小学校史 その49 戦後編 白滝市活動16
白滝市活動の運営の具体例を、『子供の町 白滝市の歩み (白滝市10周年記念)』(因島市立重井小学校、1965年2月)から見てみよう。第3章「白滝市十年の歩み」p.33-34
2.白滝市の歩み
このようにして新しい町は出来た。あたかも古い着物を脱ぎ捨て、新しい洋服を着たのにも似た姿ではなかつたろうか。しかし、近代的市民性の育性をねらったこの洋服をどのように着こなしていったらよいのであろうか。
これはまさに児童自身の自覚にかかわる問題であり、教育の本質に直結する問題でなけらねばならない。 即ち本当の意味での町づくりは、これから始まるのである。
町づくりとは、私たちのものにしていく過程でなければならない。児童自身のものにすることである。即ち、ここでは町づくり即重井教育としてとらえられているのである。私はこの意味から過去10年間の白滝市の歩みを「私たちの町づくり」の過程として、次の三期にわけ て考察してみたい。
第1期 白滝市の発展期(昭和30年度~昭和33年度)
白滝市の草創期で、あらゆる教育活動を日常実践活動とのつながりに求め、白滝市活動
として、まとめようとした時期である。
第2期 特設道徳時間と白滝市活動 (昭和34年度~昭和36年度)
白滝市活動による生活指導的方法の弱さを見出し、児童の内面化を特設道徳時間に求め
た。きめられた時間にのみ、市民性を培うのでなくて、常に教師の愛情のみなぎってい
る雰囲気を構成し、日常のどんな場でも友人どうし助け合い、励まし合い、誘い合って
いく人間 関係を作っていきたい。そのための授業研究を重ねた時期であった。
第3期 基礎学力と白滝市活動(昭和37年度~現在)
基礎学力を充実させることによって、個を磨いていこうとするもので、これが現在の方
向である。
このような過程が具体的にはどのように展開し、どんな条件によって支えられて今日の
白滝市に連続しているのかを見ていきたい。
第1期 白滝市の発展期
子どもに新しい洋服を着せたからといって、すぐに、古い垢が落ちるものではない。ましてその垢は第三者的立場から落せるものではない。子ども自身がその垢に気づき、自らの手で、一枚一枚落していく道こそ白滝市活動なのである。教師はまさにそのような子どもたちの姿勢をつくることでなければならなかつた。
では新しい洋服を着た当時の子どもたちの姿を教師は、どうとらえていたのであろうか。
昭和30年の記録によると
⚪︎昨年に比べて男女間の仲がよくなり、活動が円滑になった。また弱い性格の友だちに親切になった。
⚪︎問題点としては
1. 奉仕作業は活動的に進んでするが、思考を要する仕事になると頭から考えようとし
ない。
2. 依存心が強く、言われないと簡単な仕事もしない。
3. 計画性に乏しい。
4. 批判力に乏しい。
5. 自分は正しい意見を持っておりながら、他人の権力や腕力等によつて左右されるこ
とが多いようだ。
というのが、教師によって把握された当時の子どもである。要するに地域の封建性によって培われた自主性の乏しさをとらえているのである。また、当時はまだ今日のような農法が発達しておらず農繁期が春秋の二期に集中していたので、子どもたちにも三日間の休暇を与え、農繁期の手伝いをさせていた。その休暇中に於ける自主性の問題をつぎのように調査している。
自主性の程度 6年 5年 4年
A.自分から進んで
家の手伝いや勉 25% 22% 22%
強をした
B.両親、先生など
に言われた仕事 67% 73% 69%
や勉強をやった
C.言われた事もあ
まりしない 8% 5% 9%
しかし、このような調査によつて自主性の問題を論じることの可否は別として、とにかく現実の子どもたちは、近代的市民性とは程遠いことをとらえようとしているのである。そこで、このような自主性のなさはどこに原因があるのだろうか、どうすれば自主性をのばすことができるかといった方向に課題をとらえようとしているのである。そこで具体的には教育課程の中に、くみこまれた日常実践活動を重視するのでなければならない。
