2019年7月17日水曜日

夕凪亭閑話 2012年2月

 
2012年2月1日。水曜日。雨後晴れ。
「虐げられた人びと」第5章。自分の長編小説が出版され、成功する。 
「古寺巡礼」 二十 当麻の山――中将姫伝説――当麻曼陀羅――浄土の幻想――久米寺、岡寺――藤原京跡――三輪山、丹波市
丹波市のところで天理教が出てくる。今は天理市ではないかと思う。 
湊かなえ「境遇」(双葉社)を終わった。施設の子どうしが自分の親を捜したいという願望を持っている。そして三十何年か前の、殺人事件。加害者と被害者の子である。ここのところは「続・氷点」を思いだした。そのことは、よい。ただ、人物造形が平板なように思った。 
 
午前中、小雨。午後から風が吹いて寒波到来の予感。
また、新しいページを加えて、2月。
 
 
2012年2月2日。木曜日。曇り時々晴。時々雪。

朝5時前に起きたら小雪がちらついていた。気温も低い。新聞にも雪マーク。今日は帰れなくなるかもしれないぞと思い、着替え、薬などを準備する。息子のところから戻ってきた寝袋はどこへあったかな、と思い出すも、浮かんでこないので、これはまあいいかと諦める。
そうこうしているうちに雪はやんだ。でも、支度した荷物は積んで、7時過ぎに出発。まことに寒い一日であった。

最高気温4度ぐらいで、予報通りの寒さに驚いた。さらに、驚いたことは明日の朝はマイナス5度だということだ。できれば、4時5時に起きて、水道を時々出しておきたいと思う。

しかし、風呂上がりの6時過ぎから9時まで熟睡してしまった。これでは12時まで眠れそうにないな、と早起きは諦める。

「虐げられた人びと」第六章。養父母と義理の妹は、「私」の小説に感動した。しかし、一年後、「私」も義父も病気になっているし、イフメーネフ家には公爵の息子が出入りしているという。訴訟もはかばかしくなく、全てが悪い方向を指している。
 「青年」の十三、十四。主人公純一は小説家を目指しながら、一向に書こうとしない。何処へ行くのだろうか。 
 
 
2012年2月3日。金曜日。晴れ。
節分。猛烈に寒い。
5時に起きて、水道を流す。さいわい凍っていない。
7時半に出る。車外気温マイナス3度。凍結していてはいけないので、ローで走る。
「虐げられた人びと」 第七章。義妹のナターシャは三週間ぶりに見ると、まるで別人のように憔悴している。悩みが彼女の身体を蝕んだのだ。ここにはまだ書いていないが、「私」に心を寄せながら、公爵の息子に言い寄られての悩みだろう。
リヒャルト・ワーグナー著、高橋康也・高橋宣也訳「ジークフリート」(新書館)を読む。夢のあるファンタジー。
 
 
2012年2月4日。土曜日。晴れ。
土曜日なのに仕事で出勤。珍しくよく晴れて、朝日が明るい。春の兆し。しかし、今朝も寒い。
4時過ぎに帰って、ベッドの上の炬燵に入って本を読みながら、うとうと。間もなく食事をして、外が明るいのでカーテンを開けたまま早春の日暮れを楽しみつつ本を読んでいたら、再び眠ってしまった。気が付くつと外は暗くなっていた。
「虐げられた人びと」の第八章は、ますますわからなくなる。私の解釈が違っていたようである。義妹ナターシャの悩みは公爵の息子アリョーシャに恋いこがれていながら、捨てられそうになっているという悩みが主のようだ。しかし、何ともよくわからない。複雑な事情を少しずつ読者に提示するドフトエフスキーの手管にはまいってしまう。とはいえ、これまで読んだドストエフスキーのどの小説よりも、これは面白い。
「古寺巡礼」 二十一 月夜の東大寺南大門――当初の東大寺伽藍――月明の三月堂――N君の話
 わたくしは中門前の池の傍を通って、二月堂への細い樹間の道を伝いながら、古昔の精神的事業を思った。そうしてそれがどう開展したかを考えた。後世に現われた東大寺の勢力は「僧兵」によって表現せられている。この偉大な伽藍が焼き払われたのも、そういう地上的な勢力が自ら招いた結果である。何ゆえこの大学が大学として開展を続けなかったのであろうか。何ゆえこの精神的事業の伝統が力強く生きつづけなかったのであろうか。
「青年」 十五 「まずい小説のような日記」ということ。
もう4日。「二月は逃げる」とは、よく言ったもの。はや、4日。速い速い!!
 
