2026年7月10日金曜日

空海と水銀

  島田荘司さんの作品で一番な好きなのは「羽衣伝説の記憶」である。これは「北の夕鶴2 3の殺人」の続編にあたり、さらに「涙流れるままに」「龍臥亭事件」と続くのだが・・。二番目に好きなのが「暗闇坂の人喰いの木」で、これは気持ちの悪い怖い話だがゴシックロマンの傑作である。その中に水銀を動脈注射すると剥製になるというような話が出てくる。島田さんの講演会には二度行った。最新科学の知識を本格推理に使うべきだというのが持論のようで、昨年の「アルカトラズ幻想」でも重力と恐竜の話が出てきて、よく調べておられるのに感心する。(別の作者のガリレオシリーズも、科学技術満載で、これはこれでおもしろい)。だから、水銀の話もほんとうだとは思うが、謎のままだった。

 以前、四国八十八ヶ寺巡りを車で二回行った。高野山へはその間一度参詣した。四国では、西行が訪ねた崇徳上皇陵(「雨月物語・白峰」)、平賀源内の墓、屋島、義経上陸の地、紀貫之住居跡なども近くにあった。また、内子から岩屋寺へ向かう険しい山道では大江健三郎さんの小説に出てくる森のイメージが膨らんだ。とはいえ、四国遍路というのは弘法大師空海のゆかりのお寺を巡るのものであるから、空海関係の本を読むことになった。

 司馬遼太郎さんの「空海の風景」は良い入門書である。空海の難しいところは史実としての空海と、弘法大師伝説とをどう見極めるかということにあるが、史実とかけ離れた伝説は空疎だし、伝説から完全に独立した空海伝があるとも思えない。そういうことを考えながら、読めば読むほど聞きしにまさる大変な人物であることがわかった。天才である。書も文章もすごい(難しい)。おそらく経典も他の書籍も読めばたちどころに理解できたのだろう。それに謎の多い人物である。そして夥しい弘法大師伝説。満濃池の改修(これは史実らしい)や井戸や水に関する伝説から、土木技術に熟知していたのではないかと思う。また、食べ物や病気に関する奇跡の話も多い。そして、伝説は今も作り続けられている。これは空海に限らず、安倍晴明でも西行でも信長でも、秀吉でも・・小説やブログで。

 空海と水銀に関する伝説が特に気になったので調べてみると、それらの多くが、松田壽男「丹生の研究―歴史地理学からみた日本の水銀―」(早稲田大学出版部)と「古代の朱」(ちくま学芸文庫)に拠ることがわかった。丹生という地名、丹生神社の存在地を訪ね、古記録や土質の化学分析から古代の水銀生産地を推定するという実証的な研究である。古代の水銀の重要性については、奈良の大仏の金メッキに水銀が使われたということでよく知られている。帚木蓬生さんの「国銅」(新潮社)にも描かれている。すなわち、金を水銀に溶かして、大仏の表面に塗り、水銀を蒸発させれば金が残る。同じ原理で金鉱石から金を取り出すこともできる。水銀は硫化水銀HgSとして産出する。これは赤に近い色をしていて、辰砂とか朱砂と呼ばれ顔料(色素)としても利用されたが、加熱すれば水銀になる。

 過日、井原市の丹生を訪ねた。近くの猪が掘り返した山肌は見事な赤土で、肥沃な土壌だと思われた。因島の痩せ土ばかり見ている私は思わず羨望の念を抱いた。

 松田博士の研究から、高野山が水銀産地だったことがわかる。また、中央構造線付近は鉱山資源の豊富なところで、水銀も産出したことが明らかである。ここから空海と水銀とのかかわりが示唆される。現に、高野山の金剛峯寺には丹生明神社も存在する。有名な「高野の御山にまだおはします」(「梁塵秘抄」)というのは、入定・即身仏という大師信仰の中心をなすもので、空海は仏となって高野山の奥の院の御廟で今も生きているという信仰である。

 松田博士は水銀の防腐効果に関連してイタリア、スペインのミイラで水銀を注射した跡のあるものを紹介されている。島田さんの水銀の話もこのことかと、二十年以上たってやっとわかった。

「空海の風景」にバイリンガルのはしりのような人だと書いてある。また、司馬さんは「花神」の終わりのほうで語学は技術だと言う。このことは明治の教育史にも出てくるので司馬さんのオリジナルな見解ではないと思うが、明治時代のみならず、空海の時代も、また現代でも当てはまるだろう。

 水俣病以来、水銀はすっかり悪者になってしまったが、物理的にも化学的にも素晴らしい性質をもった金属であることには変わりはない。超伝導はオランダの物理学者オンネスが一九一一年に水銀で発見した。これらの業績でオンネスは一九一三年にノーベル物理学賞を受賞した。水銀産地だった空海の高野山は熊野古道などとともに二〇〇四年に世界文化遺産に登録された。