810年 弘仁1
薬子の変
薬子の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件である。平城太上天皇の変ともいう。
平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の藤原薬子や、その兄である藤原仲成らが処罰された。
[編集] 経過
806年、桓武天皇が崩御して皇太子であった安殿親王が即位した。平城天皇である。平城天皇は弟の神野親王を皇太弟とした。これは平城天皇が病弱でその子供達も幼かった事を考えて嫡流相続による皇位継承を困難と見た父・桓武天皇の意向があったともいわれている。だが、翌年には早くも天皇の異母弟伊予親王が突然謀反の罪を着せられて死に追い込まれるなど、皇位継承を巡る宮廷内部の紛争は収まる事を知らなかった。
809年4月、平城天皇は発病し、病を早良親王や伊予親王の亡霊によるものと考えた天皇は禍を避けるために譲位を決意する。天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍の藤原薬子とその兄藤原仲成は極力反対するが、天皇の意思は強く、同年4月13日に譲位して神野親王が即位する(嵯峨天皇)。皇太子には平城天皇の子の高岳親王がなった。
810年、退位した平城上皇は旧都平城京へ移る。平城上皇が天皇のときに設置した観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇がこれを怒り二所朝廷といわれる対立が起こる。平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成はこの対立を大いに助長した。
嵯峨天皇は3月に蔵人所を設置し、6月には観察使を廃止して参議を復活した。このことは平城上皇を刺激する。
二所朝廷の対立が深まる中で、9月6日、平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。このことは嵯峨天皇にとって思いがけない出来事であり、嵯峨天皇はひとまずこれに従うとして坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上らを造宮使に任命する。造宮使として嵯峨天皇に信任されている人々を送り込み牽制しようとしたと考えられる。遷都のことに人心は大いに動揺した。
嵯峨天皇は遷都を拒否することを決断する。9月10日、嵯峨天皇は使節を発して、伊勢、近江、美濃の国府と故関を固めさせる。その上で、仲成を捕らえて右兵衛府に監禁し、仲成を左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。嵯峨天皇は造宮使だった坂上田村麻呂を大納言に昇任させる。藤原冬嗣は式部大夫、紀田上は尾張守に任じられた。
9月11日、嵯峨天皇は密使を平城京に送り若干の大官を召致した。この日、藤原真夏、文室綿麻呂らが帰京したので、平城派と見られた綿麻呂は左衛士府に禁錮された。
嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵する決断をする。中納言藤原葛野麻呂ら群臣は極力これを諌めたが、上皇は薬子とともに輿にのって東に向かった。
平城上皇の動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。田村麻呂は出発に当たってかつて蝦夷征伐の戦友だった文室綿麻呂の禁錮を解くことを願い、綿麻呂は許されて参議に任じられる。この日の夜に仲成は射殺された。これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例であり、これ以降1156年の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約350年間一件も無い。
平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。
9月12日、平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。
