2014年11月1日。土曜日。雨時々曇り。
はや、11月ではないか。
10時頃出て、潮騒荘へ。時々小雨。外仕事が出来ないので、午後同じく退職している友人を訪ねる。4時頃稲光と雷の音。一回だけ。雨がかなり降る。
今年も既に感想皮膚の症状が出始めた。クリームを塗るものの小さなヒビ切れ。痛い。
菊池寛「島原の乱」など。
2014年11月2日。日曜日。曇り時々晴れ。
潮騒荘にて。明け方も雨が降って、庭木も濡れている。おまけに風も吹いているので、剪定はなし。捨てたスイカの種から芽が出て実が2つできた。一つは裏から腐っていたので、残り一つを収穫。ピンク色だったが甘くておいしかった。
夕方、福山へ。
菊池寛「賤ヶ岳合戦」など。
2014年11月3日。月曜日。晴れ。
文化の日、ということで登下校する子供たちの姿も見られず、静かな一日であった。
さて、梅雨の頃植えたサツマイモの収穫の頃になった。あまり寒くなっても腐るのでよくないという。島の産業であった頃には、芋掘りは文化の日の頃からだと聞いたので、そろそろ掘ってみようかと思っている。それにつけても、サツマイモは除虫菊と並んで主要農産物であった。「風土記日本 中国・四国篇」(平凡社)のp.219に南生口村の神主土井助太夫の手記(1683・天和3)に生口島一円、高根島、佐木島、因島重井、岩城島へ琉球芋の種子が配布されたと記されている、とある。
午後、BSで「早春物語」を見る。
菊池寛「碧蹄館の戦」など。
2014年11月4日。火曜日。晴れ。
秋晴れの快晴なれど、日陰はやや寒い感じのする晩秋の一日。
我が郷里の禅寺の境内に「芋地蔵さま」なるものがある。これは大三島の住人で薩摩に巡礼に行き、こっそりと禁制のサツマイモを持ち帰り、近隣に広めた人の功績に感謝して建てられたものである。この人の事も、「風土記日本 中国・四国篇」(平凡社)のp.219に載っており、大三島瀬戸崎の人・下見吉十郎ということである。下見は六十六部の巡礼で正徳元(1711)年6月に発し、正徳2年の暮れに帰省している。昨日の記事と時間的な隔たりが大きすぎて、両者は同じことを述べてはいないと考えられる。ということは二つの流れがあったのかもしれない。
午後、「陰陽師」を見る。
菊池寛「鳥羽伏見の戦」など。
2014年11月5日。水曜日。晴れ。
潮騒荘にて。温暖な因島もさすがに朝は冷える。特別することもないので、芋掘りは午後にすることにして、午前中は寝転んで読書など。午後、芋掘り。思ったよりよく実がついていた。今年は鳴門金時10本であったが、来年はもっと植えてもよいかなと思う。夕刻、福山へ。東のほうに大きな月。旧暦閏9月13日ということで、今年二度目の十三夜。二度目の十三夜というのは今世紀中にはもうないのだそうである。
仲正昌樹「松本清張の現実と虚構」(ビジネス社)。
菊池寛「山崎合戦」など。
「とにかく、光秀としては宿怨を晴らし、たった十一日間にしろ京師に号令したのだから、石田三成に比べると、そう口惜しくはなかったに違いない。」
2014年11月6日。木曜日。晴れ。
毎日少しずつ寒くなる。ほんのわずかな時間だけ入れていたストーブや炬燵の時間が日がたつにつれて長くなる。こうして、いつのまにか冬になるのだろう。でも、まだまだ秋だと思いたい。朝が少し寒くなったので散歩の時間を8時15分からにしている。それでも、日々寒くなっていくので、日陰を避けて、日向ばかり歩く。そして帰ってみると近くの公園の桜が真っ赤になって、その落ち葉が家の周囲の溝に落ちているので、掃除。初秋に黄色くなってまずたくさん散って、しばらく落ち着いていたと思ったら、今度は真っ赤になって第二の落葉のピーク。もうすぐなくなるだろう。
午後、「野獣死すべし」を見る。
「道元と曹洞宗」(北國新聞社)、菊池寛「応仁の乱」
