破裂した微粒子を顕微鏡で観察したときに見えたという。生命的な現象かと疑ったが、そうでないことを悟ったところが偉い。花粉で発見したというところから、花粉で見えたと思っていたら、花粉ではなくそこから出てきた微粒子ということが肝心のところである。水分子の運動による微粒子の動きになるのだが、水分子の対流と勘違いしないことが大切であろう。二硫化炭素に硫黄の粉末を少量落とすと、温度によっては硫黄の微粒子が複雑な運動をするのが、肉眼でも見える。おそらく二硫化炭素の蒸発による表面の対流のなせる技ではないだろうか。

ブラウンは微粒子の運動が水運動の熱運動に起因すると考えていたようだが、理論的には説明できなかった。それをやったのが1905年のアインシュタインの論文である。1905年というのは、特殊相対性理論の論文を発表した年で、光電効果の論文もこの年で、ブラウン運動の理論とあわせて3大論文を発表しているので奇跡の年などと呼ばれ、アインシュタインの天才ぶりを遺憾なく発揮した年である。
なお、このアインシュタインのブラウン運動の理論を用いて、フランスのペランが分子の実在を証明したということになっている。ペランの「分子」という本は岩波文庫から出ている。アインシュタインの上記の論文は、講談社学術文庫の「アインシュタイン」が入手しやすいだろう。

イオン化傾向というのはボルタのイオン化列のことです。これは水溶液中での陽イオンへの成りやすさを示したもので、気体状態のイオンへのなりやすさを示すイオン化エネルギーとは異なります。イオン化エネルギーに似た定量的な値としては水素電極を基準にした標準電極電位(別名酸化還元電位)というものがあります。この2種の定量的な値の差としては、最も大きなものとして水和エネルギーが考えられます。その次が、昇華熱です。イオン化傾向の学習とは離れてきますが、考えてみるのも楽しいでしょう。
しかし、もっとわかりやすく言えば、二種の金属で電池を作ったとき、どちらが負極になるかということを順序立てたものです。電池を作ったとき、それらの電圧は等間隔ではありませんが、ある金属を基準にすれば、遠くにある離れた金属をもう一方の極にすれば、おおきな値が得られます。


2011年7月4日。月曜日。曇り後雨。
雨予報なれど、昨日よりもよく晴れている。気温も高そう。
今日は職場健診。昨夜はいつもより少なく食べ、それ以降、水だけで我慢する。これはなかなかきついですね。

予報通り午後から雨になり、夕方激しい雷雨。雷はあまり激しくなかったが、ゲリラ豪雨。
夜になっても、時々襲ってくる。いつまで続くのだろうか?


次は化学反応速度論。
アイリング教授のQuantum Chemistry は水素原子の波動関数を丁寧に解いていて、よい本だと思ったが、その翻訳は山口書店なるところから出ているらしく、時々量子力学/化学の参考文献などに上がっているが、いろいろ探してもみつかならない。私にとっては「幻の」という感じ。そのアイリング教授のもう一つの本が、吉岡書店から出ている物理学叢書の「絶対反応速度論」。
だから、アイリングの量子力学を駆使した反応論では絶対速度が求まり、高校でやるのは相対速度にすぎないというつもりはまったくない。
今ではアイリングの理論も絶対速度ではないということで,遷移状態理論などと,少しずらした名称で呼ばれているようだ。


相対速度、絶対速度というのは何か? 力学でいう速度について考えてみれば、物を移動させて、その距離をかかった時間で割れば、平均の速度が求まる。これが絶対速度である、というけれど、地球を基準にして言っているのだから、地球外からみれば、地球に対する相対速度である。地球上で相対速度と言えば、動いている自動車から見れば、それが相対速度となる。
とうような次第であるから、絶対速度などというようなことを言うのはむなしい、とは言わない。何かを基準に選べばよいのだ。基準の速度を零とすれば、その相対速度は絶対速度だと思ってもよい。

では、化学反応の場合はどうだろうか。そもそも化学反応に絶対的な速度というのがあるのだろか。瞬間の速度は,化学反応でも求めることができる。濃度変化の時間微分がそれだろう。しかし,これを絶対速度と呼べるか,疑問である。どこもかしこも,あるのは相対速度ばかり,ということになるのであろうか。

濃度や温度が変われば,反応速度も変わる。これは相対的な話であろう。そのレベルのことなのかもしれませんね。

さて、ここで例え話をしよう。山を越えて隣の村にいくことにする。里村から山向村へ行くことにしよう。当然、途中に高い山の峠を越える。峠というのは、山の一番高いところのことだと思っている人が意外と多い。実はそうではなくて、「一番低いところなのだ」というと、首をかしげる人がいるかもしれない。
まず、左から、里山-峠(山)-山向村の位置にくる方角から見よう。こちらから、見ると峠は山の上にあり、一番高いところにあるだろう。そして、その視点は、おそらく現代人の想像力の豊かさ故の、他者の視点である。

それに対して、里山村から山向村の方を見渡してみよう。山がそびえて、山向村は見ることはできない。すなわち、山越えをして行かなければいけない。すなわち、峠を越えて行くのである。峠道がまだできていないとしよう。里山村の人たちはどこに峠道を作るだろうか。それは山稜を見渡して、一番低いところに辿り着くように作るのが一番賢明だろう。だからといって、右や左に大きくそれるのは、もちろん得策ではない。ある程度の範囲内での話である。これが里山村の人の「自分の視点」である。だから自分の視点では、峠というのは、「一番低いところ」ということになる。さて、あなたなら「自分の視点」と「他人の視点」のどちらが言葉本来の意味だと思うだろうか?

少しずれるが「峠」と書いて「たわ」と聞くことがある。特に人名の姓にあるようだ。「たわ」を調べてみると「撓」の字が当てられ「山の尾根の低くくぼんだ所。鞍部。」などと書いてある。この「撓」は例の昇進した相撲取りのご挨拶に出てくる「不撓不屈」の「撓」なのであるが、「撓屈」は「たわんで、へっこむ。」という意味のようである。

ここまで書けば、「峠」には低い所の意味がもともとあったことがおわかりであろう。
 
 
2011年7月5日。火曜日。晴れ。
昨日は雷を伴う大雨。梅雨の最後の現象であった。だから、今日当たり梅雨明け宣言が出されてもおかしくはない。ただ、梅雨の終わりの豪雨はもっともっと激しいのが例年のパターンだから、まだまだ雨期は続くのかもしれない。

お昼前にはさわやかな風が吹いていたのですが、青空というにはやや不満な空の色です。地中海ブルーというようなところまでは要求しませんが、せめて瀬戸内海ブルーにならないと梅雨明けとは言えないですね。

夕刻になって、和歌山県で震度5の地震があったそうです。先日の長野県の地震と言い、だんだんとこちらも揺れだしたようで、大地震が繰り返すパターンに突入したようで恐いですね。