事件後、嵯峨天皇は関係者に寛大な処置をとることを詔した。高岳親王は皇太子を廃され、代わって天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。なお、824年の平城上皇の崩御の際に、既に退位していた嵯峨上皇の要望によって淳和天皇の名によって関係者の赦免が行われている。
なお、この乱の名称についてかつては、藤原薬子らが中心となって乱を起こしていたものと考えられて「薬子の変」という名称が一般的であった。しかしながら、律令制度下の太上天皇制度が王権を分掌していることから事件が起きたという評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされるようになっている。
939年(天慶2)年 平将門の乱
「兵力の大部分は農民であって、農閑期にのみ動員しうる存在だったのである。史料上からみても、10世紀頃には、まだ武士という名称は一般的ではなく、武力にすぐれてあ人々は「兵」(つわもの)と呼ばれていた。」安田元久「鎌倉開府と源頼朝」(28頁)
10世紀。律令体制から摂関体制へ。公田体制から荘園体制へ。
「将門記」は岩波の日本思想大系8の「古代政治社会思想」の中へある。
上記「将門記」の意訳。
平将門(たいらのまさかど)というのは、桓武天皇より五代目の子孫である。
935年(承平5年)2月4日
将門はもうこうなったら、この地んの支配権をみづからとるしかあるまいと考えた。2月4日に総攻撃をした。まず野本や石田、大串、取木など館から攻めて国香をまず打った。
天慶2年11月21日。常陸の国に於いて将門は謀反を起こして千人にも及ぶ兵を以て、いどむ。家はことごとく焼け、煙に追われ、燃え盛る家の中から暑さに耐えかねた兵士が走り出た。しかし、外では弓を構えた将門の兵によって射打たれ驚いてまた中に入った。
一条天皇980-1011
第66代。母は藤原の兼家の娘詮子。在位中は藤原道長の全盛期。紫式部、清少納言などが宮廷に集められた。
長徳二年(996)年の春の県召の除目のことである。春というのは正月のことである。すなわち、新年の辞令交付のときのことである。紫式部の父の為時は淡路守に任命されたが、不満だった。そこで、
苦学の寒き夜 紅涙襟を霑(うるほ)し
除目の春の朝(あした)、蒼天眼に在り
という詩を天皇に指しだして、悲憤の情を訴えた。陛下としては、いたく同情するもののどうしょうもなく寝込んでしまわれた。
そこへ藤原道長がやってきて、女房に尋ねた。
「陛下はどうされたんだ?」
女房から事情を聞いた、道長は、先に越前守の発令を受けている源国盛を呼んで、越前守を辞退させた。そして為時を改めて、越前守に任命した。陛下の心は晴れたものの、このことを聞いた他の国守たちが不審に思ったのは言うまでもない。
紫式部978~1016 975とも。
香子(たかこ)
藤原宣孝と結婚。2年で死別。
少女時代~勝ち気、率直、行動的、明るく優しい。知性豊か。
時代区分~未婚時代、結婚時代、寡居時代、宮仕え時代
世界観~孤独、愁嘆、憂き読感、無常感、宿世感、これらの情感を心の中に濃くただよわせながらも、埋没することなく、人の世の常理を見極めようとする。事象(環境)、心象(自己)を対象化、客体化、客観視して。っか
996年(長徳2)初夏、父の越前赴任に同行し、1年半ばかり国府武生に滞在した。翌年(長徳3)冬帰京。さらにその翌年(998年長徳4)冬、山城守・右衛門権佐藤原宣孝と結婚。このとき式部は24才、藤原宣孝は四十四、五才。999年(末ころ)賢子生む。長保3年(1001)4月25日藤原宣孝と死別。寛弘2、3年の12月29日に一条帝の中宮彰子のもとへ初出仕。1014年40才で死ぬ。
非常に知的で活発な少女である。いたづら好きである。性格的には超陽性。ただ、知的なのだ。知的だということは考えることができるということである。だから、結婚までの式部は陽性な性格が知性を凌駕し、その知性がどちらかというと邪魔になるという感じだ。 それが、夫の早い死。悲嘆にくれる。悲嘆にくれきれない。どうしてか。陽性な性格だからか。知性がありすぎるのか。知識がどう結びつくのか。(ここは書きながら考えるか)
1028(長元2)年 平忠常の乱
