2019年7月11日木曜日

三庄町史

いんのしまみち むくのうらみち みつのしょうみち


1870明治三年 因島一円は第十大区第一六小区となる。 同年第十大区第七事務所が重井村に置かれ、因島一円の行政をつかさどる。 
1874明治七年四月戸長役場が重井村に置かれて三庄村はこれに属した。 
1878明治十一年11月大、小区制を廃し、御調郡役所が置かれ、三庄村戸長役場を椋浦に設けて三庄村および椋浦を管轄した。 
1883明治十六年 町村の廃置分合が推進され、椋浦は分離して三浦村に属し、本村に三庄村戸長役場を置き、三庄村を管轄することになる。 
(以上は「三庄村現勢調査簿」による) ここにおいて始めて単独村の行政区域としてその基礎が確立した。
1888 明治二十一年六月十三日内務大臣訓令第三五三号をもって町村合併の標準を定め、翌二十二年第 二次市町村大合併の促進を図ったが、三庄村は依然単独で村をなした。 
明治二十一年四月十七日法律第一号をもって「市制および町村制」を公布、翌二十二年四月一日施行によって、 これまでの「戸長」は「村長」に、「戸長役場」は「町村役場」に改めることになり、本村は「三庄村役場」と 改称した。 
思えば慶応三年(一八六七)十月徳川幕府の大政奉還、同年十二月の王政復古および明治元年(一八六八)三 月の「五力条のご誓文」の発布などで、ここにいたる約三百年にわたる幕政は、名実ともに親政に移った。 

それによって内政の諸制度はやつぎばやに改められ、あるいは新たに制定されるなど、目まぐるしい二十余年を経てようやく府県・市町村が確立し、時代にふさわしい市町村の役割が定まったのである。 (『ふるさと三庄』p.48)