2026年6月16日
一二 山名政豊書状 (裏紙付)
敵舟弐艘切取、
同可然者討捕之由候、
神妙儀候、弥か様
調法可爲肝要候、
将亦地下警固出
由候、能々可有候褒美、
恐々謹言、
六月八日政豊(花押)
村上左衛門大夫殿
(切封墨引)
村上左衛門大夫殿 政豊
差出人 山名政豊
名宛人 村上左衛門大夫 (四代吉直)
時期 六月八日。年代不明。
内容 応仁・文明の乱にいての協力へのお礼。
備考 文明六年(一四七四)以前のこと。
山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は、8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。
一三 大内高弘書状(一四九九)
今度与風至佐賀関、金蓮寺
着津候之間、令申侯、仍先狀如令
申侯、爱元弓矢之儀、近々事候、
各至豊前国出張侯、大友備前守
同発足一両日中候、然者此
度被相談警固事、可預馳走
候、併憑存侯之趣、委曲金蓮寺 憑(たの)み
令申侯、恐々謹言、
三月廿四日 高弘 (花押)
村上備中守殿
差出人 大内高弘
名宛人 村上備中守(3代吉光か?)
時期 明応八年三月廿四日(一四九九)
内容 警固船依頼の件。
備考 大内義興の上洛のとき。
大内 高弘(おおうち たかひろ)は、戦国時代の武将。周防国・長門国の戦国大名大内氏の一族。後に大友氏に仕えた。大内政弘の次男[1](母は不詳)で、政弘の嫡男・大内義興とは異母兄弟関係である[注釈 1]。子に大内輝弘。僧侶時代の名前は大護院 尊光(だいごいん そんこう)。別名として、隆弘(読み同じ)の表記も伝わる。山口の氷上山興隆寺に入って別当となり、出家して大護院尊光と称した。
延徳2年(1490年)、尊光は政弘によって朝廷が東大寺領として与えていた周防国の国衙領の目代に任じられて、以後国衙領の租税は大内氏を経由して東大寺に送付されることになったが、実際には租税が東大寺へ送られる事は無く、大内氏による全国衙領の押領を意味する事になった[4]。
明応8年(1499年)、大内家重臣の杉武明は、豊後の大名・大友親治と組んで謀反を企てた。この謀反では大内氏を掌握すべく、当主の大内義興を追放して、その兄弟の尊光を還俗させて、新たな当主としようという計画であった。この企てを知った義興は先手を打ち、杉武明を誅殺した。尊光は命からがら豊後の大友氏を頼って逃れた[5]。
杉武明の主導した謀反であったが、尊光もその中心的役割を果たしたと見られ、尊光が親しくしていた因島村上氏の当主・村上備中守(村上吉直)宛ての書状があり、その内容は「大友氏の手勢が豊前国の大内領に侵攻して、近々戦になるので、村上水軍の助力を願いたい」という内容であった。
豊後の大友氏のもとへの亡命後、還俗した尊光は、当時の将軍・足利義高(のちの義澄)より偏諱を与えられて高弘と名乗り、大友氏の客将となった。その後、豊後で嫡男となる大内輝弘が生まれ、大内氏当主奪取の野望はその輝弘に受け継がれることとなり、永禄12年(1569年)の大内輝弘の乱へと繋がった。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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