2026年7月24日金曜日

因島抄 21~30

 因島抄(順不同)その21

『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。その9

p.16久保田鉄工所と 名称を変更 明治29-33年 

創業者「久保田家」を継ぐ 

久保田燐寸器械との取引 

 零細町工場ながら、次第に人員が増え始めた大出鋳造所の仕事は,紡績業の隆盛を反映した綿繰機械とダライ盤(旋盤)の部材が過半となり,あとは高度の技術を要する割に利益率の低い問屋向けの日用品鋳物で,権四郎は 注文確保のため外回りが多くなっていた。 

 仕上げ加工の外注先・喜多鉄工所の紹介で 新規開拓した, マッチ軸刻機の部材が,明治29年ごろから増え始めた。発注元は南区島之内に店を構える久保田燐寸器械製造所で,主人の藤四郎は、このころ既に70歳近く,店は繁盛していたが老夫婦に子供のない寂しさから、頑張り屋の青年・権四郎に目をかけてくれたのである。 

 久保田藤四郎は,ドイツ製軸刻機にヒントを得て,高能率の国産機械を考案し,当時数少ない輸出産業の花形であるマッチ製造の効率化に一役買った人であった。それだけに輸入防止を目指し鉄管の製造に取り組んでいる権四郎の姿勢に,往時の自分を重ねていたのであろう。大出鋳造所が金繰りに苦しい折には,金融の面倒まで見てくれている。 

久保田鉄工所と名称変更 

 商売を通じ人柄などもジックリ観察したうえで,久保田夫妻は権四郎を養子に懇望した。当時権四郎は,鉄管の研究に打ち込み、ようやくめどが立ち始めたころであった。権四郎は兄たちとも相談し、鉄管の仕事を続けることを条件に,久保田家の養子となった。 

 明治30年(1897)6月のことで,権四郎は久保田姓を名乗り,大出鋳造所もこれを機に,「久保田鉄工所」と名称を変えることになった。 

鉄管の注文増える 

 久保田鉄工所が斜吹直管を作り始めた明治30年ごろ、大阪砲兵工廠は軍需繁忙のため民需品生産を中止していた。従って,ほかに鉄管を作っていたと考えられる国内の業者は, 川口(埼玉県)の永瀬鉄工所,佐賀の橋本鉄工所ぐらいで,共に異形管主体の横吹鋳造であったと思われる。なお東京市水道に鉄管を納めた日本鋳鉄合資会社は、不合格品1万8000本の偽装納入が表面化し、28年から破産状態となっていた。 

 久保田鉄工所は、試行錯誤のすえに独自の斜吹方式を開発したが,設備も貧弱でまだまだ生産性は低かった。それでも,直管ができるという技術を評価され、次第に鉄管の注文が多くなっていった。 

舞鶴での大赤字と技術改良のヒント 

 明治30年には、官営八幡製鉄所向けの下請け仕事で,大口径の異形管を作った。 

 31年には、舞鶴海軍鎮守府の大量の異形管を,所主・久保田権四郎が番頭の反対を退けて受注し、商売の厳しさを味わうことになっ た。まず大阪中から相当数の職人を集めたが, 不慣れで長続きしない。やっとできた品物も,運送人の取扱不注意で割れが多く発生した。さらに鉄道輸送の当時の終点・福知山から所主自身が荷馬車に付き添い、吹雪の山道を越えて納入するような苦労を重ねたすえの大赤字であった。32年末はあちこちに残った債務の支払い延期を頼んで回る始末であった。 

 事業としては失敗したが,発明工夫に執念を燃やす技術者としての所主は、この舞鶴の一件で大きなヒントをつかんだ。 

 多数の職人を使ったので,他の業者の鋳造方法,特に砲兵工廠の鉄管鋳造の経験者から, 煉瓦ピットの鋳込み場や分業による量産方式。さらに「合わせ型立吹法」などのノウハウ情報を得たことが一つ、今一つは,大量に使用した輸入スクラップの中から、外国製の「合わせ目のない鋳鉄管」を兄・茂平が見つけ出したことであった。 

 7年余の研究に新しいヒントを加え、鋳造方案は急速に進展した。船板囲いのピットを掘り,鉄管を立てて鋳造できる作業場を設け, また,30年に開発した「黒味塗型法」を生かして、「合わせ型立吹法」による試作に成功した。 

 さらに合わせ型の改良を進め、ついに明治33年(1900),「合わせ型でない筒状の外型」を考案して「立込丸吹鋳造法」を開発し、「合わせ目のない鋳鉄管」を作り出したのである。




(以上54回)


因島抄(順不同)その22

『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。その10

p.18水道管やガス管として大量納入  明治33-39年 鉄管需要の波に乗る 

立込丸吹法と設備拡充

 明治33年,政府は水道事業に対する国庫補助の対象を拡大し,それまでの3府5港に加え, 産業発展に重大な関係ある地区・大市区・軍部施設所在地区などにも補助を行う方針を打ち出した。この年,所主が長年にわたる苦心の研究のすえ,直管の立込丸吹鋳造法を開発したことは,天の時に恵まれたといえよう。岡山市・下関市をはじめ,この年以降に認可を受けた各都市水道事業から,主要な鉄管供給業者の一員として,見積引合を受けるようになっていくのである。 

 当社の立込丸吹法は,中子をピット内に立て,別途に立てたまま造型した,筒状の外型をかぶせて、上部から注湯する「立吹き」だった。この方法は,従来の合わせ型や横吹き・斜吹きに生じやすい鋳巣や偏肉など耐圧上の懸念を一挙に解決し,「合わせ目のない鉄管」を作る合理的な鋳造法であった。 

