9人
一六 陶隆満書状 (裏紙付)
加州上国之時者、依不得隙
不参申侯、且者御心安故候、
殊刀一腰国久慥到來候、
怡悦之至侯、此等之趣被相
心得、御伝達所希侯、恐々
謹言、
十二月廿八日 隆満 (花押)
村上弥次郎殿
進之候
(裏紙)
陶安房守
隆満
村上弥次郎殿
進之候
差出人 陶隆満
名宛人 村上弥次郎 (5代尚吉)
時期 十二月廿八日
内容 加州・村上吉直へ刀一腰贈られたことに対するお礼を依頼の手紙
備考「因島史考」p.116では5代尚吉と村上弥次郎は同一人物
陶 持長/隆満(すえ もちなが/たかみつ)は、戦国時代の武将。周防国の戦国大名・大内氏の庶流陶氏の一族で、後に毛利氏の家臣。前名は持長(もちなが)。 大内氏の奉行人及び評定衆として活躍した。
明応6年(1497年)に陶弘詮の息子[1]として生まれた[2]。兄に興就、妹に観室永喜がいる。
このころ、大内氏当主・大内義興は肥前国の少弐政資を自害に追い込んだものの、合戦は翌年まで続くなど、戦乱は続いていた。持長はそのさなかに生まれたのだった。
天文7年(1538年)、大内氏・大友氏間の和平にて、大内氏側の正使として持長が出向き[12]、和平を成立させた。
このころ、安芸国の国衆・毛利元就の嫡男・毛利隆元が下向してきており、持長も隆元と対面している[13]。
そして、同年~10年(1541年)までの間に隆満へと改名する[14]。
天文10年には安芸銀山城の城督に就任する[15]。
出雲遠征以降の隆満
編集天文11年(1542年)、義隆は安芸・備後国の処理を終え、出雲に出陣する。隆満もこれに従っており、龍崎隆輔とともに、義隆の意を分国内外に伝える役割も果たしている。
だが、天文12年には尼子氏に敗退し、隆満も撤退することになる。
その後も隆満は活動を絶やさず、天文13年1544年には、陶隆房・多々良(詳細不明)・杉重矩・内藤興盛・杉宗長(興重の法名)・飯田興秀・弘中興勝・相良武任と共に分国の法度を公布している[16]。
天文16年(1547年)、遣明船派遣の条々を公布する[17]。
天文18年(1549年)、地下官人・真継久直の鋳物師活動に対して、鋳物師公事役を徴収するよう弘中隆兼・陶隆房・問田隆盛・杉興運に義隆の命を奉じた[18]。
大寧寺の変以降の隆満
編集天文20年(1551年)、陶隆房(のち晴賢に改名)の謀反に協力し、山口へ乱入して長門国に逃亡した大内義隆主従を死に追い込んだ(大寧寺の変)。変後も積極的に協力して、周辺の益田氏や周布氏に書状を送っている(『周布家文書』)。
翌21年(1552年)、大友義鎮の弟・大友晴英を新当主として擁立、翌22年(1553年)正月には、足利義輝より白傘袋・毛氈鞍覆を免許される[19]。
その後、天文24年(1555年)の厳島の戦いで、晴賢は毛利元就に敗北し自害する。その後、隆満は周防に侵入してきた毛利氏に降伏し、その家臣となった。
その後の消息は絶えたため死去または隠居した可能性もある。没年不詳。跡は隆秋が継いだ
一七 毛利元就同隆元連署書状(裏紙付)年代不明12月28日(1538〜1555)
一七 毛利元就同隆元連署書状(裏紙付)
就村上新蔵人被申儀
蒙仰候、得其心候、所帯等
於裁判之砌、可致其心
得候、不可有疎略候、弥警固
馳走肝要之由可被仰候、
恐々謹言、
三月廿三日 隆元(花押)
元就(花押)
隆景
御陣所
(切封墨引)
右馬頭
備中守
隆景
御陣所 隆元
差出人 毛利隆元 毛利元就
名宛人 小早川隆景
時期 (年代不明)三月廿三日
内容 村上氏の処遇を配慮するので警固の忠節を尽くすように
備考 隆景からこの書が村上氏へ渡された
文書21(1557)に新蔵人推挙のことが出て来るので、これより後
毛利元就(1497年〜1571年)
「先祖調査のため、直系尊属に関する戸籍について、たどれるだけ全て発行してください。」
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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会