2014年11月7日。金曜日。晴れ。
やや穏やかな日。でも、外出いろいろ。
BSの録画で「徳川家康」見る。
菊池寛「大阪夏之陣」、松本清張「証言」など。
2014年11月8日。土曜日。晴れ。
朝、潮騒荘へ。風が冷たい。昼食後、蜜柑を摘みに行ったら、枝がひとつ折れていたので、その枝についていた果実をすべて収穫する。あとは部屋の中で、弱い午後の日を浴びながら本を読んでいると、いつものようにうとうと・・・。しばらく熟睡すると、まもなく浅い眠りに。その半分覚めた頭でつらつら考えてみた。プラトン、孔子、聖書、仏典について。世界をどう解釈して、どう生きるのが理想であると考えるかは、いろいろあって、それはそれでよい。どれが悪く、あるいはどれが一番すぐれているというようなことは、客観的には決められない。どれを評価し、選ぶのは個人の自由である。思うに、プラトンを除いて、生活の観点に欠けるのではないか。
プラトンに生活についての言及があるかと言えば、ない。無くてもよい。プラトンは学校の先生であった。私塾と言ってもよいかもしれない。したがって、生活の資は、生徒たちの納める束脩、すなわち授業料であった。だから、プラトンは私塾の教師としての生活の合間に本を書いた。だから、読者がプラトンからどんな生き方を抽出しようが自由だが、生活そのものは何も考えなくてよい。それぞれの読者の職業なり境遇があるので、余裕があればプラトンの言に耳をかたむればよいということになる。
孔子については、何人かの門人がいるから、私塾のように見える。しかし、多少の束脩があったと思うが、基本的には私塾ではない。身のまわりの世話をしたり、あるいは経済的援助をする心酔者とともに放浪する、宗教集団に似たグループである。そして、地方の統治者のところに仕えて、テクノクラートとして働くのかと思えばそうではない。あくまでも、自分の考えが先で、就職のために考え方を変えるということはない。生活のことは考えないのである。
菊池寛「四条畷の戦」など。
2014年11月9日。日曜日。雨。
夜半から雨。よく降っている。寒い。
さて、聖書は実に多くのことが書いてあるのだが、語り部たちの生活は見えてこない。生活の書ではないのだ。心の革命なのである。そして、原始キリスト教の時代には、共産制にも似た共同社会集団であったものであろうと考えるられるが、そういうことは聖書には書いていない。いろいろな宗派があるから、それに似た考え方のものもあるのかも知れないが、基本的には、キリスト教は職業生活とは別のものであろう。
菊池寛「小田原陣」など。
以上で菊池寛「日本合戦譚」(文春文庫)終わる。
2014年11月10日。月曜日。晴れ。
昨日と変わり良いお天気。暖かい。日差しも強く、外では暑いくらいだ。家の中にも午前中は日が入り、暖かい。
今日は音声認識ソフト使ってみることにした。10年ほど前にも、少しだけ試みたことがあるが、変換効率は悪く喉が疲れるのですぐに辞めてしまった。その時のことを思うと、格段に進化している。変換並びに入力作業が早い。変換もほぼ間違いなくやれるので面白い。所々字が落ちたり、誤って変換したりするのは、2回やってみて正しくならなければ、手で入力した方が速い。これは私の声と機械との相性にもよるのだろう。こちらの癖もあるから、慣れればもっと速くなるだろう。
仏教は在家と出家という考え方があるが、現在我々が読んでいる仏典の多くは、出家者が為したもので、また出家者にとって必要なものである。出家者の生活は宗派によって異なるのだろうが、寺院というものの経営にかかっている。そもそも釈迦のはじめから、修行することも意味があるが、修行者を助けることにもそれと同じような意味があると考えられ、寺院の維持が資産家の寄附によっていた。托鉢というものを修行の一環として行っている宗派もあるのだろうが、寺院経営の多くは布施と呼ばれる寄附に頼っている。その延長として、現在のいわゆる葬式仏教という形があるのだろう。とはいえ、寺院経営は宗論とは別なところで成り立っているのだろう。だから、仏典を読んでも生活のことは出てこない。
