2026年7月14日火曜日

私の昭和史2 (連載58回〜68回)

                  私の昭和史 1 (連載53回〜57回)    

私の昭和史 その6 一町田 怪人二十面相      

 うさぎの餌を取りに行くようなことばかりしていたのではない。時間はいくらでもあった。子供達はいくらでもいた。外に出れば誰かがいる。いつの間にが何人か集まっては山へ行ったり、どこからの空き地で遊んだりする。一町田も近くだからよく遊びに行った。稲刈りをしてから田植えまでの間は広大な空き地だった。まんなかを流れる菜洗い川原はナーラーガーラと言った。ほどよい流量、両側の石でできた土手。ところどこに石橋がかかる。踝(くるぶし)ほど濡らせば水の中を横切ってもしれている。遊びの宝庫だった。エンコと呼んでいたアメンボとメダカとタニシは必ずいた。ドジョウは田んぼの中の水のたまったところにいて、缶詰の空き缶で泥ごと掬い、稲の切り株の間の乾いたところでひっくり返すとクネクネと這い出す。それを水を少し入れた別の空き缶に入れる。缶詰の空き缶は、洗って切り口を金槌で叩いて手を切らないようにした。何にでも使える。鮒は人気があったがなかなか捕まらない。丈平屋の池が続いており、そこにはよくいた。また、縄手の土手の西の端には一町田側にタルヨシという桶屋があって、そこの隣が沼のような形で水が溜まっていた。そこには春になると小さな鰻がたくさん出現する。ハルウナギと呼んでいた。簡単に取れた。しかし、飼育して大きくしたことはない。ここが長右衛門新開ができる前のタンポ(潮廻し)の跡だろう。しかし、海と直接つながっていないのだから鰻が産卵のために遡上してきたとは考えにくい。そこに棲んでいたのだろうか。ここより下流では遊ばなかった。上から見ると文化橋のところで大川原(重井川)と並行になり嘉右衛門のところでポンプで重井川へ排水していた。いかにも深そうで怖かった。菜洗い川原で鰻を獲るには、夕方ミミズをつけた針を割り箸の先で支えて石垣の間に入れて箸は抜き、釣り糸は出しておく。それを翌朝引っ張れば掛かっていると聞いたことがあるが、やったことはない。菜洗い川原の起点は一本松の下で独特の構造をしていた。まず土手の下に四角な排水口がありほとんど埋もれた池の上をコの字型の水路で越して菜洗い川原となる。その浅い池でズガニ(濃い茶色の毛でお覆われたいた)を獲ったことがある。亀も一度獲った。おそらく、ここは一本松以南の干拓地の樋門の跡だったと思った。しかし、この高さまで海面は達しないが、その干拓地はここより低いはずだからそうではないのかもしれない。そのほか、みずすましや、チンボサシと呼んでいたミズカマキリが畦道沿の水たまりの中にいた。タガメやゲンゴロウは見たことはない。オケラはいた。タイワンドジョウ(雷魚)とアメリカザリガニは中庄町にはいると聞いていたが重井町にはいなかった。アメリザリガニが重井町でも見られ出したのは小学校の高学年になってからだろう。一町田に行ってはいけないのはホリドールを散布するときだった。赤い紙の旗が所々に立って、学校でも注意された。ホリドールというのはパラチオンのドイツのバイエル社の商品名で、猛毒である。現在は使用禁止である。稲がある程度成長している頃で、その頃にはあまり一町田には行かないシーズンになっており、注意するまでもなく、行かなかったので事故は起こっていない。冬に氷が張ったとき小学校へ行くときわざわざ一町田を通って行った。少し水の残ったところが氷って白くなっていた。切り株の上を歩くのだが、それでも靴の中に水が入って冷たかった。

 蛇はいくらでもいたが、サカオ(逆尾?)と呼んでいる毒を持たない蛇ばかりで、マムシについて注意されたこともないし、見たこともない。マムシに噛まれたという話を聞いたのもずっと後で、実際に見たのも50歳過ぎてからである。最近はよく見る。おそらく農薬が弱まったり、耕作放棄地が増えたせいだろう。

