2026年7月14日火曜日

私の昭和史 1 (連載53回〜57回)

 セレクション 53回より57回まで。  続き:私の昭和史第2 58回から


私の昭和史 その1

1宮地医院

 昭和と言っても私は昭和26年の生まれだから、覚えているのは昭和30年頃のことからであろう。

  今でもよく覚えている初期の記憶は、祖母に連れられて中庄町の宮地医院へ行ったことである。これは幼稚園を休んで行ったのではなかったから、上の幼稚園(重井学園)へ行く前のことである。なお上の幼稚園には2年保育もあったが、私は1年保育であった。そのあと下の幼稚園が1年で、それから小学校入学である。

 ゴムタイヤのついた荷車は我が家には二つあった。その小さい方で、糖尿病の祖父を乗せて、重井町川口の我が家から、中庄町の入川橋の宮地医院へ通うのである。姉は下の幼稚園で弟は母が見たのであろう。

                      


 その頃は一本松から南は菓子処中島のこちらの家があるだけで、途中は家はなく中庄町 に入り、上池(うわいけ)、下池(したいけ)を過ぎて、丸池の方へ行く道の手前とその辺りに2軒だけあった。上池はインター出口、下池はひだまりの下に現存している。

 (写真、上が北:A:一本松、B:上池、C:下池)

 これらを祖母は、うわいけ、したいけ、中の庄のお じいさんの家、おばあさんの家と順番に、おとぎ話でもするかのように、教えてくれた。

 次がゲートボール場になっている片刈池である。祖 母は、「ひょうたん池」だと教えてくれた。『因島の文化財』の表紙に使われている絵図では、確かに瓢簞形に描かれているから、「ひょうたん池」で間違ったいなかったと思う。この瓢簞池では泳いでいる鳥を「鴨」だと教えてくれて、それが潜って、少し後に離れたところから顔を出すのを、止まった見せてくれた。何度見ても面白かった。

 そこから現在因北小学校の正門前になっている道を南へ進んで土手の上に上がる。そこで左折して入川橋のところまでいく。そこに宮地医院があった。隣に雑貨店というのだろうか、小物屋があって、茶碗を買って帰った。その頃新しく買った陶器は水を入れた鍋に入れて沸騰させ、冷ましてから使っていた。

 川の向こうに立派な垣のあるお屋敷があって、その向こうが外浦町であった。こちら側を左に曲がると唐樋であるが、どちらへも行かなかった。

 ただ、中庄のお宮へ連れて行ってもらったように思う。記憶が曖昧で祖母に連れらて見に行ったのか、小学校の遠足で行ったのか定かでないが、馬の像があったことだけを覚えている。

 その頃は、今と違って舗装などしてなくて、雨が降った後は水たまりが路上にあり、その上をバスが通り過ぎるのだから水たまりはさらに大きくなるというような時代だった。だからバスが通りすぎると砂埃が舞った。道端のヨモギ、チチ草、カヤなどの葉は砂埃で白くなっていた。今は舗装されているから雑草は目立つが、当時は雑草の中に道があったのだから何とも思わない。当時はまだ青影トンネルはできておらず、バスは重井町から中庄町を経て大浜町へ行っていた。ボンネットバスという前が低くなっている型である。(以上53回より)



私の昭和史 その2 因の島バス

 上の幼稚園へ行く前の年というと私は昭和26年の生まれだから、昭和30年になる。その時、中庄町の入川橋の宮地医院へ行ったのだが、そのルートに大川橋は含まれていない。それなのになぜ大川橋という名前を覚えていたのか? それは中庄町のバス停が大川橋だったからだろう。私が通ったのは現在の因北小学校の正門前の南へあがる道だが、当時はバスが通るほど広くなかった。少し西に現在の駐在所の近くに南へ入る道があって、そこがバス路線だったと最近教えてもらった。その後は入川橋、唐樋を通って大浜へ向かうルートだ。

 その頃のバスは時速30kmぐらいだっただろうか。スピードは遅いが結構早かったと思う。なぜなら信号はないし、おまけに停留所もないのだから、我々が思う以上に所要時間は少ない。これは国道2号などでも同じであった。それに対向車などというものないのだから、これで十分だった。重井は西の浜に停留所が1つあっただけだ。

