2026年7月23日木曜日

因島抄 1~10

 因島抄(順不同)その1  

コウモリ谷

所在地 北浦乗越乙三五~一、この山の珪石は最初、広島県因島の岡清太郎が採掘をはじめ、数年後の昭和三年(一九二八)五月、住友金属株式会社が買いとり、かなり大規模に採掘を行った。しか し、めぼしいものがなか ったらしく昭和七年(一 九三二)に閉山した。『伯方町誌』p.36 

島四国

このように本四国を巡るには、金も時間もかかるので、岡山県の 神島(笠岡市神島)や因島の新四国(島しょ部にあるものは「島四国」と呼ぶ)、福山の港町・川口・野上を巡る新四国を巡礼する人が多 かった。 『沼隈町誌民俗編』p.469

子安講 

昭和三〇年(一九五五)代までは、春と秋に神島(岡山県笠岡市) や因島にある新四国の子安さんに参っていた。『沼隈町誌民俗編』p.465  因島島四国61番香園寺(田熊町浄土寺内)のこと。

石工

石工は頼まれると他の村にでかけて仕事をすることが多いが、松本彦右衛門は因島三庄村から常石に住まいを移した石工で、ここを拠点にたくさんの作品を残している。彼は明治二十年(一八八八)から沼隈で仕事をはじ め、明治二八年一一月から明治三〇年二月にかけての作品には「石工因島三庄」と刻んだり、名だけを刻んでいるが、明治三一年八月以降はところを「常石」と刻んでいる。『沼隈町誌民俗編』p.614 


(以上34回)


因島抄(順不同)その2  

青峰山

志摩に青峰山(あおみねさん)という朝熊山(あさまやま)より少し低い山があります。難破しそうになった漁師たちが青峰山の十一面観音を念じると、その火がポッと出る、その方向に漕いでいくと陸に出るという伝承が残っていますが、かつて青峰山で火を焚いていて、それを目印にしたからだとおもいます。五来重『四国遍路の旅 上』(角川文庫)p.49 *重井町北浜に青峰山を祀っている家がある(写真)。おそらく農船で出作をしていたのであろう。十一面観音を念じれば、日暮れても無事に帰れた。朝熊山(あさまやま)は伊勢神宮の奥の院。



因島のコレラ薬

尚又(ショクアタリ)(カデクスリ)(ケンインコチヨガン)インノ島のコレラクスリ、右の薬御送り被下、【発信人 マニラの伊津友吉 マニラ消印1912.2.3】【宛先 沼隈郡田島村 伊津美す(妻)】。武田尚子『マニラへ渡った瀬戸内漁民』(御茶の水書房)p.327

 *1912年は大正元年。因島のコレラ薬を島四国遍路(明治45年創設)で買ってきたとは考えられないので、別のルートで田島まで広まっていたのだろうか。

打瀬船

『明治三十六年広島県水産試験場事業報告』より。武田尚子『マニラへ渡った瀬戸内漁民』(御茶の水書房)p.142。*右写真は鏡浦町。手前が小学校。上部が鏡浦漁港で打瀬船の帆柱が見える。三浦村は外浦、鏡浦、椋浦から成る。明治22年発足。昭和23年4月解体。



荘園

中之荘 初め加茂の神領たりしが、建武五年尊氏によって東寺に寄附せらる、神領たりし時村上家預りなりしが如 し、建武二年地頭職を浄土寺に寄せたり、応永頃より再び村上家預りとなる、貞和四年小早川氏之が代官となり観応には本主となったり。 

三津荘 重井荘 共に当初の本主は文書なければ知るに由なし、中庄と共に建武二年に地頭職を浄土寺に与へられ、同五年に東寺に寄附せらる、其他中庄と同じきものと見るべし。 正安中有三津荘」(東寺文書)延元中有中庄重井庄」(浄土寺文書)(以上大日本史)(『御調郡誌』p.23)

(以上35回)




因島抄(順不同)その3  

第1回国勢調査(1920年大正10年10月1日)の記録(峰松育夫氏提供)


(以上36回)