今日は期末テストの最終日。採点が1クラス分。

おそらく、私が高校の時だと思うが、国語の教科書に、社会における流れ学、とかいうのが掲載されていて、遅いところは広くしたらいいのだと、高速道路の料金徴収所の例があがっていた。全体の時間に影響するのは、スイスイと遅滞なく流れるところではなく渋滞しているところであって、そこをいかに速く通過するかで決まってしまう、ということは、この時習ったのか、その後、化学反応速度論を学習して知ったことなのか、記憶も曖昧ではっきりとしない。

高速道路でも同じであるが、化学反応の場合、何段階かにわかれていれば、一番遅い段階で反応速度が決まるので、この段階を「律速段階rate determing proces」という。

高速道路であれば料金所付近、山越えであれば、峠越えのあたりになろうか。化学反応では、必用なエネルギーの最大のところであり、これが活性化エネルギーと呼ばれるものに対応している。このときは、反応物とも生成物とも異なる、反応中間体ができている。この反応中間体を生じるのに必用なエネルギーである。岩の切り立った峠道を馬に荷物を満載した状態では越せないので、荷物を分散するなり、載せ方を変えたりして難所を越えるわけである。

さて、この峠越えのとき、「他者の目」で見れば、山の一番高いところ、「当事者の目」で見れば山の一番低いところが「峠」であったように、反応中間体の山並みのうち、最もエネルギーの低いところを「峠」として反応は採用して進む。この高さの分布を計算したものがポテンシャル面で、そのうちの低いところを選ぶのが反応経路である。反応中間体のポテンシャルの高いところを遷移状態、活性錯合体と呼んでいるのである。ここを通過する段階が律速段階である。

さて、活性化エネルギーを求める方法に、有名なアレーニウスの式を用いる方法がある。アレーニウスプロットととも言う。これは大学の練習実験でやった記憶がある。確か、大阪大学の先生方が書かれた「物理化学実験法」(東京化学同人)という本がテキストで、装幀が美しく好きな本だった。それから、鮫島さんの物理化学実験法(裳華房)もよいテキストだった。今度どのように書いてあるか探してみよう。

次に触媒に移ろう。
触媒はオキシドールの名前で親しまれている過酸化水素水から酸素を分解するのに使われる二酸化マンガンが有名だろう。二酸化マンガンは高等学校からは酸化マンガン(Ⅳ)と呼ばれる。しかし、この化学反応式は意外と書けない。二酸化マンガンを化学反応式の中に入れてしまうと、とたんに難航してしまう。
なぜならば、右辺にも同じ式で二酸化マンガンを入れざるを得ないからだ。ここでマンガンの別の化合物を考えても、初心者には当然考えつかない。

要するに二酸化マンガンは変化しないから、化学反応式に書く必要がないのだ。どうしても書きたい人は→の上に書けばよいのである。

さて、この二酸化マンガンが触媒なのである。既に記したように、その物は、変化しない。しかし、二酸化マンガンがないと酸素はほとんど発生してくれない。試験管が汚れていたり、ゴミが入っていたりしたら、それらが触媒になって、泡の一つや二つは出るかもしれないが。

そう、ゴミに限らず、多くの物質がこの反応を触媒する。中学生の自由研究の題材としてもよいだろう。例えば、そのへんの雑草の葉の葉皮をはがしたもの、ジャガイモ、肝臓などの食品。それから多くの金属などなどである。

とはいえ、この過酸化水素の分解の反応は決して単純ではない。酸化数を求めることができる人は、個々の原子の酸化数を求めて矢印の左右でよく比較してみるとよいだろう。

さて、触媒というのは、多くの原子の原子量を決めたりしたベルセーリウスが言い出したことのようですが、錬金術に出てくる「賢者の石」というのも触媒に他なりません。哲学者の石とも訳されますが、「賢者の石」というといかにも西洋神秘思想の伝統にかなった名訳だと思います。化学に限らず、キューピッドから現代アニメの魔法の杖の類も突き詰めて考えればいずれも触媒ですから、化学変化以前の問題として、それ自身は減ることもなく偉大な力を発揮する物ということで、触媒に似た考え方はなじみやすかったものと思われます。それにしても触媒という訳語も見事ですね。実にその雰囲気がよく出ております。 
 
2011年7月6日。水曜日。晴れ後雨。
昨夜は10時半にダウンしたためか、今朝は3時に眼が覚めた。暑さのせいではない。もう少し眠っていたほうがよいのだが、目が冴えているので起きることにした。おそらく出勤前に眠くなるだろうから、それをもう少し前倒しして5時頃眠くなればよいと思っている。

さて、化学反応の速度をやると、自発的に進む条件というのが問題になる。エネルギー的な因子とエントロピーの因子というよりも、ここはエンタルピー項とエントロピー項と言うほうが好きだ。

エンタルピー項というのは何か?

大学で熱力学を習ったときに、エンタルピーといって、発熱反応の時に負になって面食らったものである。後になって古い演習書を見ていて、「熱化学」の章と「化学熱力学」の章に分かれているのを見て納得できた。

高等学校でやっていたのは「熱化学」であって、「熱力学」ではなかった。そして、大学でやっているのは、「熱化学」ではなくて「熱力学」なのであった。
だから、熱力学は熱化学と明確に区別しなければならない。

高校では熱化学だから、扱う式を「熱化学方程式」という。熱力学ではそんなものは扱わない。なぜだろうか? 発展性がないからだろうか。まだるっこしいからだろうか?

では、熱化学方程式とは何か?
A+B=C+QkJ  というように書かれたもので、→ではなく等号=である。等号は「同じ」を表す記号ではなく「等しい」を表すことは数学の場合と「同じ」である。猫=犬は成り立たないが、この猫のもっているお金=この犬のもっているお金 は成り立つ。この時、猫のほうが1円玉ばかりで30枚、犬のほうが10円玉を3枚もっていてもよい。=は「同じ」ではないのであるから、同じである必用はない。もちろん、ともに10円玉3枚であっても構わない。これが「等号=」の意味である。

さて、Q>0として、QkJの前につけた符号が+の場合を「発熱反応」、-の場合を「吸熱反応」と呼ぶ。

発熱反応とは何かと言うと、紙や木が燃えたり、使い捨てカイロの中で鉄粉が酸化されたりする場合のように、まわりにいる人が、「暖かいと感じる」反応である。「暖かいと感じる」のは黄色い炎の場合や、針で刺された場合もあるかもしれないが、たいていの場合は熱が放出され、温度差が生じているからである。甚だしいときには、「熱いと感じる」ときがあるかもしれない。

その熱はどこから生じたのか?
それは、紙なり木なり、鉄粉がもっていたものか?
そうでもあるし、そうでもない、とも言える。
確かに、紙なり木なり、鉄粉は何かを持っていたのであろう。しかし、それは熱をもっていたのではないし温度をもっていたのではない。温度は室温になっていたのに違いない。温度が室温であって、燃焼後は室温より高くなったのだから、回りから熱をかきあつめたのかというと、われわれはかきあつめられた残りのところにいるのだから、かえって「冷たく感じる」はずである。だから、おそらく、回りから熱をかき集めたのではないだろう。

やはり、ここは小学生でも知っているように、「燃えることによって熱が出た」というしかあるまい。

それでは、「燃える」とはどういうことか? これも気の利いた(頭が良い、ではない)小学生が言うように、「酸素とくっつくこと」と言うのでよいだろう。そして、酸素とくっついて「別のものに変わる」わけである。

だから、
紙+酸素=二酸化炭素+水+QkJ 
という形の熱化学方程式になる。Q>0であることは言うまでもない。

こういう形の熱化学方程式を眺めて、すぐに信じられる人は救われる。(信じる人は救われる!)