子どもたちが生活の中に、問題を見出せるような場を構成し、彼等がその問題へどうたち向い解決していったかという一連の働きを追求し指導していかなければならない。そこで専門部や学級での仲間づくりをやり、子どもの生の声を聞き、子どもたちのもつ生活問題を専門部活動や学級会活動で発展的に解決するような努力が傾けられた。
例えば朝会を儀式的な意味にとらえず、集会活動の一還として「民主的集団の基礎的訓練の場」としてとらえ、共通の問題を話し合うことによって仲間づくりをしようとした。
また、専門部活動に直接参加しない低学年に対しても、市民活動として次のような活動が実残された。
(1) 時間 毎週専門部活動の時間20分
(2) 場所 月水金 講堂
火木 校庭庭
(3) 活動内容
月、警察署 交通練挨拶等生活指導の目標について
校内の小石、ガラス、紙屑拾い。
持物指導、避難訓練
火、体育館 徒競争、ラジオ体操の指導、遊びの指導
水、放送局 童話の会、歌の会、ラジオ放送
木、体育館 火曜日と同じ
金、映画館 寸劇、お話の会
(以上53回より)
小学校史 その50 戦後編 白滝市活動17
白滝市活動の運営の具体例を、『子供の町 白滝市の歩み (白滝市10周年記念)』(因島市立重井小学校、1965年2月)から見てみよう。第3章「白滝市十年の歩み」p.34-36
2.白滝市の歩み(承前)
さらに、校外生活指導においても、ねらいはあくまでも、校外で起った自分たちの問題を協力して解決するように仲間関係をめざした。そのために月一回の定期的な区会以外に、各地区で広い家の部屋を借り、随時区会を開いていた。しかし、区会の問題は常に一般社会とのかかわり合いの中で解決をせまられている。そこで、相談役とも言える指導者を教師以外に各区から、補導委員として、4名づつ参加してもらつた。特に夏季休暇中の問題には熱心に指導して下さったものである。例えば、細島は本島と離れ、交通にも不便であり、その他色々な条件が重なって、全般的に本島の子どもより学力が劣る。そのような問題を解決しようとして、集会所の二階で青年団が中心になって、子供会を開いていた。その子供会では、会を運営するのに必要な費用を各家庭から徴集したりしないで、夏には、柑橘の害虫「ホシカミキリムシ」を採って、農業協同組合に売って、その費用にあてた。また、毎朝ラジオ体操後、瀬順のよい時には、貝掘りをみんなでやり、その純益(一夏に合計4・5千円)で図書を購入していた。また表現会を開催して、茶菓の費用に当てたりして、楽しい一日を送ったり、毎年続いている道路掃除に使う箒代等に使ったりした。その他週に二回朗読会や珠算会も子供の希望で開いていた。(この活動は7・8年続いたように思う)
このように子どもたちの全生活をふまえた白滝市民としての仲間づくりの活動に努力をはらったのである。
しかし、このような種々の活動がそれぞれの場面で、ばらばらに実践されるのみでは、白滝市活動としてのまとまりはできてこない。即ち、白滝市という一つの組織体が成長発展するための働きとなるには、一つ一つの活動が相互に、有機的な関連をもち、個が全体に全体が個へとはねかえる過程がなければならない。
そこで、上記のような実践の中から生れた子ども一人一人の願いを学級会や専門部や区会等を通して、市議会にまで結びつけるのでなければならない。そこに結集された問題が充分ねりなおされた時はじめて白滝市民としての共通な課題が生れ、それが個々にはね返って実践されたとき、有機的な関連をもつた白滝市民活動となるのではなかろうか。
この一連の過程の中心を成するのは、あくま でも市議会である。
市議会は提案された問題の速かな処理をねらうよりも、討議の仕方の練習を兼ねて一週間に何回ももたれた。特に連続して、市議会を開きたい時は、議員の登校を30分早くして議会を開いた。当時の議員の記録を見ると、次のような文があった。
市議会 六年 村上由美子