ということで、プラトンも、キリスト教も、孔子も、仏教も、思想は思想であって、生活とは別なものである。
BSで「Wの悲劇」を見る。
薄田泣菫「茶話・昭和三(一九二八)年」。坂口安吾「島原一揆異聞」、「島原の乱雑記」。久生十蘭「鈴木主水」など。
2014年11月11日。火曜日。晴れ。
今日も暖かい良いお天気だった。4時半に出て潮騒荘へ。着くと、すぐに日が暮れる。福山よりやや暖かい感じがする。昨日に引き続いて、音声認識ソフトを使っているが、ある程度早くしゃべった方が調子が良いようだ。
録画で「弁天娘女男白浪 浜松屋見世先の場」を見る。
坂口安吾「家康」、「黒田如水」など。
2014年11月12日。水曜日。晴れ。
潮騒荘にて。朝6時過ぎに起きる。風が少しあって、晩秋の趣。剪定をしないといけないが、去年大幅にカットしたので、今年は目立たない。そのうち・・・と先延ばしにして昼寝。5時過ぎに福山へ。外はすっかり暗くなっている。
夏目漱石「門」朗読・久米明、終わる。
薄田泣菫「茶話 昭和五(一九三〇)年」など。
2014年11月13日。木曜日。晴れ。
今年一番の冬将軍の到来である。と書くと大げさだか、寒い一日であった。ついこの前晩秋の気を感じたばかりなのに、もう冬の寒さを全身で受け止めてしまった。日向を探して散歩し、帰ってから買い物。午後、眼科医院へ。それにしても月日の経つのは早いもので、朝方青空を背景に白く浮かんでいる月はもう半月で、あと一週間もすればまた大潮が巡ってくる。楽しいときの時間は早く過ぎるというが、毎日遊んでいるせいかあっという間に終わってしまう。ニ年目の秋もこうしていつの間にか過ぎ去っていくのだろう。
坂口安吾「織田信長」、堀辰雄「ノワイユ伯爵夫人」など。
2014年11月14日。金曜日。晴れ。
高知桂浜へ行く。明日が龍馬の誕生日である。それにちなんだ記念イベントとして、龍馬像の隣に櫓を組んで、龍馬と同じ目線で太平洋眺めることができるようにしてあった。100円を払ってそこに登らなくても、太平洋は十分雄大で、いつみても頼もしい。横に広がる水平線と、青い海原に押し寄せる白波が耐えることなく消えては現れ、見ていて飽きない。
マクラウド、松村みね子訳「海豹」。田中貢太郎「立山の亡者宿」。オスカー・ワイルド、結城浩訳「わがままな大男」。O・ヘンリー、山本ゆうじ訳「魔女のパン」。チェスタートン、直木三十五訳「青玉の十字架」など。
2014年11月15日。土曜日。晴れ。
寒い朝。8時過ぎから散歩。10時過ぎに出て、潮騒荘へ。久しぶりに青空のしまなみ海道。午後、昼寝。夕方起きて少し剪定。
堀辰雄「花を持てる女」。オー・ヘンリ、大久保ゆう訳「罪と覚悟」。正宗白鳥「花より団子」、「論語とバイブル」など。
「畢竟《ひっきょう》論語もバイブルも吾人が恐れ入るにも当らない凡書である。」(「論語とバイブル」)
2014年11月16日。日曜日。晴れ。
潮騒荘にて。少し暖かいので剪定をすることにした。松の木を少し。松は難しいので少ししてはやめて、またしばらくしてする。こうして全体を見ながらする。それから山桃。下の方から切っていたが、高い所に登って下が見えると怖いので、下のほうはほどほどにして天辺まで登る。上から剪定して、徐々に下りていく。
五時過ぎに福山へ。
正宗白鳥「雨」、「假面」。チェスタートン、直木三十五訳「作男・ゴーの名誉」など。
2014年11月17日。月曜日。晴れ。一時小雨。
