2026年7月11日土曜日

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第122回

 2026年6月16日

一二 山名政豊書状 (裏紙付) 



一二 山名政豊書状 (裏紙付)


敵舟弐艘切取、

同可然者討捕之由候、

神妙儀候、弥か様

調法可爲肝要候、

将亦地下警固出

由候、能々可有候褒美、

恐々謹言、

 六月八日政豊(花押)

  村上左衛門大夫殿


(切封墨引)

  村上左衛門大夫殿 政豊

差出人 山名政豊

名宛人 村上左衛門大夫 (四代吉直)

時期 六月八日。年代不明。

内容 応仁・文明の乱にいての協力へのお礼。

備考 文明六年(一四七四)以前のこと。

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将守護大名山城安芸但馬備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は、8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。

父は山名教豊、または祖父とされる山名宗全の子で、教豊の養子ともされる(教豊は享徳3年(1454年)に宗全から家督を譲られて山名家当主となっていたが、応仁元年(1467年)9月に陣没し、宗全が当主として復帰している)。宗全との続柄は史料によって分かれていて、『続群書類従』・『寛政重修諸家譜』に記録されている系図では宗全の子で教豊の後を継いだと記されているが、『尊卑分脈』・『但馬村岡山名家譜』・『応仁記』では教豊の子としている。また、享徳3年に宗全が隠居、教豊が幕府に出仕した時に従った息子次郎が政豊に比定され、長禄2年(1458年)の幕府の記録にも次郎政豊の名が載っている[1]。いずれにせよ、政豊が宗全の後継者であったことは間違いない。[応仁の乱が始まった応仁元年の御霊合戦畠山義就に加勢、文明4年(1472年)8月に隠居した宗全から家督を継承、翌5年(1473年)に応仁の乱の最中に宗全が死去したため、文明6年(1474年)に東軍方の細川政元と和睦する。この際和睦に応じなかった畠山義就や大内政弘を攻撃している。また、文明2年(1470年)に摂津に在陣中に政弘の家臣仁保弘有と共に東軍の工作で寝返ったともいわれるが、この時内通したのは官位が同じ弾正少弼だった大内武治という人物で政豊とは別人である。文明7年(1475年)に叔父(兄とも)の山名是豊と戦い西軍方として活動していた山内豊成が恩賞配分の不満から備後で反乱を起こしたため調停に努め、文明11年(1479年)閏9月から文明13年(1481年)にかけて赤松政則の支援で頻発した分家の領国の反乱鎮圧のため山陰地方に下向、因幡守護山名豊時伯耆守護山名政之を助けて因幡国人毛利貞元山名政実山名元之を排斥、領国を安定させたフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)


 一三 大内高弘書状(一四九九)


 一三 大内高弘書状(一四九九)

今度与風至佐賀関、金蓮寺

着津候之間、令申侯、仍先狀如令

申侯、元弓矢之儀、近々事候、

各至豊前国出張侯、大友備前守

同発足一両日中候、然者此

度被相談警固事、可預馳走

候、併憑存侯之趣、委曲金蓮寺    憑(たの)み

令申侯、恐々謹言、


 三月廿四日   高弘 (花押)

  村上備中守殿


差出人 大内高弘

名宛人 村上備中守(3代吉光か?)

時期 明応八年三月廿四日(一四九九)

内容 警固船依頼の件。

備考 大内義興の上洛のとき。


大内 高弘(おおうち たかひろ)は、戦国時代武将周防国長門国戦国大名大内氏の一族。後に大友氏に仕えた。大内政弘の次男[1](母は不詳)で、政弘の嫡男大内義興とは異母兄弟関係である[注釈 1]。子に大内輝弘。僧侶時代の名前は大護院 尊光(だいごいん そんこう)。別名として、隆弘(読み同じ)の表記も伝わる。山口の氷上山興隆寺に入って別当となり、出家して大護院尊光と称した。

延徳2年(1490年)、尊光は政弘によって朝廷が東大寺領として与えていた周防国の国衙領の目代に任じられて、以後国衙領の租税は大内氏を経由して東大寺に送付されることになったが、実際には租税が東大寺へ送られる事は無く、大内氏による全国衙領の押領を意味する事になった[4]

明応8年(1499年)、大内家重臣の杉武明は、豊後大名大友親治と組んで謀反を企てた。この謀反では大内氏を掌握すべく、当主の大内義興を追放して、その兄弟の尊光を還俗させて、新たな当主としようという計画であった。この企てを知った義興は先手を打ち、杉武明を誅殺した。尊光は命からがら豊後の大友氏を頼って逃れた[5]

杉武明の主導した謀反であったが、尊光もその中心的役割を果たしたと見られ、尊光が親しくしていた因島村上氏の当主・村上備中守(村上吉直)宛ての書状があり、その内容は「大友氏の手勢が豊前国の大内領に侵攻して、近々戦になるので、村上水軍の助力を願いたい」という内容であった。

豊後の大友氏のもとへの亡命後、還俗した尊光は、当時の将軍・足利義高(のちの義澄)より偏諱を与えられて高弘と名乗り、大友氏の客将となった。その後、豊後で嫡男となる大内輝弘が生まれ、大内氏当主奪取の野望はその輝弘に受け継がれることとなり、永禄12年(1569年)の大内輝弘の乱へと繋がった。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)









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