 家にテレビがつく前に、小学校へ見に行っていた。白滝市活動でテレビを買って、それから数年して二台目だと思うが、中校舎の2階の一番西側の作法室にあって、日曜日の夜7時30分からある「怪人二十面相」を見に行っていた。7時には着いて千秋実と乙羽信子の主演の「ちょっと来てママ」という番組から見る。こちらは関心がなかったので、覚えていない。トリスのコマーシャルが面白かった。6月ごろ明るいので行き始めた。その頃は帰りも少し明るかったが秋は暗くなっていた。近所では久四郎屋が早くテレビを購入しており、日曜日に見せてもらったことがある。「鉄腕アトム」で小さな男の子が頭はポマードのようなもので固め、水泳パンツのようなものを着ていた。飛ぶ時はピアノ線か何かで吊り下げられているのが画面からも見えた。

 テレビより前の娯楽と言えば映画だった。東の浜の倉庫のところへ時々芝居が来ていたが、親が行かないので、当然子供も行かなかった。映画館は白滝しか知らない。小学校の2年か3年の頃からだろう。今日はこれから映画を見に行きます、と予告もなく3時間目ぐらいから行ったように思う。講堂の前の正門を出て南小路を歩く。おそらく先頭が着いてもまだ学校を出ていない学年もあったと思う。自動車など通らない時代だったので、問題はない。白滝映画館は座席と椅子席、それに二階と3つに分かれており低学年から詰めていた。学校から見に行ったものとは別に許可映画というのがあって、これは日曜日に自分でお金を払って見に行った。記録していないので、記憶では両者が錯綜している。「にあんちゃん」19591028「コタンの口笛」19590319「キューポラのある街」19620408「黄金孔雀城」19610329「高丸・菊丸」19590317「海賊八幡船」19600918「裸の島」19601123「源義経」19550703「有り難や節」1961「忠臣蔵」など。「月光仮面」19580730は2回か3回あった。「赤胴鈴之助」19570521も2回か? それから東映アニメの「少年猿飛佐助」1959もあった。これらの作品は封切された年は上記の通りだが、それが因島で上映されるまでどれくらい時差があったのだろうか。(以上58回より)


私の昭和史 その7 かまど

 竃(かまど)は、「くど」とも呼び、左右二つ鍋・釜がかけられるように二連であった。その間の奥に銅壺(どうこ)があり水を入れておくと暖かくなり、冬にはそれで茶碗を洗った。火吹き竹、十能、火箸を近くに置いてある。火鉢用の火箸は金属の二本が一対であったが、かまど用の火箸は今でもゴミ拾いなどに使われているような根元がくっついた細長い板を合わせたものである。まず、古い灰を十能ですくって捨てる。その時火かきを使ったのだったか? 火のつけ方は風呂焚きの時書いたのと同じだ。「割れ木」の下に松葉付きの小枝(そくだ)を置き、新聞紙の切れ端にマッチで火をつけて松葉に移す。松葉に直接火をつけることもあったが新聞紙を先に燃やす方が確実。なお、枯れた松葉のこと瀬戸内海地方では「すくず」と呼ぶと『大日本国語辞典』に書いてあるが、私の家では「そくだ」と言った「すくず」というのを重井では聞いたことはない。ご飯を炊くのは「はがま」(羽釜・歯釜)である。沸騰して噴きこぼれると蓋を取って裏に水をかけてもう一度のせる。そして熾(おき)を残して、燃えている割れ木を取り去り、消す。はがまの蓋は厚く重かった。圧力釜の原理と同じである。すなわち上から押さえており内部の圧力が高まるのだ。魚を焼くときはその熾を戸外の七輪に移した。余った熾も消す。消し壺があるのだろうが、我が家では台所の外に風呂の排水路の砂溜があってそこにわずかの水が溜まっていたので、その中に投げ込んだ。消えた後のものを火箸でつまんで上に上げて乾かす。これが消し炭である。冬には火鉢や炬燵の灰の中にまず消し炭を入れ、その上から火のついている熾を十能で載せる。そして適当に灰をかけて火力を調整する。消し炭に対して市販の木炭のことを堅炭(かたずみ)と呼んでいた。(以上59回より)