朝は曇っている。8時過ぎに散歩。やや寒い。午後、BSで「浮草」を見る。
私の故郷では、帰ることを「いぬる」と言う。活用法はむずかしく、過去形では、「いんだ」となる。だから、「昨日、因島へいんできた」というように書くのが、もっともそれらしい。その古里の光景を載せたページがある。ズバリ、「いぬるしま」である。そこに三枚ほど写真を載せてもらった。重井に二枚。大浜に一枚である。
阿部次郎「帰来」、チェーホフ、神西清訳「少年たち」など。
2014年11月18日。火曜日。晴れ。
今日西部劇を見る予定だったが、昼ごはんを食べてコタツの中でヘディンのシルクロードを読んでいたら、1ページも読まないうちに眠ってしまった。起きたのが3時ごろだったので、結局見なかった。西部劇のどこが面白いかというと、一言で言えばフロンティア精神ということになろうか。フロンティア精神というのわかっている人にすぐにはかるのだろうが、なかなかかわからなかった。単に開拓者魂といってみても、わからない。何事も新しいことをすれば、開拓であろうが、アメリカの開拓者魂というのは、いわば、移民精神であろう。移民と移住は違う。現代のように老後を海外で、というようなのが移住で往々にして飛行機で移住する。それに対して移民というのは船で最低限必要なものを持って、あとは何があるかわからないところへ行く。農業をするにせよ、牧畜をするにせよ、何もないところから作っていく。これが移民である。戦後、我が国では、移民には貧しさという印象がつきまとうから移住と言うようになったが、もっての他である。臭いものはいくら蓋をしても臭い。移民と呼ぼうが移住と呼ぼうが、その地で食えなくて海外に資を求めれば、それは貧しさに原因があるのである。
薄暮時の山陽道、しまなみ海道を走って潮騒荘へ。
折口信夫「お伽草子の一考察」。中島敦「和歌でない歌」、「牛人」など。
2014年11月19日。水曜日。晴れ。
潮騒荘にて。「Nのために」のロケ地だった重井西港へ、馬神と新波止の写真を写しに行った。前のとき細島行きの船が停泊していてうまく写せなかったので、再度チャレンジのつもりだった。おまけに天気もよい。ところが、港へついてびっくり。人がたくさんいる。何ですか、と尋ねると撮影だと言う。「Nのための?」と言うと「そうです」とのこと。第三話のときが青景島から出て行くところ、そして今回の撮影はどうやら島に帰ってくるところらしい。ということで、一時間ほど見物。テレビで見るとほんのわずかの時間なのに、わざわざ東京から何人も来られて、何度も撮り直して・・・と、まったく大変な世界だと思った。
午後、庭の手入れ。バベを一本剪定して、前回のと今回の切った枝葉を片付けて、二時間ほどで本日の外作業終了。西側にも窓のある部屋で横になって本を読んでいたら、いつものように、うとうと。
五時過ぎに出て、福山へ。途中、大浜パーキングで黄昏の因島大橋の写真を写す。
チェーホフ、神西清訳「熊」など。
2014年11月20日。木曜日。晴れ。
午前中は、諸事情で外出方々。午後、「Nのために」録画を二回分(2・3話)見る。単行本は読んだような気がしていたのに、TVドラマを見ても思い出さないので、読んでないのだろうか。あるとき、まとめて読んだので、その時、「Nのために」は無かったのだろうか。それとも忙しくしていて、記憶が落ちたのだろうか? 年をとるとはこういうことである。いや、若いときでも、同じ本を二冊買ったり、まったくはじめてだと思って読んでいても、最後のページに、XXXX.XX.XX.了と自分の字で書いてあって唖然とすることがあるから、読書というのは、本の内容と、印象とこちらのコンディションで、記憶の残り方がいかようにもなるものらしい。