平将門の乱後、関東地方は桓武平氏一族が勢力をふるったが、そのうちの有力者であった平忠常は上総、下総に勢力を大勢力を形成した。
この乱以後、東国は清和源氏の強固な地盤となった。
平忠常(967-1031)
忠頼の子。内乱では源頼信に屈伏。京都へ護送される途中美濃で病死。千葉氏、上総氏はその子孫。(豪族的大武士団)
私営田領主の一人である。
鳥羽天皇1103-56
74代。崇徳、近衛、後白河の3代二十八年間院政を行なう。
悲劇の源は、この辺にある。鳥羽天皇は長年にわたって、陰性を行ったが、争いを鎮めることはできなかったことから分かるように、この天皇の無策が、すべての悲劇を引き起こしたと行って良い。
源頼政1104-80
源三位入道(げんさんみにゅうどう)。
家人。武将。
1146(久安2年)
平清盛が安芸の守に任じられた。厳島信仰はこのごろから。
源仲綱1126-80
源頼政の子。
伊豆の守。所有する鹿毛(かげ)を平宗盛に強引に奪われる。
その前の所望されたときの歌に
「恋しくは来ても見よかし身にそへるかげをばいかが放ちやるべき
鹿毛(かげ)は体毛は褐色で、たてがみなどは黒色。
1156年(保元元年)7月11日。
崇徳院側の軍議で源為義が言った。
「内裏のほうに比べれば、こちらの勢力はあまりに少ないではないか。多くの郎等は皆義朝に従って内裏についてしまった。こちらに残ったのは、わずかに小男二人だけではないか。」
義朝は息子の頼賢、為朝のほうは見なかったが、二人は笑いもせず父を凝視していた。
崇徳天皇1119-64
七十五代。 鳥羽天皇の第一皇子。母は待賢門院璋子。五歳で即位。四十一年鳥羽上皇は、譲位を迫り、寵妃美福門院の子近衛天皇を即位させ、さらに近衛天皇死後、弟の後白河天皇を立てた。鳥羽法皇の死後、藤原頼長と組み、保元乱を起こしたが敗れた。
崇徳天皇側を白河殿方という。左大臣藤原頼長。源為朝。
左大臣藤原頼長は武者所の武士・親久に内裏方の偵察をしてこいと命ぜると、時すでに遅く、こちらに向かって攻めていると判明。為朝は早期攻撃を入れられなかったことを悔いたが、後の祭りだ。それを為朝が憤慨すると、急に除目が行なわれて、為朝を蔵人にすると言い出した。武人為朝は戦が迫っているのに除目とは何事か、自分は今までどうりの鎮西の八郎でいっこうにかまわないと言った。
すべては鳥羽天皇から始まる。
後の鳥羽天皇、宗仁は1103年、堀川天皇の第一皇子として生まれた。母は、藤原苡子である。
大治四年(一一二九)年に白河院が亡くなると、自ら院政を行なった。28年、四代の天皇の間である。
鳥羽上皇は譲位後、白河上皇の例に倣って、鳥羽離宮へ入居した。その後多くの建物を増築した。
1119
崇徳天皇1119~64。第75代。在位1123~41。鳥羽天皇の第1皇子。母は待賢門院璋子。名は顕仁。5才で即位。41年鳥羽上皇は譲位を迫り、寵姫美福門院の子、近衛天皇を即位させ、さらに近衛天皇死後、弟の後白河天皇を立てたため不満が重なり、鳥羽法皇死後、藤原頼長と結んで、保元の乱を起こしたが、破れて讃岐に流された。
叔父子と呼ばれ、父からは疎んじられた。
待賢門院(1101~45)璋子は藤原公実の娘である。白河法皇の猶子となり1117年鳥羽天皇の女御となり、翌年皇后に宣下されて中宮と称し、崇徳、後白河天皇を生む。25年因号宣下。
鳥羽天皇は21才のとき(保安4年正月二十八日)に崇徳天皇に譲位した。その後大治4年7月7日に白河院が亡くなられ、鳥羽法皇が実質の最高権力者になった。 保安5年5月18日に皇子が誕生した。母は美貌のほまれ高い得子である。後に美福門院と呼ばれた方である。美福門院(1117~60)は中納言長実卿の娘である。
得子は鳥羽法皇にこの皇子を皇太子にし、ゆくゆくは天皇にするように迫った。だから、後世から見ればやや異常だが、この皇子は誕生の年、8月十七日に皇太子となり、三才で天皇となっている。すなわちり近衛天皇である。これが永治元年十二月7日のことである。(多分この結果改元して永治となったのであろう)。これより、崇徳のことを先帝、近衛天皇を新院と呼ぶようになった。また、鳥羽上皇を一院と言った。
1177年(治承1) 5月
鹿が谷(ししがたに)
藤原成親(なりちか)、俊寛、後白河法皇
藤原師光、成経
京都東山の後白河法皇の別荘で平家追討の謀議があったというのが世に有名な鹿が谷事件である。