月水金は、朝7時45分から市議会がある。私は、だいたいの日は遅刻をしないが、今日は 遅刻をしたのだ。理由は巴ちゃんをさそって、おそくなったからです。でも、友達をさそう事はいいことだと自分では思っている。
議長がこれから第15回市議会を始めますといつて議事にとりかかり、しばらくすると遅刻者が入って来た。国会議事堂のように机を並べたが、みんなが遅刻をするのではだめだろう。もう少し、みんなが熱心にすればきっと、会のきらいな人も楽しくなるにちがいない。
今こうして目をとじてみると、一学期収入役を勤めていたころが思いうかぶ。予算会議があると、みんなは「また市議会かあ、ええこたあなあ」といった。それを聞くと、私の心の中は 悲しくなってしまう。白滝市民の代表である議員がなんということか。一学期によく歌った、「子供会の歌」を歌う度に、聞く度に、その事が思い出される。私は、この歌を歌いながら、議員の声と、なんかかんかで涙をこぼした。だから、なるべく遅刻をすまいと思うが、するようになる。今度から、絶対に遅刻をすまいと心に決めた。
教師も子どもも、なんとかして「私たちの町」にしようというあがきにも似た意気が感じられる。しかし、それが仲間づくりをする過程で生じる必然の内部矛盾であるのかもしれない。
一方専門部活動と区会との関連をねらつて夏休みを盛んに利用した。その計画表をひもといてみると
イ.白滝警察署
「安全な水泳」という単元の展開として許可された時間と場所持物の指導、水泳にお
ける「きまり」についての指導
ロ.保健所
単元「伝染病の予防と美化」の研究と実践
各区の道路、溝の掃除(6年間連続している)
ハ.体育館
放送局と共催し、単元「水泳大会」「ラジオ体操会」を開く(PTAの援助)
ニ.郵便局
単元「お便り週間」の展開、暑中見舞の絵はがき作製と販売。先生やお友達にお便り
をしよう。夏休み中の小使い帳と貯金の指導
ホ.購売組合
単元「百貨店」学用品の陳列と販売
ヘ.白菊、白滝新聞社
「夏休み号」の発刊、校内行事、その他白滝市民として、夏休み中の生活に対する市
民の声の報道など
ト、映画館
単元「巡回幻灯会、部落別に幻灯会をしよう。」
チ、科学館
単元「星座の会」星座の会を夜開催する。研究して市民にお世話する。
このような多彩な市民活動の展開にも拘わらず、子どもの「泥くささ」はそう簡単にぬけ切るものではない。それを果たすものは教科指導でなければならない。しかし、かつてのような教科の論理に依るのでは、その役目を表すことはできないのではないか。日常実践活動を基盤に成長した白滝市活動であればそれを生かした教科への経験の拡充でなければならない。即ち単なる教科の論理を捨て、子どもの生活の論理を教科学習に生かすことである。このような要求から行われたのが第一回促進学校研究発表会であった。しかし、そこでの成果は期待された程のものではなかったが、その論理を白滝市活動の中に生かすようになった。即ち、問題追求の連続が生活指導であり、白滝市の町づくりなのだということである。
このような論理に 支えられて、白滝、白菊の両新聞のあいだで、学習発表会の世論調査をめぐって、記事をあらそったり、3年生の掃除の問題が市議会でとりあげられたりした。
このような活動の中から「テレビを買う」という白滝市の活動が生れたのである。この活動のねらいは市民全体の共通な願いを具体的な生活課題として設定し、それを一つの渦 として白滝市の組織が有機的組織体として働きをもたせようとしたものである。従来、生活目標とか市長の公約は、「美しい町にしよう」とか、「進んで挨拶をしよう」とかいつた類のものであつた。しかし、この「テレビを買おう」というのは、生活課題が妥当なものであるかどうかは別として、とにかく発想を共にしたものであった。
「当時、テレビの出始めで重井町には2、3台 しかなかった。子どもたちは白滝市にテレビをという目標のもとに出来るだけ専門部活動を生産的活動に向けた。区会では落葉集めとか、貝堀り、廃品回収にあたった。このような努力の結果子どもたちの力で一応17インチ テレビを購入することが できたのである。