第2話でさざなみの放火は成瀬君がしたと杉下さんは思い、一緒にいたと証言する。そのように受け取っていたが、発火のシーンは他の人でもよいように描いている。
内容のことは原作に書いてあることだろうし、変えていてもいずれわかることだから、詮索するのはやめよう。
青景島から出るシーンは因島重井町の西港が使われたのだが、成瀬君がベンチに座っているシーンがある。重井西港の回漕店の前だ。昨日、ロケ現場を見た時、回漕店の前には時刻表と青景島の観光ポスター二枚が貼られていて、そのように設定してあった。時刻表は、周囲に錆た雰囲気まで描いてあった。二枚の観光ポスターはそのまま因島の観光ポスターとして使ってもいいようなすばらしいものだった。フェリーのチケットに描かれているイラストも重井西港から海を見た景色だし、なかなか細かいところまで作っているので、感心した。ついでに書けば、フェリーの正面にかかげてある「青景港⇔高松港」の布も周囲をやや汚して、いかにもそれらしく作ってあった。
折口信夫「貴種誕生と産湯の信仰と」など。
2014年11月21日。金曜日。晴れ。
森鴎外「堺事件」を読んだ。堺事件というのは明治維新直前、古い価値観と新しい価値観の分水嶺で起ったまことに不条理な腹立たしい事件である。一番悪いのは土佐藩主である。なぜ、生麦事件のときの薩摩藩のように対応しなかったのだろうか? そういう國であったならば、坂本龍馬が脱藩する必要もなかったか。
それはさておき、カミュは世界は不条理だという。条理にあわない、理論ではわりきれない、という。理性は理性の流儀でこの世界が不条理だと教えるという。そのとおりだろう。世界というものは、そもそもない。あっても空間と時間からできているのっぺらぼうに過ぎない。それを世界たらしめるのは人間である。結局、空間も時間も、すなわり社会だの歴史だのというのは、人間の頭の作用にほかならない。人間が勝手に想像し、解釈し、そのようなものがあると思っているに過ぎない。共同幻想かもしれない。それを古代以来、哲学者と総称される人たちが、あれやこれやと言ってきたのだから、ほんとうのところがどこにあるのかわからなくなってくる。結局は、人間の問題に戻ってしまう。人間の考え方になる。生き方になる。そうなると人間などという一般の言い方が無意味になる。個人としての人間でなくてはならない。そうするとまたどうどうめぐりのようになるが、議論百出で何が何やらわからなくなるのである。だからうまく言った人が勝ちで、なんやらほんとうらしく見えるだけである。しかし、この本当らしく見えることが大切で、多くの同調者を得れば、それだけ共同幻想は大きくなる。共同幻想はあくまでも幻想であって、そこに条理の網を投げても、ひっかかるの雑魚ばかりであろう。
世界というものが共同幻想であるならば、究極において戻るところは個人としての人間である。個人には生と死があるだけで、その間のことは千差万別で理性の解釈する問題ではない。死が間近だと思う人もあれば、はるか彼方だと思う人もある。それはそれでいいではないか。
2014年11月22日。土曜日。晴れ。
8時過ぎに出て、潮騒荘へ。霧が濃い。二つの長いトンネルを越え福山本郷に出ると霧は晴れる。暖かい。大潮、満潮。重井西港へ行って撮影。
午後、蜜柑摘み少し。猪の入った形跡。被害はない。
2014年11月23日。日曜日。晴れ。
潮騒荘にて。朝、玉ねぎの植え付け。コンニャクの収穫。午後、因島南部の三庄、土生へ。因島公園入り口の安郷トンネルが『Nのために」第2話のトンネルと確認。因島公園へ上がる。目の前の島々(愛媛県)が美しい。生名、佐島、弓削は橋で結ばれている。しかし、生名、因島間には橋はない。同一県ならばとっくに橋がかかっていたであろう。両県が半々ずつ費用を出せば、かかるのではないか?
