2019年7月14日日曜日

生活単元理科の起源


 
 
 
生活単元理科あるいは生活経験主義的な学習は、どのような経緯で生まれ、戦後のわが国の教育の方法となったのであろうか。
大きく分けて2つの影響のもとに展開されたといえる。ひとつはアメリカの経験主義教育であり、もうひとつは、わが国の戦前の教育実践に基づくものだとする説である。
しかし、戦後の新しい教育制度が、アメリカ合衆国の占領下で、GHQの強力な指導の下に展開されたことを考えると、生活単元学習の導入は、アメリカ合衆国の経験主義教育に基づくものであり、実践するわが国の教師が、戦前の教育実践などを背景として解釈実践したと考えられる。
アメリカの経験主義の影響としては、以下のように指摘されている。 
大田堯は、アメリカ教育視察団報告の「子どもの経験の重視」1) によるものだとしており、 「この報告書が四六年四月以降の制度改革の基本構図を示すものになった。」としている2) 。また、教育使節団の教育思想の背景には「プラグマチズム教育思想とニュー・ディール的な理想主義」の2つの面があると大田堯は指摘している3)
また、寺川智祐は、それが「当時アメリカの教育界に支配的であった生活経験主義的教育」の影響を受けたものであると記している。4) 板倉聖宣は、教科書もアメリカの教科書の影響を受けていると指摘している5)
生活単元学習が、デューイの哲学の影響を受けていることは、明白である。例えば、上山春平は、「かれ(デューイ)の教育思想は、第二次世界大戦直後の占領軍の教育政策と結びついた形で、教育担当者たちの広範な関心をよびおこした。それだけにまた、アメリカ帝国主義にたいする批判の対象としてもなじみの深いものになった。」と記している6)。 
そして具体的には、アメリカ合衆国中西部の実践が参考にされた7)
それらの説に対して、吉本市は、思想方法はアメリカに基づき、方法論として大正時代からの(米国の)進歩主義教育思想に基づく自発的な学習が理科指導、とくに自然の観察、初等理科には適用されていた、と記している8)
また、板倉聖宣は、戦後の理科教育の創始者の一人でもある、文部省の岡現次郎の立場を、戦時中の教育改革の精神との同一性を指摘している9)。 国民学校の教育が生活的だったことも指摘されている10)
このような、状況の中で、わが国での展開の盛り上がりは、社会科を中心に広がり、他の教科にも浸透していった11)
 
 
引用・参考文献
1) 大田堯編著、『戦後日本教育史』、岩波書店、1978、p.78
2) 上掲書、p.79
3) 上掲書、p.79
4) 寺川智祐「各国の理科教育史」、学校理科研究会編、『現代理科教育学講座第3巻歴史編』、 明治図書、1986、p.57
5) 以下のような指摘がある。中学校理科教科書(各学年6冊、計18冊)は「アメリカの単元別教科書(Unit-text)の形態にならったものであった。」 板倉聖宣、『日本理科教育史』、第一法規、1968、p.393
「おそらく、文部省ではこれらのアメリカの教科書を手本に新しい生活単元教科書を作製した のであろう。」 同書、p.399
6) 上山春平、『パース ジェームズ デューイ』、中央公論社、1968、p.10
 他に、水原克敏、『現代日本の教育課程改革』、風間書房、p.194
 赤堀孝、『日本教育史』、国土社、1960、p.181
  佐藤学、『米国カリキュラム改造史研究』、東京大学出版会、1990、pp.4-5
7) マーク・T・オア著、土持ゲーリー法一訳、『占領下日本の教育改革政策』、玉川大学出版部、1993、p.21
8) 吉本市、『理科教育序説』、培風館、1967、pp.170-171
   また、有賀克明「理科教育の変遷」、高橋慶一編『理科教育法』、明治図書、1984、p.196
9)「彼(岡現次郎)にあっては、生活単元・問題解決学習の理科教育への導入は、戦時中の理科教育改革の精神と軌を一にし、それをさらに発展させたものとして積極的に評価されたのである。」 板倉聖宣、『日本理科教育史』、第一法規、1968、p.399
10) 長坂端午、「コア・カリキュラムについて」、『カリキュラム』、1949、第9号、pp.3-5
11)「六・三制の新学制が発足した昭和二二年から昭和二四年ごろにかけて、全国にカリキュラム改造運動がはなばなしく展開された。それはまず社会科の学習計画の立案を中心として行なわれたが、さらに教育課程全体の基本構造の改革をめざす運動として展開されたのであった。その状況は、戦後の教育界の情熱を結集した偉観であり、また一面では流行の熱病によってかもし出された異常な現象でもあった。」「このような単元による学習は、社会科のみではなく他の教科についても行なわれた。さらに教科の区別を撤廃した総合学習の必要が主張され、社会科の単元を中心として総合学習計画がつくられるようになった。一般に、知識の体系を基礎とする教科カリキュラムから児童生徒の生活経験を基礎とする生活カリキュラム、経験カリキュラムへの転回を目指していた。このような考え方の発展として、中心学習と周辺学習から構成されたコア・カリキュラム(core curriculum)の主張が行なわれるようになり、いわゆるコア・カリキュラム運動が全国的に展開された。」 仲新、『日本現代教育史』、第一法規、1969、pp.360-361