果たしてこれがほんとうに計画的なものであったのかどうかは疑わしい。
簡単に発覚するような謀議をなぜ、後白河ともあろうものがしたのであろうか。これはむしろ。後白河の気持ちを汲んでというほうがいいのではないか。
源頼朝ノート
源頼朝は弟の義経と比べられるせいか、暗いイメージで見られがちである。そのように思うのは私だけではないと思う。義経が希代英雄であり、頼朝はその義経を追放し、後には追って殺害したというのは史実だから、そう思うのは当然である。また、映画にしても、小説にしても頼朝よりも義経のほうが主役にするのに好都合だ。
頼朝ノート
源頼朝1147~1199
義朝の第3子
鎌倉幕府を関東にもっていくのは何故か。 天下一統の方向として、
関東~頼朝、北条早雲、謙信、家康
京都~今川義元、信玄、信長
中公。日本の歴史12、p.14
1180(治承4)年
源行家が以仁王の令旨を鎌倉へもたらした。4月27日のことである。これから頼朝の挙兵まではしばらく間がある。もちろん挙兵には準備が必要だから、令旨を受け取ってすぐに挙兵というわけにいかぬが、さらにそれ以上大切なのは、機会を窺うことである。頼朝も虎視眈眈と機会を窺っていた。しかし、機会以上に、頼朝の身の上のほうに問題が出てきた。というのは、平氏側の監視が厳しくなったからである。特に6月以降にそれは顕著になった。平家の時代は既に峠を越したと、後世の我々が思うのは勝手だが、平氏方がただ傍観していたわけではない。
6月19日。三善康信(みよしやすのぶ)の使者が、鎌倉に着く。頼朝は使者を丁寧にねぎらい、人払いをして書状を読んだ。ついに来たか、という思いに近いものが頼朝の胸のうちに沸き起こった。しかし、その険しい表情は一瞬にして消え、いつもの鷹揚な雰囲気に戻った。もちろん誰も、頼朝の顔色を伺えるだけの位置にはいなかったが、もし傍にいたとしても、この変化に気付くものは少ないと思われる。人が近くにいようといまいと、感情が顔に現われることはなかった。蛭ヶ小島の流人としての育ったことで、ひとりでに身にちついた、頼朝の性だった。天離(あまざか)る鄙で幾年(いくとせ)かを過ごしたことによって、頼朝が他の武将らと異なる性格を多く身につけていたが、これもその一つだった。
1181(治承5)年
1月高倉上皇死す。
2月清盛死す。
4月以仁親王、平家追討の令旨(りょうじ)を発した。
1189藤原氏(奥州)を滅ぼす
1190建久元年10月3日白河法皇に謁見
権大納言右近衛(うこんえ)大将
12月29日鎌倉帰着
1192後白河法皇死去後征い大将軍
建久3年7月12日
8月9日 実朝誕生
9月18日岩殿、大蔵寺両観音に詣でる(頼朝)
1193建久4年5月22日富士の巻狩(まきがり)頼家鹿を射る
1194建久5年夏 一条高能(18才)鎌倉へ
「高能で大姫の気にいらぬのなら、ひとつ後鳥羽天皇ではどうでしょうか」
「頼朝の気持ちは大きく動いた。明らかにいつもの冷静さが欠けている」
10月の初め頃から準備
1195建久6年 妻子を伴って再度上京 2月14日鎌倉出発
東大寺再建の供養(3/12)「あいにくすごい大風雨となったが、とくに上京した頼朝は、多勢の武士たちに護衛されてその式に参列した」(石井進)
3/14京都着
兼実を軽視
3/29丹後の局を六波羅に招き政子、姫が対面
6/25帰路に着く
7/8 鎌倉着
7月稲毛三郎重成の妻死す。
稲毛三郎重成(いなげのさぶろうしげなり)の妻は頼朝の妻政子の妹である。その妻が亡くなったのは、建久六年(一一九五)七月のことであった。
妻の死の悲しみは、重成にもこたえたとみえる。重成は葬式が終わって、落ち着くと出家した
96建久7年 藤原(久条)兼実一派 失脚 土御門通親らの策略
(つちみかどみちちか)
この年頼朝征い大将軍を辞任(石井進P232 )
稲毛三郎重成は12月に相模川にかけた橋の完成と亡き妻を偲ぶ追善供養を行なった。を97建久8年7/14大姫亡くなる
8年10月一条能保(いちじょうよ しやす)死去
9年9月一条高良(たかよし)死去 10年1月13日頼朝死す(53才)
相模川の橋を重成法師が妻の供養のために作った。
その橋供養に出かけての帰途、落馬した。
源頼朝
本文
頼朝