しかし、このような活動によって、本当の意味で「私たちの町づくり」ができたであろうか。近代的市民性を培うという意味からの自覚に深く切り込み得たであろうか。このような活動をしておれば自然に仲間づくりが出来、市民として自覚ができるのだといった憶測以上のものは出来ないのである。協力して、テレビを買った、とか行事をやり遂げたから仲間づくりが出来たといった容易さではないか。
仲間づくりが単なる仲よしに終ってはいないだろうかという不安にかりたてられる。仲間づくりの中味についての検討、人間のつながり方の詮索を等閑にしていたのではないかという反省が起ったのである。 (第1期おわり)
(以上54回より)
小学校史 その51 戦後編 白滝市活動18
白滝市活動の運営の具体例を、『子供の町 白滝市の歩み(白滝市10周年記念)』(因島市立重井小学校、1965年2月)から見てみよう。第3章「白滝市十年の歩み」p.37-39
第2期 特設道徳時間と白滝市
町づくりとは人間づくりでなけらねばならない。即ち白滝市活動を通して、近代的市民性を培おうと、子どもたちの活動を工夫し、運営に努力して来たのである。そうして、二回にわたる全国教研への発表と、毎日新聞社からの表彰。新聞やテレビ、ラジオ等を通して学校部市「白滝市」の名は全国に知られるようになった。
白滝市という町づくりは、或意味において成功したと言えるのである。しかし、現実の子どもが形に現われた後、内面的に質的転位を遂げているであろうか。教師の疑問はそこからはじまった。白滝市の中に仲良し委員会が設けられたのは、昭和34年度であった。しかし、それは、充分な活動をしないま二学期を経ずして消えて行かなければならなかった。当時の生活指導方針立案のための問題点を読んでみると、次のような点が指演されている。
1.うれしさ、悲しさ・・が解放的で、素直なのは、良いとしても、それが極めて単純で一人
一人の心の動き、行動が粗野である。
2. 専門部の時間が多いためか、学級での指導が全校まで及ばないのか、それとも、反復の 練習が足らないのか、廊下などで注意してもそれが撤底しない場合が多い。等々
白滝市活動のねらったものは確かにこんな人間像ではなかったのである。そこには何か欠けているものがあるのではないか。思うに近代的市民性とは、自己自身にたちかえることであり、自覚することでなければならない。このような内面的充足のうらずけのないところに近代的市民性はあり得ない。花々しい白滝市活動が果そうとして果し得なかった面がそこにあるのではないか。それが現段階において、子どもを見つめるきびしい目によって確認されはじめたのである。
しかし、それは日常実践課程をふまえた白滝市活動に過りがあったのではなく、生活指導的方法のもつ弱さから来たものではないかと云うことが反省された。当時本校に於いては、広島県の道徳教育研究校及び特別教育活動研究校として指定された時期であった。そこで前述のような反省に立って、生活指導的方法の弱さを充足するものとして特設道徳時間を設置し、その指導方法の研究を進めることになった。しかし「 道徳」時間と自滝市活動とは両者全く相入れない存在ではなくて、指導方法の上で異なるるものと、考えたのである。むしろ、質的には生活を見つめるという点において同一のものであり、相補い合うものとして、研究を深めていったのである。
このような考えから、昭和65年度に第一回の道徳教育研究会を催したのである。研究 テーマは「道徳」時間の内容とその指導法のあり方であったが研究授業は「道徳」時間と学級会及び専門部活動を行ったのである。
この研究会の持つ意義は、特設道徳時間の内容とその指導方法を研究する上で特別教育活動と区別したことにある。その後の道徳教育研究会は昭和36年、37年と連続して行われ、特設道徳時間のカリキュラムも立案されたがこの研究会の立場と方向は変わらなかった。
