2026年5月19日
一〇 大内政弘書狀 (年代不明)
一〇 大内政弘書狀 (年代不明)
其後久閣筆之様候、自然
之遅怠慮外候、雖無差題目
候、 連々申承候者、可為祝
着侯、委細猶刑部丞可申侯、
恐々謹言
十二月十一日 政弘(花押)
村上新蔵人殿
差出人 大内政弘
名宛人 村上新蔵人 三代吉光(吉充)
時期 十二月十一日(年代不明)
内容 従来から関係維持のお願い。
備考
大内 政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名。大内氏第14代当主[注釈 2]。父は大内教弘、母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘[注釈 3]。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強勢を誇っていた。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。
出生と家督相続
編なお、康正3年(1457年)に父・教弘が幕府に無断で安芸武田氏を攻めた際に勘気を受けて、幕府によって当時亀童丸と呼ばれていた政弘が大内氏当主に立てられ、それが寛正4年(1463年)に教弘が赦免されるまで続いたとする研究がある[注釈 4]。
細川氏との対立
編集父に引き続き日明貿易(勘合貿易)をめぐり管領細川勝元と争い、細川氏と敵対する伊予の河野通春を支援する。これに対し細川氏は大内氏追討の幕命を発し、安芸分郡守護武田信賢や安芸国人小早川煕平・毛利豊元らが安芸で大内軍と衝突した[注釈 5]。
一方、京から追放されて父が引き取っていた斯波義敏は、政弘と勝元との敵対で政弘から離脱し、寛正6年12月30日に上洛。将軍・足利義政に赦免されると、翌文正元年(1466年)7月23日に斯波義廉に代わって斯波氏当主に復帰、8月25日に越前・尾張・遠江の守護に任じられた。義廉は寛正6年の段階で畠山義就と山名宗全(政弘の義理の祖父)と繋がっていて、政弘も宗全と連携、これらの確執が応仁の乱の際に反細川氏側につく要因となる[
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一一村上吉充譲状
ゆつり状之事
右所々御判地者不及申、其外私領
并札浦等事、亀若丸ゆつり
渡者也、守先例相斗御屋形様江
無余儀可致奉公候、女子分之事者、
其身一後のちハ、吉充あとめへ可返候、
仍之狀如件、
文明十五年十一月十五日 吉充(花押)
亀若とのへ
差出人 村上吉充
名宛人 亀若
時期 文明十五年十一月十五日
内容
備考
リンク
因島・ふるさとの歴史を学ぶ会