頼朝の母は正妻であったから、源の義朝の第三子として生まれながら、嫡流であった。 その母は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の娘であった。
流託
蛭が小島という。狩野川の川下で、島のように見えるのは、今でいう三角州である。湿地帯であり、この近辺には蛭がたくさんいたのであろうか。韮山付近である。
東側に丘がある。この向うが宇佐美や伊東である。
このあたりの勢力をふるった武士に伊東祐親がおり、狩野川の西側には北条時政がいた。
頼朝は人気があった。といっても当時のことである。いくら流罪の身とはいえ、頼朝は清和源氏の御曹司であったということも、大きく働いていたには違いない。
そしてこの地方の武士についても、今となっては理解の遠く及ばないことのほうが多い。われわれが普通考える。へいけのと源氏の対立いうようなものがどの程度に、都を遠く
1159年(平治元年)平治の乱起こる。
義経が父源義朝は 衛門督(えもんのかみ)藤原信頼に与して平治の乱に敗れた。時に一二月二十七日のことである。
このとき、父源義朝は左馬頭であった。
源義朝の源氏再興の望みは断たれ、平氏の没落まで、源氏の悲哀は続く。
重代の郎等はほとんど死亡し、二十数騎が残ったに過ぎない。源義朝は東国をめざして落ちることにした。しかし、京にいるすべての子供を連れていくわけにはいかない。
「この世の別れであろう。……」
幼き子供たちは京に残すほかなかった。
ことにした。
長男の悪源太義平(あくげんた)は越前をめざした。しかし、食料もなく近江の石山寺で平家の武士、妹尾太郎兼康、難波三郎経房らに生け捕られ、京の六條河原で斬殺された。次男の中宮の大夫の進朝長は山賊の矢に左の膝を打たれ、美濃にて死んだ。
その他にも母を異にする子供たちはたくさんいた。尾張の熱田神社の大宮司の娘を母とする頼朝は三男で右兵衛佐(うひょうえのすけ)と呼ばれ、このとき一二才だった。
範頼は遠江の蒲というとこで成人したので蒲の御曹司と呼ばれた。母は池田宿の遊女である。
また九條院すなわち近衛天皇の中宮の雑仕であった常盤を母とする子供が三人あった。 一番上が今若で七才、次いで乙若が五才、そして生まれたばかりの牛若である。牛若は都合、九番目の子供である。
後白河天皇1127-92
77代。鳥羽天皇の第四皇子。母は待賢門院璋子。1155年即位。保元の乱となる。 内裏方。
清盛1118~81(治承5)
1168年 仁安3年
清盛出家。
1179(治承3年)
清盛のクーデター
禿童(かむろ)ほど、恐れられているものはございません。近ごろ都のあちこちを、髪を禿(かむろ)にした少年が、はびこっております。この悪童どもと来たら油断も隙もあったものではございません。京のあちこちを三〇〇人近い禿童が動き回って平家の悪口を言うものはいないかと、嗅ぎ回っております。まるで腐肉にむらがる野犬のようなもので、人々から嫌われておりました。近ごろでは内裏のほうまでも出入りしているとか噂されております。
高倉天皇 1161-81
第八十代天皇は、後白川天皇の第七皇子の高倉天皇である。
母は建春門院滋子である。
清盛と後白河法皇の反目の中に過ごす。
1180年安徳天皇に譲位した。
安徳天皇1178-85
第八十一代は高倉天皇と清盛の娘徳子、のちの建礼門院の第一皇子、言仁である。
一一八三(寿永二年)の木曽義仲の入京以来、平氏とともに都落ちし、85年、壇ノ浦で入水した。墓は下関市の阿弥陀寺にある。
後鳥羽天皇1180ー1239
平氏の滅亡とともに壇ノ浦で入水した安徳天皇の後は第八十二の後鳥羽天皇である。後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子で、母は七条院殖子。
すでに八十三年の都落ちの後、後白河法皇の院旨で践祚していた。このときは三種の神器がなくて、おう
関東~頼朝、北条早雲、謙信、家康
京都~今川義元、信玄、信長
中公。日本の歴史12、p.14
1180年8月17日 晴れ。一七日の、明月である。このころは富士山も噴煙をあげていたという。
頼朝挙兵である。
「事の草創」としておく。
「吾妻鏡」には「事之草創たり」「関東の事、施行の始め也」という。