私の昭和史 その8  らんたい 矢じるし はしり

 前回の峯松俊彦さんの「続続 小さいころの思い出」59回p.39Vol.6(2021)に、10人ばかり集まり二つに分かれて鬼ごっこのような遊びをする、と書かれています。これは昭和26年生まれの私が最後で、私たちより下の方は記憶にないと思っていましたが、2歳下の峯松俊彦さんが覚えておられるのは驚異です。2つありました。「らんたい」と「矢じるし」です。代表同士がじゃんけんをして、勝ったグループが逃げて、数分後(百ほど数えたのでしょうか)鬼のグループが追いかけます。逃げるグループは適当なところで道のまん中に?マークを大きく書いて、そこから何メートルか以内に隠れるのです。風呂場、納屋の中、壁の間、グロ(稲藁積み)の隙間などです。見つかったら終わりで交代。見つからなかったら鬼が「こーさん(降伏の意?)」と叫べば出てきて、やり直し。以上が「らんたい」で、逃げる時、道の分かれ目ではどちらへ行ったか路上に矢印→を書きながら逃げるのが「矢じるし」です。?マークを書いて隠れるのは同じです。どちらも逃げる地域の範囲を決めていた。隠れていて鬼が近づいた時のスリルは最高でした。笑い声が出るのをこらえていると、上級生の女の子が人差し指を口の前に立て「シーッ声を出しちゃあダメよ!」と目で言うのです。あの瞳の輝きは美しかった。

 同じページに小林(こばし)の語源について書かれています。重の井などはよくできた地名語源説話で作り話です。逆を考えればすぐにわかります。しかし、小林(こばし)だけは本当だろうと思います。なぜなら、その説明が苦しいからです。創作説話ならもっとスマートです。ですから小林(こばし)が「こばしり」に由来することは信じてよいと思います。しかし私はこれを小早舟だとは思いません。このページは水の話で溢れています。近くの駐在所のあるところは元タンポです。さて、台所の流しのことを多くの地方で「はしり」と言います。ところが我が家ではその台所の汚水が溜まる小さな池を「はしり」と呼んでいました。「はしり水」から来ているのでしょう。小さな水の溜まるところを「小ばしり」と呼んでもおかしくはないように思うのですが、いかがでしょうか。(以上60回より)


私の昭和史 その9 炬燵(こたつ)と火鉢  

 こたつといえば今は電気炬燵ということは当たり前になっているが、電気炬燵が出る前は櫓炬燵(やぐらごたつ)と言って立方体の木枠の中に火鉢のようなものを入れていた。櫓のないものもあったのであろうが、記憶にない。その上に布団をかけるのだから今から思えば危険極まりない。電気炬燵が出るしばらく前だったと思うが掘り炬燵というのがあった。これは畳の半分を切って、そこ足が入るような四角の枠を切ったものだった。その中央をさらに四角に切って、レンガで囲い中に灰を入れ中央に熾(おき)を入れたものである。熾は竃の残り火である。あるいは風呂の残り火の時もあった。その熾の下には前もって消し炭を入れておく。熾を入れたら灰をかけて火の強さを調節した。畳より上の部分が櫓(やぐら)である。炬燵は夜だけ使用するのであったが昼間は主として火鉢が使用された。さて、ある時からプロパンガスが利用されてくる。最初は竃と併用だったがすぐに竃は使われなくなる。すると火鉢や炬燵に入れる熾ができなくなる。風呂からもっていく場合もあるが、やはり不便である。そこに登場したのがガスコンロの上にかけて熾を作る器具である。柄付き鍋のような形で底に隙間が空いておりガスコンロの火が直接炭に当たるようになっていた。これが使われなくなるのは電気炬燵が普及してからである。火鉢も原理的にはコタツと変わらない。とはいえ、上から布団をかけないし、使う時間帯が異なり、同時に使うということはあまりなかった。ただ、ともに室内で火を使うのだから、空気の流通が良くなくてはならない。しかし、日本のそのような家屋では隙間風がよく入り寒いという矛盾した環境であったことは確かである。長い間の習慣とはいえ、今から考えると木造家屋の中で直接火を取り扱うのだから極めて危険なことであったに違いない。そんな危険もすぐには無くならない。(以上61回より)


私の昭和史 その10 練炭と豆炭

 昔の炬燵(こたつ)や火鉢は木造家屋で漢字の通り火を使うもので、今から考えれば「恐怖」に近いものだった。恐怖といえばファンヒーターになる前の石油ストーブの方が今から思えばもっと怖かった。火鉢が倒れることはまずなかったが、もし倒れても初期消火でなんとかなっただろう。しかし、後に振動で瞬時に消える装置が付く前の石油ストーブは大変危険なものだった。また、燃料(灯油)給油時の火災もよく起こり、石油タンクが取り出せるようになった。またファンヒーターになって安全性は向上したが、直接火と接していることには変わりはない。そう考えると、オール電化の優位性が際立つ。