だから、勉強というのは宗教的な情熱をもってするのがいいのかもしれない。

ならば、信じない人は地獄へ堕ちるのかというと、そうでもないが、しばしば露頭へ迷うことがある。
それでは、しばし露頭へ迷うことにしよう。
上の式をじっと眺めてほしい。ヘルメス的な化学式ではなくて、言葉で書いたのであるが、それでもまだ鬱陶しいと思う人は、
猫=犬+QkJ と考えてもいいだろう。

まず、最初の露頭は、+QkJへの違和感だろう。
プラスなんだよね。プラスと言うのは黒字で、お金が儲かるということぐらいは、小学生でも知っている。
さっき、猫さんから(実は紙と酸素)、熱をもらったんだよねぇ。
それなのに猫さんが変身したアバター猫の犬さんは黒字なんだよねぇ。
お金持ちになったんだよねぇ、ずるいよね。猫さんかわいそう、ということになる。
でも、これって詐欺的というか、魔法的というか、私たちも熱をもらって暖かくなり、犬さんもお金持ちになり、一挙両得だよね。だから、発熱反応というのはありがたいもので、みんな豊かになれるものなのだろうね。どんどん火をつけて燃やそうね・・・
ということになると、119番通報は鳴りっぱなしになるので、ここは「心の窓にともしびを」程度に留めておきましょう。

それでは、犬さんは猫さんよりも金持ちか?
ということを考えてみましょう。
猫=犬+QkJ 
を式変形して、あるいは両辺からQkJを引いてみると、
猫-QkJ=犬 となって、
犬さんの持ち分は猫さんの持ち分よりもQkJも少ないんだよね。犬さんかわいそう。犬さんは何も悪いことはしてないのに、猫さんが変身しただけで猫さんより貧乏になるんですね。誰が悪いんです?

決まっています。熱化学方程式が悪いんです。だから、だから・・・さっさと熱化学方程式を卒業しちゃいましょう。


・・・でも、まだ卒業するにはちと早いようなので、もう少し路頭に迷うことにしましょう。
では、熱化学方程式の左右で「等しい(=)」ものは何か?
猫と犬のもっているお金の合計か? そんなことはない。+QkJを見てほしい。kJというのは単位なのだ。単位の異なるものは合計することはできない。
ファッションのセンス+かっこよさ=人気+QkJ
などというのは、単位が異なるので、=で結ぶこと自体がナンセンスなのです。

ここでは、kJ すなわちJ単位です。J(ジュール)はエネルギーや仕事の単位ですから、それに関したものが意味されているのです。筆者はJ単位のものをJファミリーと呼んでいます。ここでも、そう呼ばせてもらいましょう。
紙+酸素=二酸化炭素+水+QkJ
としたときのジュールファミリーは何でしょうか?

紙のエネルギー? 位置エネルギーのこと? ウウーーン。それだったら、上に上げたり、床におろしたら変わってしまうよう。何だろうね。酸素では分子運動のエネルギーだろうか? 二酸化炭素と水では?・・・・

・・・困ってしまいましたね。妙案があればいいですが、今のところ、これ以上の輝ける知恵はわきませんので、大変姑息な手段ですが、「系のもつエネルギー」ということにしておきましょうか。
すなわち、左辺は「紙と酸素の系のもつエネルギー」、右辺は「二酸化炭素と水の系のもつエネルギー」としましょう。そうすると、
紙と系のもつエネルギー=二酸化炭素と水のもつ系のエネルギー+QkJ
ということになりますね。これらが、等しいわけです。kJ単位で。

こうすると、後のほうの系のエネルギーが減って、明らかに赤字だとわかりますね。そして、赤字を+で書いているわけです。やはり、なんとなくしっくりこないですね。ですから=をはずして、
A+B→C+D 、左から右へ行ったときの系の損得=-QkJ
と書いてみればどうでしょうか。マイナスですから赤字です。すなわち、失ったのですね。失ったのだし、まわりに熱を与えたのですから、発熱反応ですね。
「左から右へ行ったときの系の損得」というのも長すぎますね。これを「もっていたエネルギー」という意味で「エンタルピー」と呼んでいるようです。日本語では「含熱量」です。エネルギーが漢字になっていないので、熱で象徴的に示したのでしょうね。これを記号Hで書くと、ΔHとすれば、含熱量の差、すなわちエンタルピーの差ということになります。
ですから、
A+B→C+D ΔH=-QkJ
と書けばよいことになります。
どうですか、こちらのほうがすっきりと、そしてイメージ的にもよいですね。ただ、ΔHがマイナスのとき、熱化学方程式とは反対に発熱反応だと思えばいいわけです。
これが、熱力学の表し方で、いつの間にか、熱化学方程式からテイクオフしていましたね。

結論:「熱化学方程式の符号を反対にしてエンタルピー」

2011年7月7日。木曜日。雨。七夕。
ちょっと肌寒い雨の木曜日。
でも、新聞をとりに行ったら、ポリエチレンで包装していなかったから、4時頃はまだ降っていなかったのだろうか。私が起きた5時過ぎには雨音も大きくよく降っていた。昨夜は、夕凪亭のベッドで雑誌を読んでいたら、そのまま寝てしまって、11時半に移動。その時はまだ雨は降っていたように思う。

肌寒いので、毛布をかけて、しばらく爬虫類のようにじっとしておくことにした。十分に寝たので昨日のように血圧が上がっていることはあるまいと思う。
6時近くなって温度計を見ると24℃。これでは肌寒いはず。それに昨夜、除湿もしてあるので。長袖にすべきかな、などと考える。もう衣替えも完了して、長袖セーターは桔梗さんがきれいにたたんでタンスのどこかに納めてある。まあ、いいか。いつもの半袖にしよう、と消極的ながら決断。

そして、朝食。新聞。
朝食は、目玉焼き(1個)、紫タマネギのスライスサラダ。トマト。食パンへケチャップをかけてその上にピーマンを乗せて焼いたもの。牛乳。そして、高血圧と胃の薬各く1錠。

