2026年7月13日月曜日

読書と体験

   読書と体験


 今日もまた新しい一冊が出版されて店頭に並ぶ。 ある人

のある考え方や、ある期間の仕事が、文字の形で記録され、

一冊の本となって多くの人々の手に渡る可能性が付与される

ということは、決して不幸な出来事ではない。たといその一

冊を、私が生涯目にする機会がないとしても、私はそのこと

を心から喜びたいと思う。

 ほんとうにそれが価値多きものならば、発行部数が少なか

ろうとも、いつの日にか発掘されて、利用される日が来るで

あろう。 千でも弐干でもいい、兎に角本という形になってお

れば、それだけ多くの人の目に触れる可能性がでてくるであ

ろう。

 私が普段目にする書物は、人知れず出版されて数奇な運命

をたどった後、人口に膾灸されるようになったものばかりで

はないが、書物というものは元来、そういう宿命を帯びたも

のである。発売後、直ちにベストセラーになる本だけが、い

い本ではない。店頭に並べられる前から騒がれる本だけが、

いい本ではない。外国でよく売れた本だけが、いい本ではな

い。我々が知らないところで秘かに出版され、一部の書店だ

けに並べられたり、小さな雑誌だけに紹介されたりする本の

中にも、きっといい本があるに違いない。

 そういうつもりで、私は一冊一冊の書物に向いたいと思

う。 それにしても、書物との出会いというのは、偶然的な要

素が多すぎる。もともと書物というものは読んでみないとわ

からないものであるから、それも、最後の一文字まで読んで

みないとわからないものであるから、ある本を読もうという

意志自体が、選択というよりも賭けの要素の方が強いだろう。

それゆえ、 読書の選択というのは大抵の場合、直感に頼ると

いうことになる。勿論、様々な先入見や外部の雑音や、その

時の気分もいくらかは影響を与えるが、選択しょうとする意

志は、最終的には直感に従わざるを得ないのである。

 さて、書物の選択がかくも難しいものであれば、我々は書

物に対してどのように対処すればよいのであろうか。幸い私

はこの問いに二つの答えを示すことができる。一つは、手当

り次第にできるだけ多くを目にするということであり、他は

気に入った一冊を深く読むということである。

 それでは深く読むとは、いかなることか。以下、これにつ

いて考察したい。

 書物の読み方には様々なかたちがある。目的の上から分け

てみれば、知識を得るため、人間あるいは人生について考え

るため、娯楽のため、の三種に分類できる。この三種ともに

満たすことができればそれにこしたことはないがなかなか難

しい。

 まず、知識を得るための読書。これは、読む前からはっき

りしている。本の選択もだいたいの見当が着いているから容

易だ。自己のペースでメモをとったり、あるいは適当に記入

しながら読んでゆけばいい。 後は知識の活用次第であるか

ら、今回は深入りしない。

 娯楽としての読書。空いた時間は戸外で楽しむ方がいいと

思っているから、娯楽としての読書はなるべくしないように

思っている。しかし、娯楽用の書物も多く一概に否定する訳

にゆくまい。ただ、娯楽として読むのであれば、質のいい誤

楽を追求する必要がある。勿論、嗜好には個人差があるか

ら、どのようなのがいいとは云い難いが、無闇にベストセラ

ー小説ばかり追いかけないで、自己の計画の基に読むべきだ

と思う。

 本論の中心である、人間あるいは人生について考えるため

の読書は、どうあればいいのであろうか。

 そもそも読書がテレビを見たり音楽を聞いたりすること

と、根本的に違うのは、主体が自分にあるということであ

る。 わかりやすく云えば、読む速度を調節することもできる

し、また途中で読むのをやめて考えることもできるというこ

とである。従って、読書活動というのは、多くの場合、程度

の差はあっても、知識を求める読書であろうと、娯楽のため

の読書であろうと、多少の思考活動をともなうものである。

フィクションでもノンフィクションでも、我々は、人間につ

いて考えたり、社会について考えたりするものである。

 しからば、人生や人間について考えるための読書とは何

か。そもそも、そんなものはないのかも知れない。 おもしろ

いと思って読んでいるうちに、あるいは何かの必要から読ん

でいるうちに、いろいろと人生や人について考えさせられ

る、ということがあるのかも知れない。

 しかし、世の中には、始めから、人間や人生について考え

るために書かれた本も少なからず存在する。多くの小説、特

に文学作品と呼ばれるものは、特別そのような目的に適して

いる。勿論その本来の目的が作者の側にあり読者の側にない

ことは確かであるが、読者は単に作者その人の考えを知るだ

けでなく、人間そのものと格闘することになる。であるなら

ば、我々はいかにそれらの小説と格闘すればよいのであろう

か。世の中には、格闘するに値しないものもまた夥しく多数

存在する。 今、そういうものと区別するために、人間や人生

を考えたりする素材としての小説、詩、評論などを文学と呼

ぶことにしたい。

 やはり、文学作品の読み方として最後に致達する方法は、書

物の世界を体験するということではないかと私は思う。なら

ば、書物の中での体験は、真の体験になりうるのであろうか。

 人はもともと忘れる動物であるから、実際の体験であって

も、全てをそのまま覚えていることはあり得ない。多くは、

記憶の彼方に押しやられ、後は、勝手に思い出として創造さ

れるだけである。 ただ、鮮烈な印象が、後々まで強く尾を引

くといえる。しからば、書物の中における体験も同じことで

ある。ただ主人公になって追体験するのではなく、いかに、

その追体験を鮮烈に行うかということにかかっている。

 普通、小説を読む場合、我々は、筋を追いながら、 主人公

に感情移入をし、様々な行為、様々な感情を追体験する。し

かし、読書がこの段階に留まっている限り、読書の体験はあ

くまでも読書の体験であり、真の体験にはなり得ない。これ

真の体験にまで昇華するには、一端作者の位置にまで降り

てゆかねばならない。すなわち、作者が一つの物語を書くの

に体験したその位置にまで降りてゆく必要がある。勿論作者

とて全てを体験した訳ではなく、想像力の裏で体験したこと

も多い。しかし、その体験というのは、たとえ想像的なもの

であっても、読者のそれよりははるかに深く激しいものであ

ったに違いない。それを読者が、追体験して始めて、書物で

の体験も実際の体験に匹敵するものになる。古来、そういう

読み方を、「行間を読む」と称した。作者が、実際の体験で

あれ、想像力の裏にする体験であれ、体験したことは、書物

に書かれるよりもはるかに多く、その中から選ばれて文章と

なったもののみが、活字となっているのであるから、その活

字になってないところまで読み体験するということを、「行

間を読む」あるいは、「眼光紙背に通ず」と云った訳である。

 しかし、そのような読書能力が容易に獲得されるものでは

ない。従って我々は、解説文や、評論文にたよったりする。

確かにそれも一つの方法である。実は、もう一つ方法があ

る。それは、実際に小説を書いてみて、作者の、あるいは物

語を書く苦労を嘗めてみるということである。

 人も知るように、良き小説の書き手は、また良き小説の読

み手でもあった。それは、小説家が小説を書くという行為に

よって、そのような経緯までも熟知していたからである。

 以上のようになれば、書物における体験も実際の体験に匹

敵しうるのである。(S.54.1.9.)




 




これはある女子短大の文芸部の部誌に掲載されたものである。もちろんペンネームであるが、男ばかりでは予算の都合上よくないと言って、女性名にされてしまった。