足利氏は源義康の孫で、源義国の子である源義康が下野足利荘に住んだのがはじまりである。源平の争乱では頼朝に従い、義康の子、義兼以降、北条氏と通婚し、上総・三河の守護となった。清和源氏である。
1338(延元3)年足利尊氏光明天皇より征夷大将軍に仁ぜられ、京都に幕府を開く。「実に天下の将軍、武家の棟梁」(「梅松論」)
1396年(応永3)
小笠原長秀・今川範忠・伊勢貞行らに命じて武家礼式を定めた。「南方紀伝」
● 細川ガラシャ
明智光秀の娘で細川忠興の妻ガラシャは、本能寺の変で実家と婚族の狭間に置かれて3年間丹後半島の中部の弥栄町(やさか)味土野(みどの)に幽閉されていた。石碑がある。
徳川家重1711-61
9代将軍。吉宗の長男。虚弱で言語不明瞭。
徳川家斉(いえなり)1773-1841
11代将軍。寛政の改革を行なう。馬で品川の御殿山へ狩りに行く途中、烏を見付け、鉄砲で打った。かなり重い鉄砲を片手で打てるだけの力があった。
挙兵
1536
豊臣秀吉1536-98
秀吉の長子捨丸という名の、長男は育たないという伝説についての松本清張の考察が「古代史私注」(講談社文庫201頁)にある。
1600
姫谷焼き
1600年代の中ごろ有田焼きの技術がもたらされて生産がはじまった。
福山市北部、標高約四百メートルの盆地。「日本の初期色絵磁器のひとつ。色鮮やかな皿や鉢、碗は珍重された。しかし1600年代末にはすたれた」
窯跡は1937年に県史蹟。1977年から2年間市教委が発掘。
「窯は同じ場所で築き替えられていた。いずれも山の傾斜を利用。食パンを連ねたような格好をした階段状連房式登り窯。最初に築かれた窯は半地下式の五房で構成され全長は12.8メートルあり、これを埋めて整地した上に造られたのは六房で全長16.8メートル。幅は両方とも2.3メートル。規模などから使われた期間は数十年と短く、大量生産できないことがわかった。だが、どうしてこの地に伝わり、なぜ消滅してしまったかなど、多くはいまだ解明されない。福山藩主の水野家が入封の後に窯が造られ、断絶の前後に生産されなくなったのも疑問を呼ぶ。当時、色絵の赤をだすのが陶工たちの夢だっただけに「鮮やかな赤色はお姫さんの血を使ったから姫谷焼きの名がついた」との伝説も残る。ただルーツだけは、窯の構造や焼く時に使われた窯詰め道具、生産された磁器の形や色絵のデザインなどから有田焼のと流れをくんでいるとされる。有田焼きに比べ材質や窯の焼き上げ温度などの違いから、黄色味を帯びているのが特徴だ。」
約100点が現存。
「色絵石榴文中皿」直径17.5センチ。
「色絵飛雲桃文輪花中皿」直径18.7センチ。 以上「朝日新聞」1993.9.25.