新聞では、人形師のジュサブローさんが満州からひきあげたところが広島の楠木町。それから三次へ移った直後原爆。楠木町は広島の中でも狭いところだ。横川歩いてすぐのところ。ここに大学を卒業して最初に入った会社の広島支店があって、徳島工場での1ヶ月の研修のもと、ほぼ一ト月、ここに通った。大芝の会社の寮(といっても会社が借りているマンション)から横川のガード下を通って歩いて通った。その後、5月から米子へ。米子へ移ってからも月一度の支店会議では泊まりがけでここへ戻った。そのとき、近くのサウナへよく行った。それから支店近くの、公園の前にあった焼鳥屋でスズメを食べたのがその初体験。骨ばっかりではないか、という印象が強く、これが最初で最後の経験。

新聞のもうひとつは、緑地帯の横浜の児童文学作家の祖母のハワイ移住史。ハワイまでは読みこなしていないが、持っている移住一般の資料の中にはハワイ関係もかなりある。南米中心であるので、ハワイについては、ほとんど読まないことにしている。

そして、ラジオ体操。先日、徹底的にやったら腰が痛くなったので、ほどほどに。シャワーを浴びて出勤。

雷に備えて、エアコンとついでに夕凪亭の全電源のブレーカーを落として、燃えるゴミを捨ててでる。

8時10分になっているではないか。少し別ルートを選び渋滞を避けようと決意。


イオン化傾向のノート

イオン化傾向=イオン化列=電気化学系列≠イオン化ポテンシャル
定量的に表したもの~標準電極電位(酸化還元電位)

電気化学系列から予想される性質を示さなくなった状態が不動態。
 アルミや鉄は当然、濃硝酸や濃硫酸と反応してよい。しかし、止まる。
課題:①エッチング(美術やプリント基板つくりの)はイオン化傾向と逆。
   ②なぜ、Niが電気分解で生じるの? ニッケルメッキができているぞ。ふしぎだなぁ。それに青酸ソーダを入れるとなぜいいの?
 酸化還元電位を調べてみるのがいいのでしょうね。

原子論が大勢を占め、原子や分子の存在が証明されても、なぜ原子が結合するのかわからないと化学は正当な自然科学に入らなくて錬金術の正当な後継者の役割をますますにない、ヘルメチックな記号の解釈に明け暮れる遊技に終わっていたに違いない。しかし、幸いにというべきか、不幸にもというべきか、歴史はそうは進まなかった。だが、その原理の解明は物理の分野のあの素粒子のモデルほど戦略的で論理的なものだった。勿論物理学のその分野の発展が決して平淡なものではなかったということは、誰でもが認めることではあるが。

ものがくっついたり離れたりするというのは、男女や家族の悲喜劇を別にすれば、磁石のある種の金属(この中に鉄が含まれることは大きな意味がある)をくっつけるという性質ほど、その原理はともかくとして減少を理解するのに格好の例はない。電気、特に静電気に似たような性質があるが、これとて、たいていの人間は磁石からのアナロジーで、簡単に説明を聞いただけで納得するのではなかろうか。

磁石がおもちゃとして、あるいは小学校の理科の教材として容易に手に入ることは理科教育にとってどれだけ寄与しているかということは、評価してしすぎることはないだろう。また、他のモーターや発電機などの電気製品を分解しても容易にえることができる。そしてSNの同種極は反発しあい、異種極は引きつけあうことが容易に試してみることができる。

この異種極が引き合うという性質は静電荷でも同じで、このようことをまとめあげたのが、かの有名なクーロンである。クローンではない。物理は、クーロンで、生物ではクローンとなるのは、化学では固体で生物では個体となるのと似ているので注意!

このクーロンの法則を知っている化学者は、イオン結合ということを当然のことのように言い出した。そして、今では格子エネルギーや融点の傾向がこのクーロンの法則で説明できることまで明らかにしている。

ということで、イオン結合は簡単に化学に導入された。

次に難しいのは共有結合である。このアイデアはすごいと感心するのだが、化学的すぎておそらく物理が好きな人は、こんな非物理的な領域は嫌いになるだろう。

ルイスのオクテット則というのは、不思議な理論である。価電子を共有して希ガス型にして、それで安定化するというわけだ。例えば塩素原子が塩素分子になるときは、次のようになる。
塩素は17番の元素で電子配置は2、8、7で価電子は最後の7だ。塩素の次の18番の希ガスはArで電子配置は2、8、8である。この最後の8にするためには、塩素原子は電子1個が必要である。これをもらってきたら、陰イオンになってしまう。これではイオン結合になる。

だから、借りてくるということにした。2つの塩素原子がお互いに貸しあう。借りあう、と言ってもいいだろう。こういうようにすると、それぞれの原子が結果として8個の最外殻電子をもつことになる。これをオクテット則というのだ。

この理論の弱いところは、共有することによって結合がなぜできるのか、直感的にわからせることができないことだろう。ハイトラーとロンドンは、量子力学が完成するやいなや、この理論を水素原子に適用し、共有することによってエネルギーが低下することを計算によって示した。しかし、これで共有結合について理論が完成したと思ってのは専門家だけで、素人には、なぜ共有結合が結合なのか、わからないだろう。

なぜ、こんなことが生じたのか、考えてみよう。
まず、イオン結合で説明できないものを、イオン結合に似た考え方、あるいはそれの発展した考え方に帰着しようとした点。別にそういう意図が見えるわけではないが、そんなかんじがする。

2点目は原子が結合して分子に成ると考えていくが、そもそも原子単独では存在しないのである。分子が先に存在して、その構成要素の原子をあたかも実在のもののごとくに考えて、それから原子や物質をつくろうとしている。このような考えかたに無理はないのか。しかしHClのHと水のHを同じものと考えることに異議を唱えるつもりはない。だから構成原子Hを不動のものとして考え、これから分子の構成を考えることに、無理はない。結局、共有結合の不合理さは明らかにできなかったし、議論になっていないが、後日再考するために残しておこう。
2011年7月8日。金曜日。晴れ。梅雨明け。
金曜日。今週も終わり。学校カレンダーでは残り1週間で夏休み。
夏休みといったら海水浴場。でも、いつの頃からか、海に行かなくなったなぁ。だいたい子どもが学校のプールへ行くのでわざわざ海へ、と言うことが亡くなったのが小学生になったとき。そして中学生になると、出たがらないか、クラブで忙しく、親離れが急激に進む。

こちらも、そろそろ心臓麻痺を起こしてもおかしくない年頃になったのだから、孫など連れて海水浴へ行くものではないだろうとは思う。

それとも親が遊び下手だったので、子どもが遊ぼうとしなかったのだろうか。貧乏暇無しとは、よく言ったもので、金銭的にも精神的にも貧乏で、いつも忙しかったなぁ、と追想。性分だから仕方がないのかもしれないが。

夕凪亭から見える南東の空は白いので、バカにしていたら日射しはどんどん強くなる。今日は紫外線要注意かもしれない。

ところで、政治状況はどうなっているの? と言いたくなるほど奇怪千万である。首相に続いて経済産業相までが、やめるけど今はやめない、とわけのわからないことを言っている。政治家は禅僧ではないのだから、禅問答のようなことは言ってはならない。責任を取る気があるのか無いのかを明らかにすればよかったのだ。