2012年2月5日。日曜日。曇り後雨。
日曜日なれど、今日も出勤。
白川義員「聖書の世界」(新潮社・とんぼの本)。美しい写真集。広大な景色を高所から俯瞰し、遠くの遺跡にまでピタリとピントがあっている。大口径レンズで撮影したものであろうか。それにしても、光の角度がその位置にくるまで待つ時間の長さには頭が下がる。
「虐げられた人びと」第九章。何とも、残念な終わり方である。「これが私の幸福の一部始終である。」と義妹ナターシャの恋は、公爵の息子アリューシャと結婚するために馬車に載って行ってしまう所で終わる。そして、物語は、最初の犬を連れた老人の死の話のところへ戻るのである。それは、次回からの話であるが、ここではナターシャが苦しみながらも退かれていくアリューシャの魅力的で弱々しい人物が詳細に描写され、見事な作品となっており面白い。
「古寺巡礼」二十二 法隆寺――中門内の印象――エンタシス――ギリシアの影響――五重塔の運動
「青年」は十六。
 
 
2012年2月6日。月曜日。曇り時々雨。
月曜日。
夜になってまとまった雨。こういう雨はうれしい。
 
「虐げられた人びと」第十章はスミス老人が住んでいた部屋に住む主人のところに、孫とおぼしき少女がやってくる。ナターシャとも会う約束があると記される。 「古寺巡礼」 二十三 金堂壁画――金堂壁画とアジャンター壁画――インド風の減退――日本人の痕跡――大壁小壁――金堂壇上――橘夫人の廚子――綱封蔵
「青年」は十七。
 
2012年2月7日。火曜日。雨後曇り。
昨夜から、雨が降った。久し振りにかなり降った。この雨は春を待っている植物には貴重で大切なものであった。まことに時宜を得た雨であった。これで桜も筍も一安心である。とはいえ、故郷の山の筍は猪に先取りされて、最近は採りに行っていないのだが・・・。
小塩節「心の旅 祈りの旅」(青蛾書房)。読み始めた小塩先生の著作のうちの2冊目である。ほんとうに幅広い知識に驚かされる。ご専門のドイツ語の知識を中心に、歴史や音楽やキリスト教や建築や都市の話しと、延々と続くお話はまことに興味深い。
図書館の期限がきたので、総入れ替え。「現代人の仏教」「易経 上」「イスタンブール歴史散歩」「ラインの黄金」などを借りてくる。さて、どこまで読むことができるか??
 
 
2012年2月8日。水曜日。晴れ、時々雪。

「虐げられた人びと」第十一章。義父が来て、家に連れて行く。義母が養女をもらおうというのに反対してくれという。

「古寺巡礼」
二十四  
夢殿――夢殿秘仏――フェノロサの見方――伝法堂――中宮寺――中宮寺観音――日本的特質――中宮寺以後

 中宮寺を出てから法輪寺(ほうりんじ)へまわった。途中ののどかな農村の様子や、蓴菜(じゅんさい)の花の咲いた池や、小山の多いやさしい景色など、非常によかった。法輪寺の古塔、眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情(ふぜい)もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁(わら)が積んであり、本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機(はた)が出してあった。