因島抄(順不同)その4  

第1回国勢調査の記録(承前)

(以上37回)


因島抄(順不同)その5  

 幻の名著だと思っていた「土生村風土記」を方々に問い合わせて探してきて3年ほどが経った。たまたま村上武次氏より寄贈された資料を見ていたら、因島土生町文化財協会発行の「郷土文化」18号と19号に村田市郎「土生村風土記」として2回にわたって連載されいたことがわかった。

 今回はその中で「土生村庄屋大土生、宮地家家譜」を再掲する。(「郷土文化」18号)

初代土生村庄屋 慶長ヨリ寛永五年迄参拾ヶ年勤務  土生村 清左ェ門光時

二代土生村庄屋 寛永五年ヨリ承応元年迄二十五年勤務 清左ェ門ノ子 久右衛門時一

三代土生村庄屋 承応元年ヨリ明暦三年迄四ヶ年勤務  久右衛門ノ子 久右衛門明久

四代土生村庄屋 明暦三年ヨリ元録九年迄四十二年勤務  久右衛門ノ子 清九郎光氏

五代土生村庄屋 元録九年ヨリ享保六年迄貳拾六年勤務  清九郎ノ子 清左ヱ門光弘

六代土生村庄屋 享保六年ヨリ元文三年迄拾八 ヶ年勤務  清左ヱ門ノ子 多郎四郎光政 但四十二年卒ス

七代 土生村庄屋 元文三年ヨリ安永五年迄勤務 多郎四郎ノ子 清左衛門康貞 但六十七年卒ス 但安永五年ヨリ寛政元年迄重井村庄屋兼帯、天明元年ヨリ寛政元年迄土生村庄屋再勤、年数五十二年勤務此年数ノ内、大浜村椋浦庄屋兼務ス 年限不詳。

八代土生村庄屋 安永五年ヨリ天明六年迄拾壱ケ年勤務 清左衛門ノ子 又次右衛門貞久

九代土生村庄屋 寛政二年ヨリ文化四年迄勤務一七年 清左衛門ノ子 藤蔵康久 但八十二年卒ス

十代土生村庄屋 文化四年ヨリ文政十一年迄勤務 藤蔵ノ子宮 地久右衛門為重 但六十九年卒ス 但文化十年田熊村庄屋半役兼帯、文政四年椋之浦庄屋拝命天保六年土生村庄屋再勤、同七年田熊村庄屋兼帯、同九年社倉主役拝命、弘化二年割庄屋格拝命

十一代土生村庄屋 文政十一年日以天保六年迄勤務 久右衛門ノ子 藤三郎空光 但二十八年卒ス

十二代土生村庄屋 天保十一年以安政六年十一月迄勤務 久右衛門ノ子 清左衛門為歲 但四十三年卒ス 但嘉永二年ヨリ田熊村庄屋半役兼帯、安政四年迴船方頭取拝命、同五年ヨリ病気、同六年依願免職ス。

十三代土生村庄屋見習拝命 萬延元年申七月一日 文久二年戌八月廿八日本役拝命 清左衛門ノ養子 宮地良左衛門春房 但四十七年卒ス 当郡中庄村神宮 宮地義広四男 同官一弟 明治二十一年四月没 

 なお、大土生宮地家の墓は対潮院と旧宅の裏にある。

 大土生宮地家長屋門の写真が掲載されているが現在はない。


(以上38回)



因島抄(順不同)その6  

 因島土生町文化財協会発行の「郷土文化」19号の村田市郎「続土生村風土記」より、

土生町内摩崖仏造立所在地表 六ヶ所土生町内史跡文化財目録を再録する。(p.36-38)

