2026年7月16日木曜日

村上水軍について 

 村上水軍について その1 馬神城跡をめぐって    

 中島忠由「因島地方一万年史」(昭和47年9月)、p.166によると、馬神城の城主は末永矢治馬介景光である。

 永禄12年(1569)、因島村上氏第6代村上新蔵人吉充が向島・余崎城から重井に移り、青木城を築城した。

 本城:青木城(城主:吉充、城代:稲井氏)

 白滝山:控えの要害で、備後灘方面の監視所。観音堂(堂主:常楽院静金)。

 馬神山:第三家老・末永矢治馬介景光。現在、山頂に「馬神大明神」「妙見大菩   

     薩」「大山神社」の小祠。馬神新開に「馬神山荒神社」の小祠。

 天秀庵:船奉行・片山数馬。馬神と橋で結ぶ。

 細島茶臼山:弓瀬氏(吉勝 市正 宗十郎)。

 上坂:柏原土讃守平忠安。

 八幡神社(伊浜)、山ノ神社(山ノ神)、毘沙門堂(山ノ神)造営。

 八幡神社(伊浜)に隋身像奉納。

 白滝山麓を武者街、大小路・南小路を市場街とし、通婚を禁じた。大疫神社(砂     原)を市場の守り神とした。

 毘沙門堂(山ノ神)の跡に、江戸時代になって善興寺が建つ。毘沙門天像は中庄・成願寺にある。

 1588年の海賊禁止令によって、吉充は隠居し鞆城に移った。



村上水軍について その2 大浜の城跡をめぐって 

 因島村上水軍は天授3年(1377)村上師清が釣島箱崎浦の戦いで勝ってその子息を因島、能島、来島に配したことに由来する。これからが三島村上氏の時代で、これを後期村上水軍と呼び、それ以前が前期村上水軍の時代である。かつて青陰城主と考えられていた村上義弘は前期村上水軍の時代の人で、おそらく因島とは関係はない。

 因島村上氏は、1代吉豊(顕長)、2代吉資、3代吉光(吉充)、4代吉直、5代尚吉、6代吉充で、180年間、土生・長崎城(現・ナティーク城山)を本城とした。6代吉充は、向島・余崎城に移り、さらに重井・青木城に移った。

 大浜町には幸崎城跡と土居城跡が残っている。また、お家騒動の戦いの犠牲者を供養した千人塚がある。

 広島県、「広島県史第3編」(大正十三年、帝国地方行政学会発行)p.489には、「大浜村 幸崎山 一名土居の城、村上丹後の居、山内に小墓十基あり、千人塚と称す、又山南に大将の墓と称するあり、三尺許の自然石なり。丹後の墓なりと云ふ。」とある。(旧漢字を新漢字に改めた。)

 これに関連した記載が、「因島市史料 第一集」(因島市教育委員会発行)の「国郡志御用に付下しらべ書出帳」(p.107)にあるので、[p.21]に掲げる。

 村上丹後守吉房は因島村上氏4代村上加賀守吉直(左衛門太夫)の弟である。重井大元屋の祖とされる修理介も兄弟である。

 吉房は百島を支配下に入れ茶臼山城を築いた。その後継者村上吉高が田島の村上

範和と組んで大浜幸崎城を襲った。因島村上氏どうしの争いだから、まさにお家騒動である。永正年間(1504~1521)のことである。その時の戦死者を弔ったのが千人塚だと言われている。

 田島は因島村上氏2代村上備中入道吉資が備後守護の山名時煕から田島地頭職をもらい、以後因島村上氏の下で村作りが行われた。以下に松井輝昭「因島村上家文書を読む」(因島市教育委員会・因島市文化財協会発行)のp.17を掲載する。しかし、後に田島は能島村上氏に属するようになる。このお家騒動と関係があるのだろう。


村上水軍について その3 「予陽盛衰記」から 

「予陽盛衰記」は「予陽河野盛衰記(河野軍記)」と呼ばれる、河野氏の盛衰を描いた16巻の軍記物語の流布本の一書である。村上和馬氏が元文5年京都書房版を訓読したものである。その第十二巻、第二章に因島村上氏のことが出てくる。北畠山城守師清(もろきよ)が信濃国から紀州雑賀(さいが)、讃州塩飽、備中神島