 大川橋を出た土生行きのバスは重井に入ると大正橋で左折して岡崎医院の前を通って、南小路を通っていた。道いっぱいで屋根瓦に当たることもあった。

 その頃の重井中庄間は今のように平坦ではなかった。現在の因島イ


ンター北のバス停(写真のA)のところで上り坂になっていて大きく迂回していた。今でも駐車場の両側が小山になっているように海ではなかったのだろう。Bの三叉路に塞の神が祀られているが左手へ行けば大浜越えである。現在はしまなみ海道とぶつかるところで消えている。Cの辺りが重井町と中庄町の境である。現在の大浜越えはここである。第三久保田橋のところへ出る。さらに古い大浜越えは川口から白滝山の南麓を通るもので峠道である。これを大浜往還(古道)、Bから入るかつての記憶にだけある道が大浜往還(旧道)、そしてCから入る現在の道が大浜往還(新道)である。大浜往還(古道)は自転車も荷車も通れない。ただ歩けるだけである。最高部から白滝山への参道があり、ゴリラ岩の下へ通じている。柳田國男の「峠に関する二、三の考察」によると峠道は交通機関の発達により、より遠くより低くなるということだが、まさにその通りである。信州などの山国での話かと思っていたが因島でもよく合う。青空文庫にあるので読んでほしい。青空文庫にはリーダーもあるが私はテキストファイルをダウンロードして、読んだところから消していく。

 さて、昭和30年に話を戻すと因の島バスが来ると道の端に止めてやり過ごす。その時自転車の発電機が道端に落ちてあったので拾って帰った。回転はするのだが途中で必ず止まる。その止まり方にクセがあって不思議だった。その頃からおもちゃは少し遊んだら分解していたので、これも分解しようと思ったが、どこにもネジがない。それで金槌で何度も叩いた。何日か続けてやっと外枠が破けて中から磁石が出てきたのでとった。そして次の年の4月から上の幼稚園へ行くのであるが、その前に子守のことについて書いておこう。

 その頃、そしてもっと後まで、多くの家で住み込みの子守の女の子がいて、夕方になると一本松とか試験場の灯篭のところなどに集まって、子供たちと遊んでいた。神社などもそうだったと思う。しかし、私にはその子らに子守をされた経験がない。後で聞いたことだが、尾道から来た子守の女の子がいたのだそうである。そしてある夏の日、私を乗せた乳母車を止めて蝉をとっていたらその乳母車が動き出して、私を乗せたまま崖から落ちた!結果は、今こうして生きているのだから死ななかったということである。しかし、以後私の面倒は祖母が見ることになって、その子は解雇された。後年、小学校の夏休みに子ども会で折古ノ浜へ行った時、かき氷を食べに入った売店でその子とばったり会った。私には記憶にない人だ。大工と結婚して因島にいるとか、父と話していた。なかなかキレイな人だった。こういうオテンバ娘に木登りとか魚釣りとか、片手で釣り針に釣り糸を結ぶ方法などを教えてもらっていたら、もっと面白い子に育っていたと思う。その子守の子らもいつの間にかいなくなっていた。因の島バスが進化したように、時代も大きく変わろうとしていた。(以上54回より)


私の昭和史 その3 上の幼稚園、下の幼稚園、重井小学校

 生まれた時は昭和26年だから御調郡重井村であったが、昭和28年以来因島市重井町になって村という概念はなかったが、町の境界付近は大浜、中庄、それに西浦方面のどこをとっても家がなく、こういうのを村だと思うのはもう少し成長してから。

 昭和30年4月から上の幼稚園に通う。年少組から入っている同級生が何人かいて大きな顔をしていたが、すぐに慣れた。ここでの印象はやはりキリスト教である。弁当を持って行く日というのが時々あった。ご飯を食べる前にお祈りをするのだ。「天にまします我らの神よ・・アーメン」。あるいは弁当のない日でも、唱えていたのか・・。子供たちには意味のないことを唱えるのだから「アーメン、ソーメン冷ゾーメン、冷やしてくったらトッコロテン!」と言ってふざける。