エネルギー政策を次から次へと出すが、まず復興が先だろう。そして、いろいろと考えてから、進むべきだ。発電と送電を分離などという案を今言う必用があるのか? 電気のことが話題になっているし、東電が悪玉になっているので、その巨利を押さえるためには分離するのがよいというような変な憶測を抱かせてもしかたがない。今は全国の電力会社が電力供給に邁進すべきときなのだ。

 
2011年7月9日。土曜日。晴れ。
蒸し暑い朝だ。ほんとうに梅雨が明けたのだろうか。そらの雲を見ても、そのようには思われない。

窓を開けていたら湿度が90%になったので、あわてて閉めて、エアコンを入れた。少しいれるだけで湿度は下がる。

もうすこし、夏らしくなってから窓をあけよう。

スペースシャトルの最終便がスタートした。これで終わりなんですね、寂しいですね。再利用というのは凄いという感じがしたのものです。はじめて帰ってきたコロンビアをテレビで見たときは感動的でしたね。


劇的なアポロ計画の時は高校生だったので、あれはあれで人生の伴奏者だったのですが、シャトルの時代はこちらは労働者・サラリーマンの時代でいろいろと夢と希望を与えてもらったように思います。感謝。

さて、それはともかく、今後はしばらく、アメリカは宇宙への交通手段をもたないということですが、そんなのありですか?

アメリカは世界の覇者で、宇宙の覇者もアメリカではなかったのですか? アメリカ主導でない宇宙開発なんて危なくて見ておれないですね。恐い。恐い。岡山で親しんだ言い方では、ぼっけえきょうてえ感じですね。

 
2011年7月10日。日曜日。晴れ。
7月も早いものでもう2回目の日曜日がやってきた。そして梅雨も明けている。まだ湿気が多いが入道雲は北の空にその勇姿を表し白い雲の背景は澄んだ青色になっている。

ああ、夏なんだ。何回めかの夏なんだ。小学生の夏休みは、これほど待ち遠しくかつ楽しいものはなかった。しかし学年が進むにつれて、夏休みという字の背景に憂鬱という字がちらほらしだしたのを覚えている。その延長だと思うが、この頃では、夏休みが終わりかけた頃の嫌な感じが先立つ。

何はともあれ、このような中途半端な夏よりもからっとした夏がきてほしいものだ。

いろいろと所用で車を走らせているのだが、それにしても強い日射し。なかなか暑い日ではないですか。仕事も捗るが。

2011年7月11日。月曜日。晴れ。
朝から猛暑。
雨風を凌いでくれる家屋の中で、エアコンを入れているのでかろうじて生きていける。
今読んでいる本の一つにホームレスのことがあった。冬の寒さも大変だが夏の暑さも大変だろう。
早くお盆になって、そして9月になって、秋になることを期待するのは虚しい。今は今を精一杯生きて、この暑さに対処するしかないだろう。

確かに、日本の秋や春は住みやすく快適で、かつ自然も美しい。しかし、冬と夏の苛酷さはどうだろうか。いい国だと思っているのは自己満足で、客観的に見れば、もっとよい住環境の国は多いのではないかと思う。

2011年7月12日。火曜日。晴れ。
曇りの火曜日。
昨夜までは暑かったのに、今朝は意外と涼しい。
5時に起きて、近くの郵便局へ大型郵便を出しに行ってくる。もっと近いポストでは入らないのだ。

空は白い。雨でも降るのかな、と思うが、やはり降らないだろう。

スイレンが咲いている。1つは蕾のままで完全に開花しないで枯れそうな雰囲気。2つ咲いている。そのまわりでメダカが泳いでいる。

仕事が一段落したので、少し部屋を片づけたり本棚を整理したりしたいところ。でも暑さで動くのもままならぬ。エアコンのもとでじっとしているのが一番いい。
それに水分補給が大切だろう。

今朝はラジオ体操のあと、久し振りにアラビア語を聞く。文字はなじめないのではなく、頭に入らないのでカタカタで覚えていくのがよいかも。
ハル アンタ ヤーバニ? あんたは日本人かい? 
母音はアイウしかないので、コーランはクーラン。それから右から左へと書きます。文字は複雑怪奇。なかなか覚えられない。

シャワーを浴びて出発。曇り空なので車のエアコンはつけず、窓を開けて走る。暑いことには変わりはない。

ラテン語、ロシア語を少し。どれかの言語を極めるとか、うまくなるとかいう目標はない。でも、だらだらと死ぬまでやっておられたらいいのではないか、と最近思う。

読書でも同じように考えている。最終目標を設定しないということである。だらだらと好きなものを好きなように読んでいく。もちろん中期の目標はそのつど設定はしている。(今は、ドストエフスキー)

よく書いているように、ある政治評論家が残された時間を「論語」「法の精神」「ニコマコス倫理学」の3冊に費やしていると、週刊誌のコラムで読んで、私も何か選ぼうか、とずっと考えていたのだが、最近、そんなことはしないでもいいのではないかと思い出した。乱読を当分続けよう。

2011年7月13日。水曜日。晴れ。
今日は水曜日。資源ゴミの日。ビール缶、ワイン瓶などが出せる日。
かつてガラス瓶は不燃・埋め立てゴミだったのにいつの頃からか、資源ゴミになった。当然ではあるが。

ゴミ行政については、お家の事情があると察するので、何も言わない。住んでいる土地のやり方に従うだけです。そしてそのやり方は、時に腑に落ちないこともあるし、ころころと変わることもあるので、他人に説明したり、まして啓発活動をしようとは思わない。自分でできるだけ気を付けて、お役所のいうように従う。・・・・これが私の基本的態度です。物質について学んで、教育しているのだから、当然啓発活動すべきなのですが、方針が変わるので、ついていけない・・・ということです。

さて、今朝はラジオ体操のあと、現代ヒンディと現代ヘブルのCDを少し聞く。どちらも、サンスクリットと古典ヘブライに興味があって文字を覚えようと揃えたものだが、文字のほうも中途半端。掘り下げるつもりはないが、聞いていると、おもしろい。何度も聞いているところは、少しわかったような気持ちになるのが楽しいのかもしれない。 

昨夜は、昼間の暑さから予想していたのと違って涼しかったし、今朝も快適だった。7時半になって、真夏の太陽がギリギラと照りつけている。

夕凪亭を少し片づけて(本を本棚に戻して)、シャワーを浴びて出勤することしよう。


速達を出しに夕暮れの街を東郵便局まで行ってきた。この時間帯に走るのはきもちがよい。帰りはいつもの通りだが夕暮れに鬱蒼としている。溜め池があり、木が茂っている。100年前ならタヌキやムジナが出ていたところだろう。夜、車が止まったりしたら、恐いだろうな、思いつつ通った。
2011年7月14日。木曜日。晴れ。
朝から蒸し暑いのでエアコンを入れています。
それはいいのだが、そろそろ出勤しようかという頃になって眠くなった。もっと早く眠くなっておれば、一寝入り出来たのに残念。
30分ほどで仮眠とシャワーをこなすのは少しきつい。寝過ぎてもいけないし。