(こうのしま)を経て大島へ来て、河野通治へ礼を尽くしてから村上義弘の後を相続することが認められることが書いてある。また今岡左衛門尉通任が村上義弘の姉婿であること、南彦四郎通泰が河野通継の三男であることなどが記されている。北畠師清は村上義弘を継いで村上師清と改め、今岡通任と争ったのが、釣島箱崎浦の戦いである。勝った師清が子息3人をそれぞれ能島、来島、因島に配したというのが三島村上水軍の起源伝説であるが、本書ではその間に1代入る。なお、釣島箱崎浦の戦いが、村上義弘の跡目争いによるものの他、南北朝の戦いの局地戦であるとする説もある。因島村上氏の第一家老救井氏が新田義貞の子孫、第二家老稲井氏が新田義貞の弟、脇屋義助の子孫であることから、後者の可能性は高い。あるいは単なる因島の領有権争いだったのかも知れない。また、師清の子息3人を三島村上氏の起源とする話が史実でないとする見方もある。



村上水軍について その4  

 釣島箱崎浦の戦いに勝った村上師清の子、吉豊を初代として6代吉充まで長崎城を本城として村上氏当主は180年間因島にいた。吉充は向島のほぼ全域を支配下におき、立花の余崎城に13年間本城を移した。その後、小早川隆景の三原移城に伴い、吉充は重井青木に築城して移った。永禄12年(1569)のことである。この時重井を支配していた杉原氏は生口島島へ移った。これにより因島全域がはじめて因島村上氏の支配下に置かれたという。吉充は秀吉の海賊禁止令(天正16年、1588)に伴い隠居して鞆城に移った。

 さらに関ヶ原の敗戦後、長門の矢田間(豊浦町矢玉)に移るが、備後、弓削を経て大洲亀田に3年、のち野間佐方村(菊間町)へ移り、そこで生涯を閉じた。吉充隠居後は弟亮康の子吉亮(慶長元年没、廟所金蓮寺)を7代、その子元充が8代として因島村上家を守った。青木城は3代32年間である。江戸時代は三田尻で長州藩船手組として勤め、給地は屋代島三浦(大島町三浦)で、防府の牟礼村極楽寺を菩提所とする。

 従って因島村上氏の因島時代は1377年から225年間であった。

江戸時代の因島は村上氏の子孫(長右衛門家など)や下臣たちの子孫(宮地家など)などを中心にして近世農村社会が作られていく。


村上水軍について その5  

    松浦儀作「因島村上と青影城址」因島市青影観光会、昭和三十三年、p.26の「因島に残る村上氏」は、古いものなので現状とは合わなくなっている面もあると思われるが、参考までに載せた。また、因島村上氏についてもその後の研究で表記の異なるものがあるので注意が必要である。青影城は第一家老救井氏の居城と考えられている。大浜の村上丹後守吉房は四代吉直の弟である。補足すれば、中庄平木祖主殿は助道のこと。大田熊祖直吉は六代吉充の弟敬吉の子。 





村上水軍について その6  

    因島村上氏の系譜のうち、田中稔「因島史考」のp.116-118を掲載した。丸本家、長右衛門家など他書と異なるところもあるが、わかりやすいのでまずこれを紹介する。長右衛門については代数を加えた。

田島分家。一代吉豊は田島地頭職を宛行(あてが)われ子息四郎吉則を田島へ住ませた。四郎吉則が田島の町づくりをするが、後に能島村上氏に属する。


大浜分家。大浜幸崎城主村上吉房は四代吉直の弟である。 

百島分家。百島茶臼山城主村上義高は大浜幸崎城主吉房の嫡子である。

岩城分家。岩城八幡山城主村上敬吉は六代吉充の弟。

鞆分家。鞆古城山城主村上亮康は六代吉充の弟。

田熊分家。竹島城主村上四郎左衛門直吉は六代吉充の弟岩城八幡山城主敬吉の子である。