 それとクリスマスの劇は印象深い。例のイエス誕生の物語で、のちにキリスト教について学ぶのに大いに役立った。

 重井学園の遊戯室の柱に島々の伝導者ビッケル船長の福音丸のマストが使われていることと、ビッケル船長に前後して重井に帰省してキリスト教を広めようとしていた大阪の大出万吉氏の石碑が建物の横にあることなどは当時は知るよしもない。

 翌年、昭和31年4月から下の幼稚園に行く。小学校の校舎の南棟、玄関、職員室のある平屋の東側3教室が因島市立重井幼稚園の校舎だった。私は一番奥のさくら組だった。廊下はそこで行き止まりで戸の向こうが小学校側で園児が行くことはなかった。園長先生は小学校の校長先生が兼ねていて、そこの通路を通って来られるという具合だ。

 冬になると石炭ストーブがついた。朝、前日の灰を外の水たまりのような低いところへ捨てて、新しい石炭を入れて点火していた。石炭ストーブの周りには金網があって近くには寄れなかったが、石炭の燃える威力というのは半端ではないなと思った。間近に見ることができたのは、この時だけだから貴重な体験だった。

 もう一つの体験はテープレコーダーだった。ソニー製の大きなオープンリールのもので、録音・巻き戻し・再生の操作ごとにガチャ、ガチャ、シュシュシューという音も懐かしい。これでラジオ番組の「お話でてこい」というのを録音していたのを聞かせてくれた。「お話でてこいドンドコドン・・」というテーマ曲は今でもラジオで流れている。

 その次は小学校である。昭和32年4月に重井小学校に入学する。1年の時の担任は山本普先生で、いつもアコーデオンを持っていた。丸福公園へ連れて行ってくれたこともあった。

 夏休みの最初の日か、あるいは1学期の終業式の日か、学校から昼前に帰ってくると、多くの人が家に集まっていた。祖父が死んだのであった。それまでによその家の葬式へ行ったことがあるが、死人を見たことはなかったので、その時初めて死人の顔を見た。葬儀のことは全く記憶にないが、火葬は重井の焼き場へ行ったことを覚えている。どこかから借りたリヤカーで運んだ。酒一升と500円が謝礼だった。弁当が付いていたのかもしれない。重井の火葬場を見たのはこれが最初で最後であるが、かまど、すなわち焼くところまでは見ていない。高校1年の祖母の時は重井の火葬場は使われていなくて、今のアメニティ公園のところへあった大浜の火葬場となり、昭和51年ごろ母方の祖父の時は今は石田造船がある三庄の火葬場となった。このように各地の火葬場は傷みがひどく徐々に使われなくなっていった。

 小学校1年以前のことであるが、土葬の葬式を一度だけ見たことがある。重井では葬式のことをソーレンと呼んでいた。早めに行って昼ごはんをいただく。読経があって、ソーレン行列が始まる。半紙に書いた役割を読み上げる。1番旗○○さん、2番旗・・・。これは笹のことで、子供。それから位牌、遺影・・いろんなものが故人との関係を考慮して割り当てられており順番に並んで最後が輿になる。役割のない人は輿の後に続く。そして出棺。お寺まで行くのだが途中、角などでシンバルンがジャーンとなる。お寺に上がると輿の台の周りを3周ほど回って輿を台に乗せる。それから読経。そして埋葬となるのであるが、輿から出てきたのは樽であった。それを天秤棒で担いで墓地まで持っていく。すでに掘られた穴に樽ごと埋めた。以前の埋葬されていた残骸の一部が土と一緒に掘り出されていた。寺葬は次第に減り宅葬(自宅葬)へと変わり、さらに業者葬へと変わった。業者葬も本葬よりも通夜の方が盛況になり、更に家族葬へと変わりつつある。既に僧侶なしの家族葬が行われているところもある。伝統とはいえ作られた伝統であるから、新しい伝統を作ればいいのであろう。(以上55回より)