 
 
2011年7月15日。金曜日。晴れ。
もう二週間もピーマン戦争が続いている。大量に親戚からもらってきて、必死で食べている。食パンの上にケチャップをかけて小さく切ったピーマンをのせ、焼いて、マヨネーズをかけて食べる、というのはかなり続けてきた。とろけるチーズとか、ウィンナーがあればさらによい。

少し方向をかえることにして、目玉焼きの隣にピーマンやウィンナーを入れて少し熱をかけるのもよいとわかったので、これを二日続けた。うまい。

農家は収穫できたもののを食べるので、タマネギが採れればタマネギの卵とじ、なすが採れれば連日なすと、あるものを毎日食べるという生活が続く。そういういのには慣れっこになって、あるものを食べ続けるというのは当たり前なのだが、ピーマン、それもかなり大きいのを毎日1個は修行僧に近い。

ブラジルで移民日本人が農業振興で活躍した分野にアマゾンのジュード(麻)とピメンタがある。いずれもアマゾン川流域だ。
ジュードは岡山県御津郡出身の尾関さんが、アマゾン流域の季節によっては4メートルも水没する畑で得た品種を増やしたものが大成功をおさめた。
ピメンタというのは西洋コショウのことで、これは移民輸送の監督官を勤めておられた、女優の左幸子さんの御尊父がシンガポールで購入した苗が現地にあっていて、成金になった日本人移民は多い。

そのピメンタは西洋諸語の多くはペッパーで、ピメンタとは言わない。ただ、ピーマンはピメンタと同じ語に発する言葉だということがわかる。

さて、郷里に住む知人さんからfacebookなるものに登録したと、通知があったので、さっそくこちらにも登録してみた。まだよくわからないが、おもしろいかもしれない。

 
 
2011年7月16日。土曜日。晴れ。
3連休に入ります。夏休み前だから、この辺に連休がなくてもいいのですが・・。一応カレンダー通りの生活です。

猛暑の予報ですね。外に出るのが恐い。でも、いろいろとすることがありますので、外出は避けられません。ガソリンのことを考えると、カーエアコンはあまりいれたくありませんが、少しは入れたほうがよいかもしれませんね。

 
 
2011年7月17日。日曜日。晴れ。
猛暑の二日目のはずであるが、予想外に日射しが弱い。
台風7号の影響だろうか。
広島で行われている木下サーカスは、明日明後日を休演とし、本日の最終公演も中止するかもしれないと発表している。Uターンが予想される台風だから、どのように接近してくるのだろうか。予想が外れることもあろう。

台風の影響はあまり受けなかったようですが、夜になって雲が多く出て、いつもより暑いように感じます。

帚木蓬生著「国銅 上」(新潮社)を読みました。このところ1冊を最後までよむことが少なくなったので、この三連休にどれかを終わらせようと言うことで、やっと終わりました。とは言え、まだ上巻のみです。奈良の大仏を作る話です。

2011年7月18日。月曜日。海の日。曇り時々雨。台風風。
台風はまだかなり遠くにあるのに、既に今朝は6時前から雨が降り出し、風に庭の木がよく揺れている。台風6号の強さが予感されます。

せっかく海開きをした海水浴場はこの暑さと三連休で多くの人出を目論んでいたことだろうが、出鼻をくじかれた感じですね。梅雨もあけたことだし、昨日までの二日間でかなり賑わったことだろうが・・・。

気象庁の発表では、以下のようである。「18日7時には南大東島の東北東約240キロの北緯26度35分、東経133度25分にあって、1時間におよそ20キロの速さで北へ進んでいます。中心の気圧は945ヘクトパスカル中心付近の最大風速は45メートル、最大瞬間風速は60メートルで・・・」。

少し衰えたのかな。


灰色と青色を混ぜたような空が次第に白くなるとともに明るくなってきた。雲が薄くなったのだろう。このままいくと、雨がやんでまた暑くなるのかもしれない。今日明日と二日ほどでよいから、こんな曇天のもとで猛暑を避けることができればよいと、夏バテ気味の私は考えている。

今年の梅雨は早く始まり早く終わったのだが、雨量は例年以上のようだ。しかし、このあとの気候のことを考えると、台風ごとに雨を降らして大地を潤しておいてもらうことが自然のためにも、ひいては人間の為にもよいのだ。


9時過ぎに出て因島へ。午後帰って昼寝、というよくあるパターンです。
少し強い風が吹いています。朝より台風が接近した感じがよくわかります。
気象庁の発表を見てみましょう。「大型で非常に強い台風第6号は、18日19時には種子島の南東約250キロの北緯29度20分、東経133度05分にあって、1時間におよそ25キロの速さで北へ進んでいます。中心の気圧は945ヘクトパスカル中心付近の最大風速は45メートル、最大瞬間風速は60メートルで中心の東側260キロ以内と西側170キロ以内では風速25メートル以上の暴風となっています。」

北へ向かっています。ということはこのまま北上すれば、下関辺りになるではないか。途中で東へ向かうと、こちらに近づく。どんどん風は強くなるだろうな。

ケネス・J・デラノ著、市場泰男訳「エピソード占星術 嘘かまことか」(教養文庫)を読んだ。嘘に決まっているが、その屁理屈がおもしろいので占星術は好きです。もう少し他の本を読んでみたいと思います。この本は打倒占星術の立場です。私はこういうものを信じませんが、信じたり楽しむ人がいても悪くはないと思います。私は蟹座でcancerというのですが、癌と同じ英語ですから気味がよくないですね。もともとは麦の刈り入れ時の意味だったようです。私が生まれた頃は、島の主産業は除虫菊で、「千歯こき」で花の部分を茎から離して収穫していました。ハサミは使いませんから、カニさんでなくていいのですが・・・。
2011年7月19日。火曜日。暴風と雨。
暴風警報発令中。
昨夜から吹いていた風がさらに強くなるとともに、頻繁になった。だんだん足
摺岬沖に接近している。早く東へ向きを変えてほしい。

最近の情報を見ると、気象庁によると以下のようになる。「大型で強い台風第6号は、19日7時には足摺岬の南約150キロの北緯31度25分、東経132度50分にあって、1時間におよそ20キロの速さで北へ進んでいます。中心の気圧は955ヘクトパスカル中心付近の最大風速は40メートル、最大瞬間風速は60メートルで中心の東側200キロ以内と西側110キロ以内では風速25メートル以上の暴風となっています。」

中心気圧が徐々に上がっていっているということはパワーが落ちていると言うことでよろこばしいが、まだまだ強いのには変わりはない。

高台にある夕凪亭は今は東から吹いている。ちょうど東側は団地が開け、すぐ東は道路でまことに風通しがよく、東側の切り妻のところはもろに風を受ける。瓦が飛ばなければよいが。


