2019年7月4日木曜日

ふるさとの史跡をたずねて 第138回 軍用地船着場跡(因島重井町勘口)

 軍用地と言っても、そのことを語るようなものは残っていない。しいて探せば、船着場の石垣の跡であろうか。しかし、その石垣も波に洗われて崩れ、もはやそれを探すのすら難しくなっている。かつては確かにあったのである。今なら崩れた石の何個かを見ることができるだけである。
 因島金属の前の道が大きくカーブする所の海側である。現在のコンクリート製の護岸でも修復するから壊れずに存在しているのである。そのままにしておくと、長い年月の間に壊れていくことは多くの人が知っていることである。ここの船着場も昭和20年8月に役目を終えて、後は補修される必要もなかったのだから、そのまま波に洗われて徐々に壊れていった。
 現在の姿を見ても、それが船着場の跡だとは、なかなか想像できない。50年以上前は、もう少し沖まで伸びていたし、ここの近くが軍用地と呼ばれ、戦時中はドラム缶が置かれていたと聞いていたから、船着場の跡だと想像していただけである。
 その頃は近くに工場や民家はなかったから、それ以外の用途は考えられなかった。
 何しろ一般人は入れなかったから、実際にここに船を着けてドラム缶を下ろしていた光景を見た人はあまりいないと思う。

 撮影者不明の「昭和十五年八月一日」とペン書きのメモのある写真を見ると、かなり長いものであったことがわかる。(写真・文 柏原林造)

 (後記)実はこの「昭和十五年八月一日」の写真は、重井町勘口のところとよく似ているが、まったく別の場所であることがわかった。重井の海岸線では、こちらは北の涯(はて)に近いが、写真はまったく反対の西側であった。すなわち重井町の長崎から西に向かい、さらに南に回ったあたりである。すなわち、右の背後の写真は生口島、岩城島の方で、この道路の右奥に進むと万田発酵(株)がある。さて、それではこの桟橋の跡らしきものは何であろうか。実は小田浦も軍用地であったと言われているが、そこには少し遠い。

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