この意味から考えると、この第一回道徳教育研究会が、その後の自滝市活動の在り方に及した影響は大 きなものがあった。
「白滝市の歩み」第2集はこのような研究の過程の中から生れたものであった。
とにかく、この段階に至って、白滝市活動は新指導要領に示された特別教育活動として明確に位置づけられたのである。従来、白滝市専門部活動は、自己を磨くことによって全体に奉仕するという所謂クラブ的性格と、奉仕的性格の一体化によって運営されるのを特徴として来た。しかし、専門部によっては奉仕的性格が強く、クラブ的性格が弱いという
ものがあることが新しく問題となってきた。このような課題を担って、一年間にわたって昭科30年度にまとめた「白滝市の営み」を再検討したのである。その結果、新しく昭和55年度に「白滝市専門部」という活動計画案を作製した。子ども一人一人の白発性、自主性を重んじ、趣味を生かした活動を計画したこの案も実践してみると結局「各部の全体的活動に偏してしまった感が強い」と反省している。
しかも、「市議会は度々開いたが、各部の連携が不充分で、市全体として纏まりが乏しかった」とも言っている。
しかし, これは生活部担任によって、自滝市全体の運営という立場から概括的にとらえた見方であった。
当時の記録を紐解いてみると、著しい特色は特設道徳時間の授業研究の記録と並んで学級会、専門部活動の実践記録の累積の多いことである。
その一例として、4年生の学級会「(みどり子ども会)の発表会について」の教材についての項には次のように書いてある。
⚪︎係活動が活発になり、教室を美しくしようと一部の子どもが相談して装飾を施しはじめた。
飾ってみると子ども達の夢は、学芸会まで進み学級会で話し合わずに一部で練習をはじめた。ししかし他の子どもたちからの批判で学級会を開き、皆んなでしようと云うことになった。名
も「みどり子ども会」ときめ、当日には家の人に観てもらう相談が決った。
⚪︎ところが「観覧券」を5円で発行し、そのお金で暑いから、後でアイスケーキを買って話を
しようと思うのですが先生どう思いますか」と相談にきた。私は、それは大切な問題だから
先生一人で決めるわけにはいかない。みんなで話し合いをして決めたらどうかともちかけ
た。
⚪︎四年生になって目立つことは、或一部の有力なグループで先走った行動をすることである。
「それはみんなで話し合ったら」と言うと、「みんなでするとなかなか言うことを聞いてく
れないし、まとまらないと云うのである。
私は、まわり道でもみんなで相談をして、とり残される子供のないように指導すると共に民
主的な実践方法を身につけさせたい。そして、子どもたちの旺盛な表現力をどこまでものば
してやり、そういう一連の過程の中で一歩一歩ぶつかる問題をみんなの力で解決していくよ
うに指導したい。
この実践例からもわかるように、児童のすべてが強い問題意識をもち、連続追求していけるような活動、生活を廻転させるような中心軸を求めて、学級会活動を工夫し努力しているのである。このような特別教育活動の在り方は、第1期に「町づくり」の過程で考えられた問題の連続的追求という理論と全く同一のものである。専門部活動においても、同じ立場や考えで計画し実践しているのである。にもかかわらず、確かに第1期のあの花々しい白滝市白滝市活動とは、変っている面がある。それは、生活を回転させる軸を中心にした人間のかかわり合いをとらえようとしている点である。
これは特設道徳時間の指導方法を研究する過程で培われた、きめのこまかい生活指導の目であると考えてよい。このような変化は専門部活動の中にも現われて来た。
生活部の提案で検討された「専門部活動充実のための工夫」を見ると、例えば、生物研究所では、次のように方向を見定めている。
バラの1本1本を子どもたちに割当て「私のバラの木」とする。
⚪︎ある程度、花の処分を子供にまかせる。
⚪︎また、子どもたちも「私のバラの木」として花の手入の仕方を研究したり、肥料や器具
にも意欲的に気を配るようになる。