 しかしこういう生活に慣れると、火が怖くなる。人類が猿から別れて独自の進化を始めるきっかけは、おそらく二本足歩行をした時からであろう。そして更に次のステップとして道具の使用があるが、その道具の中でも大きな意味をもったのが火であったことを忘れてはならない。火を怖がるのは人類以前の状態と似てくる。

 家の中における火の利用の変遷を述べてきたが最後に練炭と豆炭について記しておこう。練炭の歴史は長いと思う。商店などでは、練炭一つで一日中暖をとることができた。最初の点火の時、一酸化炭素が発生するので屋外で行うが、空気の量を調整できるようなった練炭火鉢を使えば何かと便利であった。練炭を小さくした小さいミカンほどの大きさの豆炭は、火をつけてから石綿の間に入れるようになっており、電気炬燵が普及する前に一世を風靡した。これによる火災の発生は聞かなかったから安全度は高かったが、温度調整が効かず使い方によっては、火傷の原因になったことは確かだろう。(以上62回より)


私の昭和史 その11 除虫菊

 梅雨時には空が急に暗くなってあっという間に雨が降り出すことがよくある。そんな時には一斉に走って家に帰り、除虫菊を並べて干している莚(むしろ)を大急ぎでたたみ、軒の下に入れた。家の周りにはたいていの家に2~3人、多いところでは4人の子どもがいたのだから、外に出ればいくらでも遊び友達がいた。だから、急に雨が降れば帰ればよい。除虫菊と言っても手伝いのしようがないので、それが最大の手伝いだった。いつまで作っていたのか覚えていない。小学校の5,6年の頃までの記憶ならある。5年生の時、お宮の手前の畑に手伝いに行って

カヤエンボウに1杯ずつ、乳母車で家まで運んだことがあった。そのことを作文の時間に書いたら教室の後ろの掲示板に貼りだされた。柏原泰先生だったから、はっきりと覚えている。作文の内容は忘れたが、何往復かするのだがその都度話題を変えたということと、驚くほど長い作文だったということしか覚えていない。道具は千歯コキとカヤエンボウだけだった。千歯コキは2台置いて父と母が使う。除虫菊は父が抜いて何束かずつ抱えて千歯コキのあるところへ運ぶ。根ごと抜くので束になっている。稲や麦の時は鋸鎌で刈って、藁で結んで束にする必要があったが除虫菊はそうする必要はなかった。先の花を落とした茎は適当に山にしておいて、枯れてから燃やしたのだろうか。使い道はなかったので稲や麦藁のようにグロにして置いておくことはなかった。畑では除虫菊と麦は並んであった。そして収穫の頃はヒバリがいつもいた。空高く鳴きながら旋回し時々急降下した。しかし、そこには巣はなくてそこから歩いて行くので子供は巣を見つけることはできない、と言われていた。千歯コキの下ではカヤエンボウで受け、先端の花の部分を集めた。重井ではエンボウと呼んでいたが、よそではイグリと言うらしい。コンテナがない時代は、農作物や肥料などを入れて運んだ。普通のエンボウは藁でできて高さがあった。たくさん入るので移動は不便だ。高さの低い芋エンボウというのが芋や肥料を運ぶのに使われた。その中間のカヤでできたカヤエンボウというのが穀類、豆類を入れるのによく使われた。(以上63回より)