2014年11月24日。月曜日。晴れ。夜雨。
昨日は伝六ロードを通ってフラワーセンターまで歩いた。白滝山、フラワーセンターともに黄葉・紅葉が美しい。
中国新聞の報道(2014.10.29)には、タイトルは
江戸後期の石仏師にちなみ・・・ 市道名「伝六ロード」因島重井 PR看板も設置
となっているが、「石仏師にちなみ・・・」というのは誤解されやすい。「江戸後期にこの地に住み、白滝山の石仏を彫った柏原伝六の名前にちなんだ。」ということだ。伝六さんは一観教の教祖である。また、「石仏に携わった人々がいた集落である」というのもその通りであるが、伝六さんも、伝六ロード周辺に住んだ関係者も、みんな石工ではない。伝六ロードは東側の白滝山山麓から西側の一町田(現在は畑)にかけての傾斜地にあるため、一本松からフラワーセンター方向へ北向きに歩くと、右側の家のいくつかが立派な石垣の上に建つので、伝六ロードは石工たちの住んだ集落だと誤解する人がいそうだが、そうではない。プロの石工は尾道から来た。その当時も尾道の石工は有名だったらしく、全国にその名が残っているという。そのせいか、白滝山にある一観教の聖地を伝六ははじめ尾道に作ろうと思っていた。浄土寺あたり。それを石仏工事の現場監督とも責任者だったとも言われている柏原林蔵が自分たちの住む村の山にしようと言った。石仏工事にかかわった人々ということは,伝六の布教の実態が知られていないのだから、伝六の思想に共鳴した人たちと言っても間違いはない。それらの人のうちで,伝六ロード周辺に住んだ人にプロの石工はいない。あくまで、かかわったというだけでプロの石工ではない。それでは,伝六ロード周辺にどのような白滝山関係者がいたかというと、私が調べても、四軒しかない。まず、この地に伝六が住んでいた。そして,林蔵、さらに伝六の長男の妻の姉婿で石仏工事の庶務会計記録にあたった峰松初五郎。さらに伝六家の本家筋にあたる川本家もこの地にある。ということで、ここを伝六ロードと称しても、おかしくはない。
2014年11月25日。火曜日。雨後曇り。
朝から雨。久しぶりによく降っている。散歩はできない。午後、録画したDVDで「事件」を見る。大岡昇平さんの原作。脚本の新藤兼人さんは別にして多くのスタッフが「砂の器」のスタッフではないかと思うが、思い違いだろうか。
夕方出て、潮騒荘へ。
今日は三島由紀夫さんの命日。あの日は秋晴れのすがすがしい日。予備校の寮の隣の銭湯に,当時は開店と同時に行っていたが、その日もそうであったか、あるいはその日は5時頃になっていたのかは記憶にないが、そこの銭湯のテレビではじめて事件のことを聞いた。外は明るかったように思うから、5時よりは早かったのかも知れない。
手元にある「金閣寺」の単行本を少し見て、偲ぶことにしよう。その奥付けは以下のように記してある。
昭和三十一年十月三十日 初版
昭和三十二年三月三十日 十二版
定価 280圓
地方売価290圓
(価、売、価は旧漢字)
昭和は遠くなりにけり、である。
2014年11月26日。水曜日。晴れ後雨。
潮騒荘にて。雨はやんで時間とともに晴れて来る。朝ご飯を連ドラを見ながら食べて、少し島田荘司さんの本を読んで、さらに暖かくなったので、カメラを持って、歩く。近所の人に観光客と間違えられ「どちらから来られましたか?」と尋ねられたら、どうしようか、などと思いつつ、ぱちり、ぱちり。浦島太郎のような気持ちになるのだろうな、と思った。幸い玉手箱なるものを持っていないので、たちまちにして白髪に白髭、曲腰ということはなかろうが、無限の孤独・・・。どうせ、死ぬときは孤独なのだから、とどんどんと南へ進む。今日は伝六ロードの南半分。伝六家(=「川伝」)本家筋の川本家の南の三叉路から。西方向に小さな道があって四つ辻ではあるが、それは個人宅への道であって、公道ではないので、三叉路としておく。