その鍛冶神社のあった場所を探して、串畑谷を何度か上がったり下りたり、地元の人に尋ねたりした。図書館道路(と地元の人は呼んでいた)近くの雑木林の中に古い木製の祠があった。鳥居だったと思われる石柱が一本、それに石段の跡らしきものもあった。
串畑の北の田熊側が鍛冶後(かじがせど)である。鍛冶谷の後ろになるということだろう。串畑の人が図書館道路を越え鍛冶後を通って田熊へ買い物に行くと言われていたから、昔も鍛冶谷と往来があって鍛冶後という名前がついたのだろう。
ある時、こういう話をすると世界のオカツネバサミはそのような風土から生まれたのかと尋ねられた。それもそうだろうが、鍛冶職人の集団が串畑にいたことは、近代造船業の黎明期に大いに裨益したことだろうと、私は思う。
(写真・文 柏原林造)