私の昭和史 その12 スイカ

 スイカの作り方も随分変わったようだ。私が子供の頃の作り方を思い出しながら書いてみよう。スイカは連作障害があるので、毎年作る畑を変えていた。今はかぼちゃに接ぎ木しているので同じところで作っているようだ。それからスイカの枕と言って藁で輪を作って、ある程度大きくなったらその上に載せていた。スイカが熟れたかどうかは、外からはわからない。裏の尻の部分が白くなったら熟れたとか、茎の色とか、いろいろ言っていたが確かなことはわからない。そこでそれを判定する方がいて、一週間に2回ほど曜日を決めて判定に来てくれていた。もちろん、依頼して報酬を払っていたのだと思う。そして熟れたスイカには朱の印が押されることになっていた。それが何かの文字か、単なる丸印かは覚えていない。我が家は丸山の鉄金の方に依頼していたと思う。しかし、私が中学生の頃からはそういうのも無くなり、ある時期が来たら父が自分で判断して取り入れていた。それからスイカ小屋というのを熟れる頃には作っていた。稲を乾かす時に立てる長い棒の何本かとムシロと縄を荷車に積んで、夕方作りに行っていた。畑に着くと小さいスイカを切って割って食べた。暖かいスイカだけど、美味しかった。それから柱を組んでムシロを壁代わりに垂らした。それで終わりである。その小屋に見張り番をしに父が行くことはなかった。形だけのものだった。家によってはランプだけ点けておくというのもあったが、それもしなかった。収穫は今のようなコンテナはなかったので、道路に近いところは1つずつ抱えて運び、道路から遠いところはイモエンボウに入れて天秤棒(おうく)で担いで道路まで出していた。また我が家はしなかったが、重井町では軽トラに積んで尾道の住宅団地などへ売りに行く家もあった。よく売れたらしい。その頃踏切事故があったように思う。それから数年して世の中は共働き世帯が多くなって昼間主婦が激減して売りに行っても売れなくなったので、やめたようである。(以上64回より)


私の昭和史 その13 スズメ

 鳥の中ではスズメが最も身近な鳥だった。その次が鳩、ツバメ、ヒバリ、カラス、トンビというところか。言葉通り身近なのはツバメだったが、年中いないこと、至るところに糞をすることなどから好きになれなかった。ただ、野外を飛び回る姿は好感が持てた。鳩と言っても山鳩であるが、害がなくて好感が持てるが群れをなさないので、印象が薄い。

 スズメは今よりもたくさんいた。田んぼで稲作があった頃は凄かった。やはり農業が減ると

鳥も減るのか。

 子供の頃の稲作は現在と違っていた。実った稲は田んぼに組んだ棒に懸けて乾燥させた。その棒は今でも蔵(倉)の天井に懸けてある。(我が家では倉庫とも、納屋とも呼ばずクラと呼んでいた。ちなみに、これを書いているのは、クラの中である。その仕様について書くと長くなるので、別の機会にしよう。)干している稲がスズメの標的となった。もちろん穫り入れ前の稔り始めた頃からもそうである。ネットを張ってもあまり効き目はない。数分間おきにどーんとなるアセチレンの爆発を利用した装置は追い払う能力は抜群だった。アセチレンガスと空気との混合気体は(濃度の)爆発範囲が広いから1回だけ爆発させるというのはわかるが、無人で数分おきに爆発する原理は今もってわからない。現在でもプロパンガスに代わって利用されていると思う。そういう便利なものは我が家には無かったので、日曜日など「スズメを追いに行ってくれんか」と頼まれ行ったことがある。ある程度スズメが来たら一斗缶を叩いてその音で追い払う。原始的だが確実な方法であった。

 その頃、よそから来た大人が稲を刈った後の田んぼに網を仕掛けてスズメを捕獲していた。竹で周囲を固定した網を離れたところからからロープで引っ張り、スズメが集まったところで一瞬にして倒し大量に捕まえていた。あっという間に入れた袋がいっぱいになった。冷凍して焼き鳥屋で出すのだと誰かが言っていた。おとなになって行った焼き鳥屋にスズメというのがあったので頼んだ。骨だらけでうまいとは思わなかった。一度だけで、以後食べていない。

 ザルの下に棒を立てて、糸で結んで離れた所に隠れて、その下にスズメが来たら糸を引っ張りざるを倒してスズメを捕るという遊びは何度もした。しかし、一度として成功したことはない。 

 小学校五年生の頃だったと思うが、前の家の蔵の一階の屋根が崖の上の畑に接しているので、春先に樋と瓦の間から手を入れスズメの巣から、巣立つ前の雛鳥を何羽も捕まえた。ウサギ小屋に入れて飼ったが、与えた餌は食べなかった。人がいなくなると親鳥が餌を運んで網の外から与えていた。結局、逃がすしか方法は無かった。スズメを飼うには目が開く前から飼育しないといけないと人から聞いた。