私の昭和史 その4 ニワトリ、風呂焚き、牛

  さて、昭和32年の7月の20日頃祖父が亡くなったのだが、葬儀のことはあまり覚えていないが、鶏を殺して料理したのを覚えている。その頃は多くの家でニワトリを飼っていて、毎日卵を食べていた。冷蔵庫がない時代だったが、その日に産んだ卵を食べるので冷蔵庫がなくてもよかった。友達の家に遊びに行くと、縁の下に鳥小屋がある家が多かったが、我が家では家の前の畑の中に二階建ての鶏小屋があった。 扉を開けて卵を取りに入る。ひな鳥を買ってきて卵を産むようになると、産んだ卵をつついて割るので、白い磁器の疑似卵を少しの間入れておくとすぐにそうしなくなった。また、時々小屋から出してやるとカナブンの幼虫やミミズなどを喜んで食べていた。餌に貝殻を砕いたものをやると卵の殻が固くなるといって、そうすることもあった。

 その飼育しているニワトリのうち、老いたものから順に殺してしょうゆめしに入れるのである。まず、首を切る。少し走ってバタッと倒れる。足を縄で結んで逆さにして吊るし、血を抜く。次に湯で洗いながら毛をむしってから捌く。何しろ冷蔵庫がないのだから速やかに料理する。

 風呂場のボヤを起こしたのはその年の秋だったと思う。というのは下の幼稚園の担任だった先生が来られ顔を洗ってくれたのを覚えているからである。どこの家でも風呂焚きは子供の仕事であった。多くの家では風呂への水汲みも子供がしていた。井戸の上に付けたポンプは出口が二段になっており、簡単な動作でポンプの前と別のところへ送水するのを切り替えていた。その別のところが風呂になっていた。それを押して水を風呂に満たすのであるが、我が家と川本屋には電動ポンプが付いていたので蛇口をひねればよかった。適当な時間の後止めに行く。風呂焚きは割れ木を組む。その下にソクダ(松葉付きの小枝)を置き、新聞紙を押さえてシワにしたものにマッチで火をつけ、それを松葉に移す。必要に応じてソクダを追加する。そして割れ木に火がついたらあとは割れ木を追加する。秋のさつまいもの収穫期に入るとクズ芋を入れて適当な頃に引き出すと簡単に焼き芋ができた。それを取り出した時の火種が隣の割れ木置き場に移って火事になった。その時は風呂焚きを終わって遊びに行っていたから、サイレンの音で気づいたら自分の家から煙が上がっていたという訳である。隣の割れ木置き場は、奥の木小屋と呼ばれた部屋から少しずつ持ってきて置くところだから、ボヤで済んだ。消防団の人が駆けつけてくれたが、その時はまだ手押しポンプであった。そしてホースの先からちょろちょろと水が出る程度だった。しかし、煙が上がって柱が少し焦げただけで風呂も燃えなかった。その後ほどなくエンジンポンプになった。その年か翌年、西洋館でもボヤ騒ぎがあった。これは煙突に溜まったススが爆燃したものであろう。ススは炭素であるから、ある時急に燃え上がる。だから煙突掃除は必ずしなければならない。

 割れ木とソクダは冬に山に採りに行っていた。主に松だったと思う。冬の風が吹いている日でも山の中は風が当たらず暖かかった。適当な長さに切って持って帰り、さらに40cmぐらいに揃えて切って、薪割りをする。日向に重ねて干してから、木小屋の方に移す。ソクダも同様にその時の小枝か落ちている小枝を松葉のついたまま持って帰る。松葉だけを集めた記憶はないが、そうもしていたのかもしれない。

 その木小屋は今も残っていて、床と壁と天井を貼り、アルミサッシの窓と戸をつけて、私のオフィス兼書斎の夕凪亭になっている。

 小学校3、4年の頃、バタンコを購入する。それ以前は牛を飼っていた。そして住み込みの使用人(作男)の人がいた。多くの農家にはたいてい黒い役牛がいた。乳牛を飼っている家もあった。ある日、オカダの主人が運転手とともに少し小さい牛を乗せた三輪自動車でやってきた。そして牛を交換するとともに、7万円か8万円か置いていった。牛は作業用に買ってあるものと思っていたが、こちらが成牛になるまで育てているということがわかった。置いていった牛は少し小さいだけで十分に仕事ができるほどのものだった。牛は、荷車を引いた。また田んぼや畑で鍬(すき)を引いた。芋掘の時牛が鍬を引いているのを見たが、速かったのには驚いた。荷車はゴムタイヤ製で大小2台あった。前を父が引き牛も操作した。後ろを母が引いた。使用人がいるときは母でなかったのかもしれない。牛はおとなしくて、全くこわくなかったが、犬や猫のように馴れることはなかった。