⚪︎校内バラ展を催し、表彰する。
⚪︎生態研究、病虫害の研究も必要に追られてするようになればよいと思う。
専門部日誌はこのような専門部活動から、生れた。子ども一人一人に専門部ノートを持たせたのもこの頃である。
このようなきめの細かい特別教育活動動、即ち、白滝市活動の展開が白滝市民としての見方考え方をもった実践人の育成ができると考えたのである。
しかし、生活部担任も指適したように「町づくり」が一つの渦となって躍動するような活動はなかったといってもよい。自滝市としてのまとまりがないと云ったのはそれである。
(以上55回より)
小学校史 その53 戦後編 白滝市活動20
白滝市活動の運営の具体例を、『子供の町 白滝市の歩み(白滝市10周年記念)』(因島市立重井小学校、1965年2月)から見てみよう。第3章「白滝市十年の歩み」p.39-40(承前)
では一体、この問題をどう解決したらよいのであろうか。「町づくり」という生活を廻転させる中心軸を求めなければならない。
このような要求から考え出されたのが「生活のルールを確立しよう」ということであった。このような発想が起ったのは次の二つの理由からである。
(1) 抑々、特設道穂時間の研究が進められたとき次のような一つの結論が出た。特設道徳時
間でねられた道徳意識の定着化、実践化の場は自滝市活動である。
同時にその実践の場における問題点は「道徳」時間にはねかえって深化拡充されなけ
ればならない。
(2) 現実の子どもを見たとき次のようなことが 問題化していた。集会活動の目的とそれに
対する指導は何処で、どのようになされるべきか。
そこで、先ず第1に生活指導系統表を正し、生活の規則をつくることである。第2点
として市議会によって、月別の生活目標を設定する。それを守らせるためには、今まで
の専門部に置かれていた警察署では不可能であるからこれを廃止して、公安委員会を設
置しようというのである。
© 公安委員会 - 市役所内に常勤委員2名を置き、各専門部か
ら交替(週一回毎)で腕時委員 (6 名程度) を出し、次の仕事を行う。 1. 生活目標を実行させる。 2. 校舎内に於ける休憩の仕方 3.廊下の歩行 4. 講堂集会の入退場の世話 5. 始業前中間の休憩時及 び放課後等の校
内巡視 6.登下校の補導 その他、任に当る週は 校外に於いても、腕章 をつける。 これが現在も続いている公安委員制度の最初の 原案である。その後、細案が協議会に提案され たが原案の構きで採択された。
とにかく、このような、方法によって白滝市 活動の中に、市民の自己対決の場をつくり、 「私たちの町」としての意識を自覚にまで高め ようとしたのである。
しかし、草創期に於けるあの躍動性をそこ期 待することはむりであった。何故ならば、白海 市の町づくりは生産的であり、創造的な要素に よって支えられているものである。そのような ものを直接的に道徳に求めようとすることはむ .りではなかつたろうか。しかし「町づくり」は
即「人間づくり」であり、そわけ特設時間の道 一徳によつて深化・拡充された道徳的知見によっ て支えられてのみ可能なのである。この期にお ける実践は充分にはその説を与えてはくれな かつたことを率直に秘めなければならないと思 う。
第3期 基礎学分の充実と白滝市 昭和37年度より本校に於いては特に国語算 数の領域での基礎学力の問題をとりあげ、一人 一人の力をより充実したものにしようと努力し てきた。そこで、研究の集点を子ども一人一人 の思考過程に骨ぎ、どのような要素によつて学 力を身につける事ができるかといつた授業の分 折研究を積み重ねてきた。子どもたちには、こ の思考方法を身につけさせることによつて個を 磨き、白滝市民としての資質を伸長しようとね
らった。
このようなきめのこまかい分析追求の努力は 教師が子供を見る見方を変え、また子供の活動 にもひたむきな努力の仕事に対する確実さ として次第に成果を現わして来たことが認めら れる。 終わり
(以上56回より)