 尾道駅前の海に近い方の神社のところでスズメにおみくじを取りに行かせるおじさんがいた。テーブルの上に小さな祠をつくり、鳥籠からスズメを出すと小さな鳥居の下を跳ねておみくじを咥えてくるというものだった。やはり、目の開かないうちから育てていたのだろう。

 源氏物語にお付きの女性がスズメを誤って逃したのを、ぐずる姫さまの話があったと思う。目の開く前から育てているのだったら、逃げることはないだろうから、これは誰かが捕まえて持ってきたものであろう。

 最近、スズメが減った。他の鳥なら、もともとそんなに多くなかったのだから減っても寂しくはないが、スズメが少ないのは寂しい。今年になってやっと家の周りにも来るようになって喜んでいたが、また見かけなくなった。そしてまた変わった行動があった。みかんや柿の樹の周りにいるのだが、2、3日飛び立っていかない。十分飛べるような大きさで、少しなら飛ぶのに。近くに巣があったのだろうか。スズメが屋根に巣を作らなくて畑の中に巣を作るなどということは聞いたことがない。

 また最近、いろんな種類の鳥が増えたように思う。地球温暖化で鳥類も北上しているのだろうか。(以上65回より)


私の昭和史 その14 漫画雑誌と切手ブーム

 漫画について記す。私の小学校時代は前半は月刊雑誌、後半は週刊雑誌であった。

 月刊雑誌は『ぼくら』『少年』『少年画報』があった。少しして『冒険王』というのが創刊された。はじめの頃は「ぼくら」に「少年ジェット」が連載されていてすぐに終わった。その頃から読み出したのだろう。そして「赤胴鈴之助」の連載が開始された。『少年』に「鉄腕アトム」、『少年画報』に「鉄人28号」が連載され始めたのもその頃ではないかと思う。はじめから読んだというわけではないが、初期の作品を覚えている。私はアトムより「鉄人28号」が好きだったから、『少年画報』の方をよく読んだ。買っている友達の家で読むのが中心だったと思う。本誌の方がカラーで、途中で付録へ続くとなる。付録は単色だったが持ちやすくてよかった。「まぼろし探偵」というのは桑田次郎という人の作品でその絵が好きだった。「月光仮面」はテレビが最初らしいが、その頃はテレビがなかったので知らない。映画と漫画だ。確か「月光仮面」の漫画も桑田次郎さんが描いており、これでファンになったのか。これは『少年画報』だったのだろうか。「七色仮面」というのもあって、こちらも好きだった。その頃「宇宙戦艦」という後の「宇宙戦艦ヤマト」の元になる作品があった。

 4年生の頃から週刊漫画誌が出始め。5年6年の時は月刊漫画雑誌はなくなっていたのではなかろうか。『少年マガジン』と「少年サンデー』で、『少年ジャンプ』が出るのは少し後だった。

 ちょうど漫画週刊誌を読んでいる頃、切手ブームが起こり私も集め始めた。サンデーやマガジンの広告に通信販売があった。台東区だったと思うが切手蒐集会というのがあって使用済の外国切手などを注文した。代金は切手で払うシステムであったので、小学生でも簡単に買えた。国内では東京オリンピックとか国体シリーズ、国立公園シリーズなどが人気があった。安い国内の未使用品を少し買ったかもしれない。高いのは手が出なかった。切手趣味週間というので浮世絵シリーズが高音の花だった。またシート品も高かった。郵便局に並んだこともあった。国定公園シリーズとかいうのが出て、「国定公園」という言葉を初めて知った。若狭湾のを買った。それから鳥シリーズというので鶯を買ったように思う。その頃集めたのはまだ持っているが、急には出てこない。ちょうどYさんが送ってくれたので、載せる。1975年の切手だから、あれから10年ほど後のものである。


(以上66回より)


私の昭和史 その15 白滝市活動

 白滝市活動の専門部について記しておこう。専門部というのはクラブ活動のようなものだ。放課後、任意に参加するのを部活動と呼ぶ。参加しなくても良い。帰宅部などと言っていた。それがあるのは中学校から。それに対して日課時間内に全員参加で行うのをクラブ活動と呼ぶのだろう。白滝市活動の専門部というのは、そのクラブ活動である。5年6年が同時にやったのか、あるいは学年ごとだったか、もはや記憶が曖昧になりつつある。