夜になって、少し風がおさまったようです。
「大型で強い台風第6号は、19日18時には室戸岬の南西約60キロにあ
って、1時間におよそ15キロの速さで北東へ進んでいます。中心の気圧は
960ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は40メートル、最大瞬間風速
は55メートルで、中心の東側190キロ以内と西側110キロ以内では風
速25メートル以上の暴風となっています。」というように、台風は足摺岬沖で東へ進路を変え、室戸岬へ接近中だ。徳島に上陸するのか、あるいは和歌山か、あるいは上陸せずに太平洋を東へ進むのか。中心気圧はさらにあがり960ヘクトパスカルである。さらに弱まることを期待したい。

今日はこういう状況であり、終業式を予定していたがお休みに。

貴志祐介著「クリムゾンの迷宮」(角川ホラー文庫)。一人しか勝ち残れないことをゲームの世界ではゼロサムというのだそうだ。そのゼロサムゲームを実際に人間が戦ったらどうなるか、ということを実験した小説ではないがロールプレイイングゲームを実際にやるという話。


 
2011年7月20日。水曜日。曇り後晴れ。
台風一過というと晴れ間が戻り夏の日射しが思い出されるのだが、まだ台風6号は紀伊半島にも達していないようなので、こちらも一過という空模様ではない。

昨夜テレビを見ていたら、本宮近くの川湯温泉のある川が増水して道は冠水し、ホテルの一階部分にまで水が来ていた。そのうちの1軒に泊まり、川の中に湧く温泉につかりに行ったのはもう5年ほど前のことだが、砂利の間からわくお湯はけっこうきれいで暖かく、よいところだと思った。濁流が流れたあとはまと整備するのが大変だろうな、と思う。

今度の台風は徳島に上陸してまた太平洋に出るという変わったコースをとった。徳島は四国遍路で何度も行ったが、それよりも学生時代の最後に一月ほど会社の研修で過ごした。日曜日に見に行った映画が「青春の門」だった。昭和50年の3月のことである。こちらより少し暖かいところだ。

さて、午前中は曇り、午後晴れ間が出たが蒸し暑い。明日もこんな感じか? あるいは前の猛暑に戻るのか?

クリストファー・マッキントッシュ著、吉村正和訳「薔薇十字団」(ちくま学芸文庫)。本来が秘密結社であるから、その存在そのものが謎なのであるべきだが、時代とともに分派が起こり、それぞれの主義を印刷物にするようになると、いつの間にか巷間の噂となり秘密結社ではなくなるのである。・・・しかし、とはいえその秘密結社性はともかく存在の証拠をここまで集めると、そのパワーに敬服する。そして、この著作が西洋神秘思想のきわめてすぐれた入門書の役目も果たしていることがわかる。巻末にある訳者付論「始原の夢」が実に見事だ。たくさん、引用したいところだが、少しだけ引用しよう。
「カトリック教会において制度化されることになる洗礼・堅信・聖餐・告解・終油・叙階・婚姻などの秘蹟を見て魔術的な雰囲気を感じない非キリスト教徒はすくないであろう。」(p.322)
「キリスト教の成立は、新プラトン主義、グノーシス主義、ヘルメス主義などが抱いていた始原の夢を『信仰』という形で実現したと言えるかもしれない。」(p.323)

江戸川乱歩の「虫」は後半は気持ちが悪くお勧めできない作品です。これを読んで、江戸川乱歩全集3(講談社)を終わる。この巻には「パノラマ島奇談」「鏡地獄」「一寸法師」「陰獣」などの代表作も入っている。
 
 
2011年7月21日。木曜日。晴れ時々曇り。
晴れませんね。朝はなんとか晴れ間の兆しが見られて、確かに暑い日にはなったのですが、午後はやや雲も多くぱっとしません。

そういえばかつてこんな夏もありましたね。いつまでも夏らしい夏が来ず、日照不足で米が不作で米不足の大騒動という年が。もう20年ぐらい経つのですかね。

帚木蓬生「国銅 下」を終わりました。大仏建立のための都での賦役が終わり、長門の国に帰ってみると、肝心の人たちは死んでいるという浦島太郎のような終わり方が悲しい。

夏休みの過ごし方。読書、ガラス細工、HPの修正というのを目標に掲げました。HPの修正というのは、なかなかルーチンワークになりにくい。どうしてだろうかと考えていたら、作るときに自分の中でマイブームのような熱があったのだから、その熱を引き出さなければ気分が乗らないのだ。そうしうことで、こちらはゆっくりとやっていこう。

最後のスペースシャトルが帰ってきたそうである。一時代が終わった。ちなみにシャトルというのは機織りをするとき糸を撒いたものを左右に行ったりきたりさせる「ひ」のことですね。これからミシンの下糸を撒いているのをシャトルというのでしょうか。バドミントンの羽もシャトルと言います。最近は駐車場とデパートなどを往復するバスなどもシャトルバスと呼ばれています。
 
 
2011年7月22日。金曜日。晴れ。
蝉の声がよく聞こえています。だんだんとやかましくなりそうです。この時間の蝉は照度計のように日射しに比例して大きな声で鳴きますね。

せっかく地上に出てきたのだから、存分に鳴いてくだされ。
さて、今日も読書、ガラス、HPに励む。HPは少し追加。ガラス細工はエッジを丸める作業が中心。かなり捗る。

三島由紀夫「若きサムライのために」(文春文庫)を読んだ。口述筆記と対談という内容だが、わかりやすいロジックとユーモアに富んだ内容が飽きさせない。
日中は暑いが夕方頃から涼しくなり、散歩。
 
 
2011年7月23日。土曜日。晴れ。
朝から暑い土曜日です。もちろんofficeはお休みで、行きません。
休みでもスクールバスが通るので不思議に思っていたが、どうやら新路線試行バスが通り、県立高校のPTAスクールバスは今は動いていないようだ。

試行バスというのは、山の麓のJR駅(駅前にはバスは入れず、そこから少し歩いたところにバス停。これだけでも不便。バスが待っているかわからないから、タクシーに乗った方が便利)-夕凪亭前(ここは停まらない)-県立高校-支所・図書館-伊勢丘ショッピング街(ハローズ、ユーホー、つたや、ウォンツ、尾道ラーメン、マクドetc.)-英数学館-鋼管病院 とこう書いてみるとなかなかよいルートだと思うが、JR駅-県立高校間は登下校時のみ賑わっているものの、利用客が見えません。

やはり、一度マイカーに慣れたルートはよっぽどの事情がないとバスに換えるわけにいかないのだろう。試行期間は一度延長された。さらに延長して、ルートを知ってもらうことだろう。高齢化社会だから、利用客は増えると思うが。

私も退職したら図書館への往復を利用してもいいかなと考えている。

暑いけど今日はクリスティの日朝からアクロイド
 
 
 
2011年7月24日。日曜日。晴れ。
日曜日です。お天気が変です。晴れているのですが、台風以来元気がないようです。もちろんあの猛暑でなくていいのですが、でも弱すぎる太陽というのは夏にふさわしくない。