 柑橘類は、今のようなコンテナがない時代だったの木製のリンゴ箱で運んだ。だから家にはリンゴ箱がたくさんあったので、ウサギ小屋を作ったり、千代紙を貼って本棚を作ったり、いろいろと便利だった。今では牛糞の匂いで大変だろが、当時は町中が牛糞の匂いで満ちていたから何とも思わなかった。ハエや蚊も同様である。(以上56回より)


私の昭和史 その5 縄を綯う、ウサギを飼う

 バタンコ(角ハンドルの三輪車)が入ってくるまでは若い使用人(作男)がいた。雨の日は縄を作ったりしていたが、ある時、山へ行って木を切り槌を作って、ついでに子供用のを作ってくれて、それで真似事をさせてくれた。まず藁を水で湿らせて槌で打って節を砕く。それを石に打ち付けて藁の袴の部分を捨てて藁しべをとった。いよいよ縄を綯(な)うのだ。2~3本ずつ左右の手で持ち膝を立て足の親指と人指し指の間で根元を挟む。できるだけ下の方を握って小指と小指をくっつけ、右手を手前、左手を向こうへおいてから、両手を広げて右手を向こうへ左手を手前へ藁を擦らしながら(左巻きにしながら)押していく。向こうのを右手で引いて、先ほどの動作を繰り返す。全体は右巻きになっている。その時両手をだんだん足から上へと遠ざけていく。藁が短くなる前に片方の手に藁を継ぎ足す。少し綯って残りの方も継ぎ足す。この動作の繰り返しである。左右の藁の束は左巻きに捻られており、その束どうしも右巻き捻られている。その方向が逆になっているので、束どうしが元に戻ろうとする方向と束自体が元に戻ろうとする方向が反対方向になって、元に戻らない。摩擦がゼロであれば意味はないのだが藁の摩擦は大きいので元に戻らない。

 後年、ゴム飛行機が流行った。そのとき、動力のゴム紐を二重にして編んで(正確には綯って)いたことを覚えている人もいるだろう。飛ぶ前にプロペラを回してゴムを捻る。だんだん綯っているゴムは戻って普通の状態になりさらにプロペラを回してゴムを捻る。飛ばすときはゴムは元に戻っていくのだが、普通の状態を通り越して編まれた(正確には綯われた)状態まで戻るので、1.5倍ぐらい長く飛ぶことができた。ゴムの滑りを良くするための油を塗ったりしていた。

 その男の人のことを記しておきたい。ある時、田の近くで鰻が出てきた。パッと捕まえて草取り用のカゴに入れ魚六(魚屋)へ持っていくと、500円で買ってくれたらしい。そのお金でモリの先とアセチレン灯とカーバイドを買ってきた。モリの先は竹の先につけた。これを「カナツキ(金突?)」と呼んでいた。それを持って大潮の時の明け方磯に行って、タコと蟹を採ってくるのだ。朝起きた時、すでに大量に採って帰っていた。タコと蟹は実にうまかった。タコは煮物と天ぷらにした。朝寝坊の私は起きてついて行くことをしなかったのが、残念である。子守の娘にしてもこの男の人にしても一緒に住んでいたのに、なぜもっといろいろなことを教えてもらわなかったのかと思う。

 もう一つの話はエガキである。父親はしなかったから、この男の人がいた頃の話である。夏の大潮の頃、近所の人と相談して「エガキへ行こう」と日を決めて行くのだ。T字型の棒の先に上に曲がった棒を渡し、そこに網をかけ、海底を押して小魚や蟹をとるのである。それで藻場を掻き回すと魚が集まるので一人よりも二人の方がいいのである。カラコゲと呼んでいるオコゼの小型の赤い色の小魚がよくとれた。刺されると痛いので手では触れない。 