 国産の「合わせ目のない鉄管」は,業界の注目を集めると共に,当社が一般鋳物業から鉄管メーカーに変容する起爆剤となった。直管は発注量がまとまり, メーカーにとり魅力がある半面,量産能力も求められる。飛躍の好機と判断した所主は,設備拡張に踏み切った。

 34年(1901), 西関谷町の工場から250mほど南へ下った西側で,南海鉄道の線路と働川に囲まれた空き地のうち川に面した一画を借り受けて,工場の増設に取りかかった。南区北高岸町836(現・浪速区敷津東)の辺りで,北高岸町工場と呼ばれたが,のちにさらに発展して本店工場となっていく。 

水道管として採用される 

 わが国近代水道創設期の鉄管の仕様書は, 外国の基準によっており,直管の鋳造法を原則「立吹き」としていた。このため「立吹き」になるまでの当社は,鉱山用や建築用の鉄柱が主で,水道用は異形管を中心とし,直管は追加・取り換え工事用などの単発少量であった。 

 大阪市水道の第1回拡張・配水管工事は明治34年完成を目標としていたので,当社が丸吹直管を始めた時期には,既に計画量の直管は発注され、当社の受注は異形管のみであった。しかし配管距離が23kmも追加され,急拠クボタの直管が大量に納入されることになったのである。36年には,東京市水道にも700トンを納入したとの記録が残されている。 

ガス管にも大量採用 

 明治37年(1904)には、ガス管にも採用された。開業に向け着々と準備を進める大阪瓦斯(株)へは、この数年来,所主自身が売り込み に奔走していたが,当時,同社は資本・技術とも米国主導で,特にミラー取締役技師長は国産品の品質不安を強調し,輸入管採用の強硬論者であった。しかし,時の片岡直輝社長は,国産奨励の見地などから第1期導管の大部分1500トンを当社に発注して早期営業開始を目指し、当社も設備をさらに増強して納期確保に全力を挙げたのである。また,製品の検査結果も良好で, ミラー技師長から「輸入品に優るとも劣らず」の称賛を得るところとなり,引き続き同社から大量の注文を受けることになった。 

不断の改善・工夫 

 独立開業後10年余,幾多の苦難を乗り越え鉄管の立込丸吹法を開発した当社は、当時数少ない国産鉄管メーカーとしての地位を築きつつあったが,技術者としての所主は,より能率的な作業方式への改善を絶えず考えていた。一見とっぴな思い付きでも,「まずやってみる」が所主のモットーであった。明治36年に,鉄管の量産方式として「手回し遠心力鋳造法」を発案し,1年ほど試行を続けたが,回転数不足などのため成功しなかった。 

 この間,所主は私的な面で大きな不幸に見舞われた。赤ん坊を背に鞴(ふいご)を踏み,創業期の辛 苦を共にした妻のサンが,5人の幼な子を残し31歳の幸薄い生涯を終えたのである。 

 明治37年1月のことであった。 

 糟糠の妻を失った悲しみを振り払うかのように,懸案である鉄管量産方式の研究に没入した所主は,この年ついに「立吹回転式鋳造装置」を開発したのであった。


(以上55回)


因島抄(順不同)その22

『御調郡誌』より その1

『御調郡誌』は大正14年3月に刊行された。編輯人は澤井常四郎氏であった。三原市のホームページによると澤井氏は1871(明治4)年~1949(昭和24)年。御調郡 篝村(現在の三原市八幡町)の生まれ。兄は高楠順次郎博士。1924(大正13)年に教職を定年退職。三原市本町に沢井家の約4000冊の書籍を移し私立図書館として開放。1930(昭和5)年三原町立図書館の建設工事始まる。名目の三原図書館長。図書館完成後蔵書をすべて寄贈。され,郷土史家として資料を集めたり,多くの写本を完成させるなど,言葉につくせないほどの功績がありました。主な著書に「御調八幡と八幡荘」「御調郡誌編述」 「増補三原志稿」「芸備の荘園」など。


p.11瀨戸 

三原瀬戸 布刈瀨より高根島附近青木瀬戸に至る間にて內外船舶の航路たり、共同長太夫礁及小佐木燈臺あり。 牛の瀬戸 岩子島と向島との間尾道より布刈瀨戸へ出づる航路にて小船巡航船の通路なり。 布刈瀬戸  因島と向島との間にて内外船の航路なり、此處に大濱の信號所あり。 弓削瀬戸 

愛媛縣弓削島と因島との間をいム。 山伏瀬戸 重井村大細島と小細島との間なり。

p.23莊園 所領 

中之荘 初め加茂の神領たりしが、建武五年算氏によりて東寺に寄せらる、神領たりし時村上家預りなりしが如し、建武二年地頭職を浄土寺に寄せたり、應永頃より再び村上家預りとなる、貞和四年小早川氏之が代官となり觀態には本主となったり。 

三津荘 重井 共に當初の本主は文書なければ知ろに由なし、中庄と共に建武二年に地頭職を浄土寺に與へられ、同五年に 東寺に寄附せらる、共他中庄と同じきものと見るべし。 正安中有二三津荘 (東寺文書)延元中有中庄重井庄(浄土寺文書(以上大日本史) )

因島郷 印乃之末 今仍因島全島水分、地理志料心按因諸本作周、印作與、今從高山寺本訂節用集亦作周鳥,收與部蓋 襲已、元慶二年紀備後國隱島神授從五位下東寺文書至德四年輪旨備後國回島地頭職小早川貞平、干祿 


(以上56回)

終わり


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