ここから、川口から舟原に字(あざ)が変わる。しかし、舟原と呼ぶ人はいない。丸山というべきか。丸山というのはこの周辺をさすとともに、ある家の屋号でもある。字川口の伝六家が川口屋といったのと似ている。ただ、こちらは丸山屋の屋はつかない。地区名でいえば、イ組からロ組へと変わる。まず目につくのが(注意しないと見過ごすが)葉たばこの乾燥庫である。収穫した葉たばこを乾燥させる土壁の独特な構造をもった二階建て程度の倉庫である。この建物がある土地は葉たばこの生産がかつて行われていたということが一目でわかる。そういう農村に特別の景観を与える建物である。しかし、最近、葉たばこの生産が終焉し、取り壊される乾燥庫が多く、寂しい思いをしている。いや生産が行われていても、近代的な設備を備えた共同乾燥場ができていたから、早晩消える運命にはある。
2014年11月27日。木曜日。晴れ。
夕刻、発熱。原因不明。梅干しを食べて、水を大量に飲んで寝る。汗をたっぷりかいたら少しは下がったよう。
2014年11月28日。金曜日。晴れ後曇り。
旧勤務先の公開研究会参加。三時頃帰る。伝六ロードの略図完成。写真整理の一ジャンルとして、次は因島八景にしよう。因島八景は次のように指定されている。
因島八景第一景。大浜埼灯台から布刈瀬戸への眺望。
因島八景第二景。大浜海岸から八重子島を望む。
因島八景第三景。白滝山頂からの多島美。
因島八景第四景。金蓮寺から見る因島水軍城。
因島八景第五景。六松公園からの多島美。
因島八景第六景。因島公園から見る眺望。
因島八景第七景。水軍スカイライン(椋浦峠)から地蔵鼻への眺望。
因島八景第八景。梶の鼻から因島大橋への展望。
2014年11月29日。土曜日。晴れ。
昨夜、雨が降ったようだ。道路が濡れている。
10時過ぎに出て潮騒荘へ。午後、知人と東港付近散策。写真撮影。その後、大浜往還(旧道)を登り、灰の奥で外れ、白滝山への古い登山道の復元に勤める。白滝山山頂の鐘楼の下から西南西の尾根伝いの山道は、峰松山―白滝山登山道として多くの子供たちの遊び場でもあった。現在登山道が竹薮に覆われて、登山不可能な峰松山への登山は諦め、途中の尾根に出るルートである。意外に早く、尾根に達した。眼下に伊浜新開、小細島、宿祢島がくっきりと見える。ここからは過去の山路の痕跡も強く、はるかに回復が容易となるルートだ。こちらはここまでとして、次に行ったのは大浜古道(旧道)である。消防署因北分署の前である。これはしまなみ海道ができるまで使われていたものであるから、わずかに畑に行く人が通るのみであるが、舗装もされていた。当たり前のことであるが、古道とつながりそうな予感がしたところで本日はここまでとした。
2014年11月30日。土曜日。晴れ。
潮騒荘にて。朝、近くの村四国、島四国の写真を撮りに歩く。暖かい。午後、白滝山表参道駐車場まで車で行き、伝六さん、仁王門、六地蔵まで行く。雨が降り始めたのでそれ以上は進まない。伝六さん(墓所)の伝六座像は数えないで、東側の堂守の墓の左に重井村四国67小松尾山大興寺の小祠の左の観音像から数え始める。伝六さんから仁王門まで2体。仁王門から六地蔵まで4体。六地蔵で6体。六地蔵から分かれ道まで今のところ2体。分かれ道まで歩かず。夜、福山へ。
今年54冊目。
仲正昌樹「松本清張の現実と虚構」(ビジネス社)。
今年55冊目。
「道元と曹洞宗」(北國新聞社)。
今年56冊目。
菊池寛「日本合戦譚」(文春文庫)。
映画等
今年41本目。
「早春物語」。
今年42本目。
「陰陽師」。
今年43本目。
「野獣死すべし」
今年44本目。
「徳川家康」。
今年45本目。
「Wの悲劇」。
今年46本目。
「弁天娘女男白浪 浜松屋見世先の場」。
今年47本目。
夏目漱石「門」(朗読・久米明)。
今年48本目。
「浮草」。