 私の記憶では科学館と映画館の2つをやった。5年の時が科学館。6年の時も科学館を希望したが希望者が多く、ジャンケンで負けて映画館に入った。その科学館では雲の観察をしたり、藁を入れた水を熱してから放置しておくとゾウリムシが発生し、それを顕微鏡で観察したりした。この時は先輩の指導のもとに行ったので、5、6年合同の活動だったのだろうか。 

 6年の時は映画館で顧問は浦上先生だった。8ミリの映画と写真の2つのグループに分かれて活動した。夏休みだけ、夜、一緒に巡回映画をして回った。音声は無かったので説明文を読んだと思う。

 普段の活動は岡崎純二君が8ミリをやり、私は写真をやった。カメラが1台あり、フィルムの現像は写真屋さんで有料でしてもらい、焼き付けを理科室の暗室で行った。最初の写真はブレてダメだからと言って現像代は無料にしてくれた。そして浦上先生から写真の写しかたをもう一度教えてもらった。肘を脇にくっつけて写すとか。

 次は写真の焼き付けの話になる。と言っても現在ではデジタルカメラになったのだから、全く過去のことになってしまったアナログ写真の方法である。懐かしいネガとポジの話である。フィルムには黒白が反転している。光が当たるとハロゲン化銀が分解して銀の微粒子を生じており現像すると黒くなる。印画紙にも同じものが塗ってあって、ネガフィルムを通過した光が当たると、光が強いところがより黒くなる。すなわち反転の反転だから、被写体の白黒に応じた紙が得られるわけだ。現像液と定着液は写真屋から薬品を買ってきて時々作る。現像液と定着液の間に酢酸の15ml/1L溶液を停止液として置く。これも時々作り変える。光を当てた印画紙を順に3つの液に浸してから水洗いする。これを暗室で赤いランプの下で行う。この操作を浦上先生から教わりあとは自分でした。五年生が林間学校で写した写真をたくさん焼いた。理科室は中校舎の1階の中央渡り廊下の西側。さらに西側に理科準備室があり、その南西の一角に暗室があった。(以上67回より)


私の昭和史 その16 廃品回収

 今でも小学校中学校の廃品回収というのが、行われているのには驚く。私が小学校の時は今から60年ほど前だから物が乏しい時代で廃品でもそれなりの価値があったように思う。その60年ほど前の廃品回収というのは重井小学校の白滝市活動で「学校にテレビを買おう」というのがあって、お金を集める方法の最大のものとして廃品回収を行った。何を集めて何を集めないかということは大切なことであった。ビール瓶と一升瓶、新聞紙、それに金属類だった。ビール瓶は有料回収品だったので、酒屋へ持っていけばそのまま引き取ってもらえた。一升瓶については店によっては引き取ってもらえなかったのではなかろうか。新聞紙は魚屋、惣菜屋などで高く買ってくれるというので手分けして持って行った。大小路のまこと店の隣の天ぷら屋へ新聞紙を持って行ったことを覚えている。その時、畳の下に敷いていたのは買えない、などという話が出た。当時、畳の下に新聞紙を敷きその上にDDTを撒き1年に1回取り替えていた。その新聞紙が廃品回収の時集めたものの中にあった。「学校にテレビを買おう」と言って廃品回収をしたのは昭和33年度2学期のことである。この年は私は小学校の1年であった。小学校1年の私がここまで覚えているわけはないので、この天ぷら屋へ新聞紙を持って行ったのは、もっと後のことだろう。廃品回収というのはその後も何度かあったから、それらが一緒に記憶されている。

 テレビを買おうと言って廃品回収をした時は、みかんの害虫である鉄砲虫(カミキリムシ)取り、しらさきの販売も同時に行なわれた。カミキリムシをとって頭の部分を農協か市役所の重井支所へ持っていくと1匹につき何円かのお金が支払われるという一大キャンペーンがあったということは記憶にあるが、それに例のテレビを買おうという運動の中で学校ぐるみで参加したことは聞いたことはなかった。しらさきを山で採ってきて売るというのは、私自身は参加しなかったが上級生がやっていたことはよく覚えている。私の記憶ではしらさきを採って売るというのは、このテレビを買おうという時だけの話で、それ以後はしたことはないのではないかと思う。(以上68回より)



 私の昭和史 1 (連載53回〜57回)