土生町内摩崖仏造立所在地表 六ヶ所 

一、郷区池の奥木野山さんに遺る巨石群摩崖仏  奥州南部宇曽利山大師尊像他二体 

一、郷区焼家谷奥 一体三頭観音座像 

一、赤松峠山上巨岩三体弘法大師立像  石鎚大權現 秋葉神社 金之大神 

一、長崎岩屋寺巨岩摩崖仏三体  弘法大師立像 不動明王像他 

一、宇和部小学校奥八坂寺巨岩五輪塔壱基 巨岩下の石室に無縁仏が十体程が奉祀されてい る。 

一、因島公園中腹の巨岩には大岩大明神が奉祀され ている。 

土生町内史跡文化財目録

1、大山峠道祖神地蔵堂                                    2、大山船方みち山神社奥宮 

3、郷草迫の道棲寺跡石仏五輪塔                                       4、木野山神社摩崖仏三体 

5、宝地谷小丸山城跡                                         6、宝地寺跡石仏群百二十体 

7、宝地谷荒神社と古代遺跡                                         8、大土生宮地家庄屋敷跡 

9、対潮院薬師堂と西国観音石仏群            10、対潮院内巻幡家連墓所及庄屋宮地家墓所 

11、田熊土生越明体古戦場跡と石仏群一石塔                        12、焼家谷奥摩崖三頭観音 

13、龍王山石鎚神社と雨乞祈願所                 14、広畑の大楠と笠塔婆伝今岡四郎の墓 

15、串畑谷天神社と中世刀鍛治跡                                16、島前城跡と長源寺跡石仏 

17、巻幡家祖藤原泰高墓所と耳護社                                18、島前波止のお鳥喰さん

19、箱崎戎神社と龍宮神岬祠  

20、土居巻幡家大家敷跡と石仏五輪塔石窟 

21、江の内明神社と箱崎浦合戦古戦場跡           

22、宇和部八坂寺巨岩五輪塔 

23、土生小学校開設記念碑由興明治四十年建立                  24、赤松幡磨石巨岩摩崖三体 

25、塩浜明神社と因島船梁創設記念碑                                  26、長崎城々山史跡 

27、荒神山城跡と宝筐印塔壱基                         28、荒神平岩屋寺巨岩摩崖仏三体  

29、高野山夫婦松跡地蔵堂                                       30、平木村上水軍弓場跡

31、因島公園鯖大師堂と島四国石仏八十八体   32、因島公園弘法大師銅製尊像大正八年建 3

3、因島公園つれ潮の道水軍和寇記念碑    34、因島公園村上家長崎城開城六百年記念碑 

35、天狗山頂上石神社石室享和三年奉祠      36、大山神社舟型手水缽一基、享禄三年 

37、大山神社社頭自然石灯籠一基享禄三年建    38、大山神社社宝山神原出土須恵器二点

39、宝地谷奧巨石群「ドンジ石」                        40、郷区三庄峠才の神石仏 

以上町內史蹟文化財四十ケ所 平成二年十月町內史蹟文化財再調  村田市郎 

(以上39回)


因島抄(順不同)その7 因島市史料  

 因島市史料は因島市史編纂過程で蒐集された古文書を解読して冊子にしたものである。貴重な資料であるから、ここに目録を作っておく。

第一集

安永三年  村立実録帳           重井村  1   

宝曆十四年 村立実録帖           田熊村   29 

享保十一年   村立実録帖                               中庄村   47

                  御調郡中庄村差出帖         中庄村   83

      国郡志御用に付下しらへ書出帳    大浜村  101 

      芸藩通志抜粋因島の部                               111

第二集 

            条々(表題なし)       

    御用米御定例御仕法書  9

    御城米御送状 写       19

            関舩理法書 47

            被仰渡書写 55

            御條目   59

            椋之浦 三ツ庄村 両浦廻舩定書 65

            虎江新造 幸徳丸   小遣帳 73

第三集 安政三年 差上書類控 三庄村分    

第四集

    一、寛永十五年九月吉日  備後国御調郡因島内土生村御地詰帳                 1

  二、寛永十五年九月吉日  備後国御調郡因島内田熊村御地詰帳                 29

    三、元禄十年閏二月廿七日 備後国御調郡因島之内土生村新開御地詰帳              69

    四、天明二年四月十日   備後国御調郡田熊村之内大山奥山入相新開地詰帳     75 

第五集

  因島村上家文書  1

  金蓮寺在銘瓦   33 

第六集  能島来島因島由来記

第七集  武家萬代三島海賊家軍日記

第八集  武家萬代三島海賊家軍日記(続)