 その男の人もバタンコが入ってくると、解雇されて、同時に牛もいなくなった。小学校の3、4年生の頃である。確かなことは覚えていない。そのうち亡父の日記でも出てくればわかるかも知れない。それから間もなくテレビが入る。プロパンガスも入る。それやこれやで生活が大きく変わった。その分水嶺がバタンコだった。まさに生活革命の始まりだった。

 それより前の話であるが、銅の針金を集めていた時のことを書いておこう。その頃は金属は貴重で缶詰の空き缶とか壊れた鍋などは捨てずに置いておくと時々サイパンの人が回って来て買って帰る。当時、「ボロ買い」と言っていた。古物商の人をサイパンと言うのだと思っていた。島の名前だということなど思いも知らなかった。その時、銅は特別高かったので電線工事の後、切れ端を拾って集めるのが流行った。電柱工事の時、下に切れ端が落ちる。工事中に取りに行ったら叱られるので工事が終わって工事人が帰ったら電柱の下に行く。そして銅線の切れ端を拾って帰る。銅線だけを束ねて丸くしておき、サイパンの人が来た時出す。それだけを別に測ってお金をくれる。こういうことを経験してない人は、やや信じがたい話であろうが、とにかく金属は貴重な時代であった。そしてそれが当たり前であることはいうまでもないことなのだ。布は売れなかったが、何度も縫い直して使う。祖母は朝から晩まで縫い物をしていた。

 次はウサギを飼っていた頃のことを書こう。銅で稼いだお金でウサギを買っていたかどうかは記憶は定かではないが、ウサギの子は子供どうしで売り買いするものであった。メスが15円でオスが10円だった。子を産ませて売りたいのでメスを買う。りんご箱を蔵からから探してきて金網を張って入り口をつけて横にしたら、それがウサギ小屋である。しかし、その日の夜にウサギ小屋は壊されウサギはいなくなっていた。おそらく野犬の仕業だろうということで、その年はそれで終わった。次の年の春が巡ってきた。今度は入り口をきちんとした扉にするために丸高商店へ部品を買いに行った。今のホームセンターのように自分で選んでレジに持って行くのではない。「〇〇をください」と言わないといけないが名前がわからない。「戸の付け根のところに付ける折れ曲がるもの・・」と言うとおばさんが「ああ、ちょうつがいのことね」と言って置いてある場所を教えてくれる。その時初めて「蝶番(ちょうつがい)」という名前を知った。蝶のツガイというと2個でセットという意味なのか。それから南京錠と錠受けを買った。今度はしっかりしたウサギ小屋ができた。しかし、梅雨になると死んだ。餌が水に濡れていたせいか、あるいは与えてはいけない草を与えたのか。餌はドンゴロス(麻の袋)と鎌を持って近くの野山に取りに行く。チチグサが主だ。白い汁が出ていてもタンポポは便秘になるので不適当だと教えてもらった。スイバは水分が多いので小便をよくして大変だから避けるように言われた。ヤエムグラは「ノドひっかけ」と言って死ぬのでダメだとも。その次の年は梅雨はなんとか越したが、暑さにやられたのか死んでいた。それでその次の年は鶏小屋の隣の物置の奥にウサギ小屋を入れて飼っていたら、見に来た仲間が「日を当てんけ、かまけとる!」と言ったので陽の当たるところに出した・・。こうして経験を積んで秋まで生かすことができると大きくなった。メスとして買ったのに成長してみるとオスだった。サカらせて(交尾させて)やると。生まれたら1匹もらうことになっていたが、「流れた」ということで貰えなかった。しかし明神の方のゲンチョウのおじさんが来て、吊りばかりで目方を測って400円ぐらいで買ってくれた。・・・春の日差しを浴びると今でもウサギを飼ってみたくなる。犬や猫よりもウサギを飼うことは楽かった。なんでも年上の子供から教えてもらう時代だった。(以上57回より)


私の昭和史第58回から