おかげで、散歩は快適だったがシャワーを浴びても、まだ目がさめない。朝寝しようか・・・。

夕方、しまなみ海道を走って帰省。暗くなる前にこちらへ戻る。日暮れ時のしまなみもなかなかおもむきがあってよい。晴れていたらきれいな夕焼けが見られるのだが・・。

窓を開けて走ると快適。
 
 
 
2011年7月25日。月曜日。晴れ。一時雨。
小雨まじりのスタート。7月最後の週です。
いろいろと天候の変動に振り回された7月でした。少し夏ばて。いやこれは加齢による単なる疲労でしょう。老化は指数関数的ですね。腰痛は長年の悪姿勢。身から出た錆でしょう。大脳の老化は精進不足。語学、計算、外国小説、そして暗記などなどに勤めたり、新しいことにチャレンジすることが大切だと思います。

新刊書など読まなくても、読むべき本は汗牛充棟ですからこまらないのですが、やはり頭の活性化のために岩波新書の毎月の新刊を、1冊はよむべきでしょうね。雑誌感覚で(失礼)。

今日は携帯を交換してもらった。来年で周波数変更のため使用できなくなるので無料交換するというものだ。TV機能もいらないEメールもいらない、インターネットもいらない、のだが、Eメールを残すと、必然的にインターネットもついてくる。

通話とCメールだけでいいのだ。

帰ってから、家のまわりのおかたづけ。いろんな物を置いているのだが、空気の流も悪くなるので、片づけることにした。その前に建物の周囲のことから書かないと何のことやらわかるまい。周囲のうち2面はブロック塀で隣家との境界をなしている。これが建物との距離約1m。これがいろいろな雨に濡れてもよいような物を置くのに便利。例えばプランターだとか余っている煉瓦とか。しかし、ゴミや湿気の元になっている。撤去すべきと決断した。広いところへ出したのだが、さて、どうしようか。ゴミの日に出せるものから出していこう。
 
 
 
2011年7月26日。火曜日。晴れ。
早朝から庭の手入れです。いつもなら暑くて部屋の中で本を読んでいるところですが、昨日、今日と気温が低くくちょうどよいので、伸びた植木の剪定などをしました。勿論汗だくだくだし服にはいろいろなものが着くし、あまり気持ちのいいものではありません。シャワーを浴びて出勤。

まずは、ガラス細工をしていた場所の撤収です。終わったわけではありませんが、次の予定がありますので、一時的に撤収して、掃除をしました。
 
2011年7月27日。水曜日。晴れ一時小雨。
真夏の暑さがどこかへ行ったような天気が、例の台風以来続いております。だから、というわけではないが朝夕庭仕事ばかりで、いささかくたびれ気味。読書はクリスティが進まない。早く終わらせてしまいたいところ。

ガラス細工は部屋の都合で、今週はこれからはしない。HPの改訂の前に未処理の書類がたまっている。こちらが気に掛かる。

読書のほうは、まずまずだ。クリスティ著、中村能三訳「アクロイド殺人事件」(新潮文庫)をやって終わった。訳者の解説によると、これは世界の探偵小説のうちのベストテンに入るものだそうであるが、私にはたいした作品だとは思わなかった。これがベストテンなら、探偵小説など読まなくてもよい、と思う。これが傑作だとは思わない。なおかつ、かのノックスか誰かの探偵小説10則か10戒とかいうのにも反するではないか。探偵小説マニアの中での評価に過ぎない、と思う。
 
2011年7月28日。木曜日。晴れ。
本日は休暇。一日中家にいる。
室温は30.9℃(11:35)であるが、やはり猛暑ではない。いつもの夏の勢いは感じられない。何が起こっているのだろうか?
 
 
2011年7月29日。金曜日。晴れ。
久々に出勤、といっても昨日休んだだけ。出勤することがストレス解消になっているような、変な状況。退職したらまいってしまうだろうな。

そして、久々に猛暑。蝉の鳴き声もすばらしく活発。まだ7月なのだった。この前の猛暑から台風がきて一週間も暑くない夏が続いたので、身体はすっかり8月下旬のようになっている。

遠藤周作さんの「深い河」(講談社文庫)が本棚にあったので読むことにした。ひとごとのように書いているが、おそらく古本屋で私が買っておいていたものであろう。そんなことはどうでもよいのだが、遠藤さんは、私にとっては高校時代の作家であって、そんなに読んではいない。それから映画化されたりして話題になった「沈黙」を読んだり映画を見たりしたのは、学生時代。さらに「侍」を読んだのは仕事についてから。
それにしても「生まれ変わり」「インド」がメインテーマだと読み始めてまもなくわかったとき私は唖然とした。輪廻転生とインドは言うまでもなく三島さんが「暁の寺」で延々と不可解な論理を展開して「豊饒の海」をますますわからなくさせたという印象は、記憶に新しいというよりも永久に記憶から消えないだろうと思っている。

・・・だから、なぜ遠藤さんがそんなテーマを選んだのか興味があるところだ。でも、「天人五衰」の結末のように、ある思えばあるし、無いと思えばない、などという結論にはもっていってもらいたくないと思う。

「三章 美津子の場合」を読んでいて、人物造形の妙に酔った。こういう環状はわからないわけではない。しかし、それを文章でいかに表現するか。見事なものだ。そういう意味では、この小説は傑作である。

そして、八九ページに至り、私はまたしても衝撃を受けた。そこは、モウリヤックの「テレーズ・デスケルウ」が、この第二の主人公・美津子の卒論の対象だったと出てくる。遠藤さんが、この作品を高く評価し、影響を受けたということは、どこかで読んだか聞いたかしたことがある。実はこれも周知の事実なのだが、三島さんの初期の長編「愛の渇き」もこの作品を下敷きにしている。同じ世代でありながら、まったくタイプの異なる小説家。その二人の共通点が、ちりばめられているのだ。
 
 
 
2011年7月30日。土曜日。晴れ。
時々曇って、夏の暑さから救ってくれますが、夜になるとかえって熱気が逃げなくなって暑い夜です。

夕方、因島へ。暑くなくてよかった。そしてひぐれにこちらへ戻る。
 
 
今年32冊目。
ロラン・エディゴフェル著、田中義廣訳「薔薇十字団」(文庫クセジュ・白水社)。
今年33冊目。
帚木蓬生著「国銅 上」(新潮社)。
今年34冊目。
ケネス・J・デラノ著、市場泰男訳「エピソード占星術 嘘かまことか」(教養文庫)。
今年35冊目。
貴志祐介著「クリムゾンの迷宮」(角川ホラー文庫)。
今年36冊目。
クリストファー・マッキントッシュ著、吉村正和訳「薔薇十字団」(ちくま学芸文庫)。
今年37冊目。
江戸川乱歩全集3(講談社)。
今年38冊目。
帚木蓬生著「国銅 下」(新潮社)。
今年39冊目。
三島由紀夫「若きサムライのために」(文春文庫)。
今年40冊目。
クリスティ著、中村能三訳「アクロイド殺人事件」(新潮文庫)。
 
 
今月見た映画・ビデオ等