第九集

    一、寛永十五年九月吉日  備後国御調郡因島内外浦御地詰帳                  1

  二、寛永十五年九月吉日  備後国御調郡因島内重井村御地詰帳                 17

    三、明暦三年酉三月廿六日 備後国御調郡因島之内重井村新開御地詰帳              79

    四、延宝三年未九月 日    延宝七年御調郡椋浦御年貢米請取通           99


(以上40回)


因島抄(順不同)その8 椋浦の漂流民

 千石船の盛んな時代、椋浦では船主だけでなく船乗りになる人も多かった。それは狭い耕地を考えれば当然であっただろう。その流れの中から、椋浦とは関係のない船に乗る人も出てくる。また遭難に会う機会も増える。漂流民も出る。椋浦の亀蔵(後、亀五郎)は後にアメリカ彦蔵と呼ばれた男とともに遭難した。以下、吉村昭『アメリカ彦蔵』(読売新聞社)より引用。p.292~。(● は改行)。

 帰国の途についた遣米使節を乗せたアメリカ軍艦「ナイアガラ号」は、九月十日に香港に入港して、石炭、食料、水の補給をし、その間、新見らは香港に上陸したりして日をすごした。● 十八日に出港したが、前日に一人の日本人がアメリカ人の紹介状を手に清国の小舟に乗って艦にやってきて、オランダ語通訳官のホイットマンに面会を申し入れた。 ●ホイットマンが会うと、男は亀五郎と名乗り、かなり流暢な英語で自分の身上話をした。 ●亀五郎は、芸州椋之浦(広島県因島市椋浦町)の生れで、十年ほど前、船乗りとして江戸から帰航中、熊野灘で遭難、破船漂流してアメリカ商船に救けられ、サンフランシスコに上陸した。一同十七人であったが、清国に送られる途中、ハワイで船頭が病死。亀五郎は、治作、彦蔵とともにサ ンフランシスコにもどり、船の炊に雇われてすごしていた。● その船で長い航海をしてサンフランシスコにもどると、すでに彦蔵は神奈川に、治作は箱館にそれぞれ帰国したことを耳にした。● ただ一人になったことを知った亀五郎は、狼狽して日本へ行く船を狂ったように探しまわり、商船「ロッジル号」が商用で香港へ行くことを知って船長のノルデネルに乗せて行ってくれるよう懇願した。船長は承諾し、亀五郎は水夫に雇われて乗船し、五十日間の航海をへて香港についた。かれは、遣米使節団の乗った「ナイアガラ号」が入港したのを知り、それに乗せてもらって帰国したいと考え、ホイットマンに面会を申出たのだという。● 亀五郎の話に同情したホイットマンは、正使の新見豊前守にそれを伝えた。新見が会ってみようと言ったので、ホイットマンが亀五郎を連れてゆくと、亀五郎は新見の前にひれ伏し号泣した。● 家臣がおだやかな口調で問いただし、亀五郎は、涙で声をつまらせながら香港にたどりつくまで のいきさつを陳述した。● 亀五郎の話に強く心を動かされた新見は、「ナイアガラ号」の艦長に亀五郎をこの場で引取りたいと申出た。これに対して艦長は、艦に乗せて日本へ連れていってはやるが、新見に亀五郎の身柄を託すことには強く反対した。アメリカの法則では、漂流民を引取る折りには、その地駐在のアメ リカ領事から艦長宛の申請書の提出が必要で、適当と認められた場合のみ許される。そうした手続きをへていない亀五郎を、日本側に引渡すことはできないという。 新見は、さらに懇請したが、艦長は頑くなに拒否の姿勢をくずさなかった。 そのため両者話し合いの末、帰国後、亀五郎を艦長から駐日アメリカ公使に引渡し、その扱いは公使の判断にゆだねることに決定した。この話し合いに従って、亀五郎は艦に乗って品川に上陸後、 公使館に拘留され、公使館は幕府の役人に引渡したという。 ●「以上のような次第で、亀五郎は只今、江戸で御吟味を受けておりますが、亀五郎の陳述にまちが いはありませんでしょうか」● 役人の言葉に、「相違ございません」と、彦蔵は答えた。