平清盛も頼朝とともに武家の出身ではあったが清盛の政治は公家政権の中に浸透していっただけで、真の武家の政治ではなかった。それゆえ、頼朝をもって武家政治の創始とする。
考えてみれば、これは頼朝以来、軍人が政治の中心にあった第二次世界大戦終了の一九四五年まで続いたと言ってもいい。すなわち現代の用語で言えば、清盛が文官政治のなかに武力を持ち込んだことによって、完全に頼朝によって権力が武家のものになり、政治形態そのものも、武家のものとなった。明治維新は、一応文官の手に政治はもどり、どちらかというと公家政治に近いものであったが、富国強兵策は当然のことながら武官の政治進出を可能にしたのである。
しかし、現実的には平氏に対する、源氏の反抗、源家の再興というかたちであるが、平氏があまりにも国家権力に深く結びついていたので、それは国家への反乱、すなわち公家政治へ反乱という形になった。「その場合の武力は、源氏譜代の家人を結集するといっても、実際には京都政権の担い手たる貴族たちの支配に不満を持ち、新しいエネルギーを蓄えて、旧体制を覆さんと望む在地武士層に求めねばならない。」安田元久「鎌倉幕府と源頼朝」(16頁・教育社)
1189藤原氏(奥州)を滅ぼす
1190建久元年10月3日白河法皇に謁見
権大納言右近衛(うこんえ)大将に任ぜられた。「この時点で頼朝の居館が幕府と呼ばれる必然性を生じた。」安田元久「鎌倉幕府と源頼朝」(24頁・教育社)
12月29日鎌倉帰着
1192後白河法皇死去後征い大将軍
建久3年7月12日
8月9日 実朝誕生
9月18日岩殿、大蔵寺両観音に詣でる(頼朝)
1241(仁治2年)厳島神社造営 これが現在に至る。(日本の歴史6)
****
年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代〜
****
鳥羽天皇 1103-56
すべては鳥羽天皇から始まる。
後の鳥羽天皇、宗仁は1103年、堀川天皇の第一皇子として生まれた。母は、藤原苡子である。
大治四年(一一二九)年に白河院が亡くなると、自ら院政を行なった。28年、四代の天皇の間である。
鳥羽上皇は譲位後、白河上皇の例に倣って、鳥羽離宮へ入居した。その後多くの建物を増築した。
1119
崇徳天皇1119~64。第75代。在位1123~41。鳥羽天皇の第1皇子。母は待賢門院璋子。名は顕仁。5才で即位。41年鳥羽上皇は譲位を迫り、寵姫美福門院の子、近衛天皇を即位させ、さらに近衛天皇死後、弟の後白河天皇を立てたため不満が重なり、鳥羽法皇死後、藤原頼長と結んで、保元の乱を起こしたが、破れて讃岐に流された。
叔父子と呼ばれ、父からは疎んじられた。
待賢門院(1101~45)璋子は藤原公実の娘である。白河法皇の猶子となり1117年鳥羽天皇の女御となり、翌年皇后に宣下されて中宮と称し、崇徳、後白河天皇を生む。25年因号宣下。
鳥羽天皇は21才のとき(保安4年正月二十八日)に崇徳天皇に譲位した。その後大治4年7月7日に白河院が亡くなられ、鳥羽法皇が実質の最高権力者になった。 保安5年5月18日に皇子が誕生した。母は美貌のほまれ高い得子である。後に美福門院と呼ばれた方である。美福門院(1117~60)は中納言長実卿の娘である。
得子は鳥羽法皇にこの皇子を皇太子にし、ゆくゆくは天皇にするように迫った。だから、後世から見ればやや異常だが、この皇子は誕生の年、8月十七日に皇太子となり、三才で天皇となっている。すなわちり近衛天皇である。これが永治元年十二月7日のことである。(多分この結果改元して永治となったのであろう)。これより、崇徳のことを先帝、近衛天皇を新院と呼ぶようになった。また、鳥羽上皇を一院と言った。
1177年(治承1) 5月
鹿が谷(ししがたに)
藤原成親(なりちか)、俊寛、後白河法皇
藤原師光、成経
京都東山の後白河法皇の別荘で平家追討の謀議があったというのが世に有名な鹿が谷事件である。
果たしてこれがほんとうに計画的なものであったのかどうかは疑わしい。
簡単に発覚するような謀議をなぜ、後白河ともあろうものがしたのであろうか。これはむしろ。後白河の気持ちを汲んでというほうがいいのではないか。
年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代〜
年代記7 昭和時代〜