(以上41回)


因島抄(順不同)その9 

 山内譲『海賊の日本史』(講談社現代新書、2018)は歴史学者の最新の見解と受け取ることができる。以下、p.149より。(● は改行)。●因島村上氏の本拠は、備後国因島の東岸に位置する中庄(広島県尾道市)である。中庄の入江の先の布刈瀬戸は山陽沿岸と燧灘を結ぶ重要な航路であった。中庄の集落背後の標高二七五メートルの地点には因島村上氏の本城とされる青陰城が位置し、集落の中には菩提寺とされる金蓮寺も所在している。また島の周囲の沿岸部には長崎城、青木城、幸崎城、千守城などの城が配置され、これらは近海を航行する船舶ににらみをきかせていたものと思われる。●  因島村上氏は、因島周辺のみならず、そこから遠く離れた海域でも活動した。一五世紀後半に瀬戸内海を旅した大徳寺の禅僧没倫紹等(もつりんじょうとう)(一休宗純の弟子)の日記には、豊後の沖で村上と号する「院島の海賊」と遭遇したが、その海賊は、一三艘の船を連ね、二百余名 の兵卒を抱える集団で、旅人たちの乗った船を周防国遠崎(山口県柳井市)まで連行してい ったと記されている(臼井和樹「『[没倫紹等日記]』断簡」)。遠崎は、中国本土と周防大島にはさまれた大畠瀬戸に面した港で、大畠瀬戸は、周防灘や伊予灘と広島湾を結ぶ海上交通の要衝である。ここで、因島村上氏は、船舶の側と通行料の交渉に当たったのだろう。これ をみると因島村上氏は、室町・戦国初期には、大畠瀬戸に面した遠崎などを拠点にして、周防灘や伊予灘などの海域にまで活動範囲を広げていたことがわかる。● 因島村上氏の活動拠点としてもう一つ重要なのは備後国鞆(広島県福山市)である。鞆は、芸予諸島を抜けて東方に向かう航路と山陽沿岸航路が合流する所で、風待ち、潮待ちの港としての自然条件にも恵まれていたので、古くから多くの船舶や旅人が足をとめた港町である。因島村上氏は港の入り口に位置する大可島(たいがしま)に城を築いて港や沿岸航路を支配した。● 因島村上氏の全盛時代を築きあげたのは、吉充と弟の亮康である。吉充は、小早川氏や 毛利氏との結びつきが強く、一五六一(永禄四)年の豊前蓑島沖での合戦、一五七六(天正四)年の摂津木津川口での合戦などにおいて他の村上諸氏とともに戦功をあげた。また一五八二(天正一〇)年に、来島の村上通総が離反した時にも毛利氏への忠誠を誓い、小早川隆景や毛利輝元から周防国内に領地を与えられている。●  また、亮康は前記の鞆を支配して「鞆津主」と呼ばれた。亮康は小早川隆景配下の水軍として山陽沿岸ににらみをきかせたが、一五七四年に室町将軍足利義昭が信長によって京を追われ鞆に移ってくると、その護衛と監視も重要な任務になった。● ところで、海賊衆村上氏は、瀬戸内海から外洋に出て倭寇とかかわりを持つことはなかったのだろうか。ともに海上活動をこととすることから、海賊と倭寇の関係に関心が持たれ、松浦党同様に村上海賊も倭寇とのかかわりが問題にされることがある。これまで述べ てきたように村上海賊の主な活動時期が一六世紀であることを考えると、倭寇との関係があるとすれば後期倭寇の時期になるが、第二章で述べたような後期倭寇の実態からすると、村上海賊が倭寇にかかわる余地はないように思える。しかし、それでもしばしば村上 海賊が倭寇の構成員となったかのような言説がなされるのは、近世の軍記『南海通記』 (巻八)に、能島村上氏が海外へ出て戦ったかのような記述があるからである。しかし、 『南海通記』はもともと物語性の強い軍記で、それだけを根拠に結論を出すことはできない。● それでは一次史料ではどうかというと、村上氏に残された史料をみる限り、同氏が海外に進出したことを示すような記述はみられない。また、中国側の倭寇関係史料に精通している田中健夫も、村上氏が倭寇の一翼を担った明確な根拠はないと述べている(『倭寇』)。 これらのことからすれば、村上氏が倭寇に関与した可能性は低いといえる。


(以上42回)


因島抄(順不同)その10

 中国新聞社の『瀬戸内海上』(昭和34年)は昭和32年からの連載記事をまとめたものである。当時の交通事情や社会情勢を考えれば、取材の事情は最近の比ではなく極めて困難

なものだったと想像できる。現在から見れば、異を唱えたくなる記述もあるが、そのまま記して資料とする。p.43より。

 因島(広島県因島市) 広島県に属する島だけで約150島、因島の大 きさは県下で一、二を争う。(面積40平方、人口2万2千) 昭和28年5月1日、近隣他町村にさきがけて市制がしかれ、"一島一市"というのは、全国で因島だけであろう。御調郡内の郷の名に「印乃之末」と書いた古書が あり、千年前から史上に名をあらわした島だと、郷土史家は信じている。島には"村 上"と名乗る氏 が 非常に多い。商工会議所所在地である「田熊」、島の中央部にある「中庄」の町は、それぞれ三百世帯ばかりあるが、半数は"村上"と名乗っている。驚いていると土着の人は、その理由を話してくれた。● 昔、戦国時代、村上三郎左衛門義弘が、海の野武士としてここに城を構え、海賊となった。村上水軍と呼ばれ、内海の招かざる客として勇名をとどろかせた。今日、中庄町の青影山が その本拠で、土生町の日立造船"城山クラ ブ" が出城になっていたものである。天下太平の徳川時代になって、海将村上水軍もその足を延ばす余地がなくなり、因島に定着して、農業、漁業に従事したー「村上氏」が多いゆえんである。同姓同名は、はき寄せるほどある。郵便配達さんは、家の格式や交際関係をのみ込み、差出人をみてカンで配達する。税金の令書などが間違えられると、笑えぬ悲劇を起すこともあるそうだ。● 島の生活は、大なり小なり、日立造船因島工場とのつながりにおいて、ソツのない呼吸が続けられている。因島市土生町というところは、明治末期までさびしい一寒村にすぎなかったが、造船所が設けられてから、修繕船の出入りに恵まれ、物資の動きが盛んになり、人口がふ え、大正7年ごろから、町筋には紅灯の一郭さえ設けられ、絃歌さんざめく繁栄をみせてきたものである。●日立造船の前身はこうだ。慶応3年、今から約90年前、英人エドワード・ハズレット・ハンター氏が海外飛躍の大志を抱き、郷里アイルランドのロンドンデリーから帆船に身を託し、香港、上海を経て横浜に上陸、大阪のクスリ問屋平野氏の娘愛子と結婚、四面環海の日本の立地条件から、将来造船業がさかんになることを予想し、明治14年大阪鉄工所を設立、小型木造船、陸上機械をつくった。明治40年、因島が波おだやかで水深く、海岸線が長いことに目をつけ、大阪鉄工所因島分工場を設けたのがはじまりとなっている。 日立造船の従業員4500人、臨時工1500人、合計 6000人。島の男は、あげて造船所へ勤務する。家業は商業でも、息子、娘は造船所へ行くという家庭が多く、一 戸で一人は必ず造船所と関係しているという。支払われる月給は、一ヵ月一億円を越える。この一億円が、島の経済の背骨になっているわけだ。因島北部の方は段段畑 がひらけて、除虫菊、サッマ芋、ノリ、ミカンなどが、わずかずつ耕作され、四季花のにおいに包まれて美しいが、百姓はもっぱら主婦の仕事、亭主は造船所へ通い、農繁期だけ工場を休むのである。


(以上43回)