これで、古寺巡礼は終わった。

「青年」は十八。

寒波到来の寒い日。よく晴れていたのに、気温は上がらず。時折雪が舞う。二月の半ば近く。日射しは明るいのに、まだ春には遠い。
 
2012年2月9日。晴れ時々雪。
昨日からの寒波が続いております。しばしば雪が舞っております。梅の赤い蕾がふくらんでいます。春はもうすぐそこまで来ているのに寒いですね。
湊かなえさんの「花の鎖」(文藝春秋社)を読んだ。何個かの話が並行して進む。母がいたり、死んでいたり、で混乱してしまう。話題に集中できたところで別の話題になり、意欲を殺がれたりする。でも、注意深く読めばそれが重要なのだということがわかるようになっている。それらの話が意外な方向から一つに繋がりところに、この小説の推理小説らしさがある。
「道草」は 七十、七十一、七十二。
「青年」は十九と二十。
二人はまだ老(おい)だの死だのということを、際限も無く遠いもののように思っている。人一人の生涯というものを測る尺度を、まだ具体的に手に取って見たことが無いのである。
「虐げられた人びと」第十二章。養父母の家に行って、義妹のことを義母と話す。ほとんどが義母の独白。
 
 
2012年2月10日。晴れ。
よく晴れているのに、今日も気温が上がらず、寒い一日。
「城」 第三章
 フリーダという女が味方になり,物語がずいぶんと変わった。
「青年」は二十一を読む。先はまだ長い。
「虐げられた人びと」第十三章。義父の家で、荒れる義父。まだ出発しない。
「道草」七十三、七十四、七十五
岳父の貧乏物語である。健三は金持ちではないが着実な人生を送っている。ローリスク・ローリターンというよりも、およそ利殖などとは縁のない男である。しかし、脇役たちよりは、はるかに裕福である。それは、貯蓄があるというのではなく、借金がないという意味である。収入以上の支出をしないのである。それに対して岳父は、山っ気があり、ハイリスク・ハイリターンのことに熱心なのに、ハイリスクへの思いやりが足りない男なのである。結果として、落剥して娘婿を頼ってるのである。しかし、一向に反省はしない。性格なのだから、仕方がないのだ。悪いとは思っていないのだ。だから、反省もしない。実はこういうタイプの人間のほうが世の中には多い。
 
 
2012年2月11日。土曜日。晴れ。
土曜日で建国記念日。朝、少し買い物。午後は家にいる。三時過ぎに、暖かいので、久し振りに散歩。気持ちがよい。

ワグナー作、アーサー・ラッカム絵、寺山修司訳「ラインの黄金」(新書館)。歌劇「ニーベルンゲンの指輪」の第1話である。物語性は十分である。登場人物が少なくわかりやすい。

「虐げられた人々」第十四章、十五章を読んで第一部を終わる。ナターシャのアリョーシャに対する気持ちは複雑でワーニャはそれに振り回されている。

「城」第四章。Kとおかみとフリーダの三人の不思議な会話。そもそも城の主人と、その村の者との関係、さらに外からやってきたKとの関係が曖昧なままで、いろいろと会話があり、そこからまた少しずつその関係を理解せよというのが、作者のねらいだろうが、それにしても不思議で、かつわかりにくい小説である。

「青年」は二十二。坂井夫人が逗留する箱根へ行く。
 
 
2012年2月12日。日曜日。快晴。
最高気温10℃で完全な晴れ。暖かい。明日は雨か。
今日は因島で、松の剪定。
「虐げられた人々」第二部第一章。いよいよ第二部に入った。アリョーシャの一人舞台に近い。そして、公爵の登場で第一章は終わる。

「城」第五章 ここにいたって、測量技師Kがこの村に呼ばれたのが事務的なミスであった。この「事務的なミス」すなわち官僚機構のシステム的な欠陥が個人に不利益をもたらすという主題があきあらになる。一頃言われた「不条理」とうことなのか。

「青年」二十三。純一は箱根に滞在する坂井夫人から招待されて、岡村という画家と一緒にいる坂井夫人のいる旅館へ行く。

渋澤幸子、池澤夏樹著「イスタンブール歴史散歩」(新潮社・とんぼの本)は美しいモスクの写真とともに、数々の歴史を思い出させてくれるコンパクトな本です。
 
 
2012年2月13日。月曜日。雨。
鎌田茂雄「現代人の仏教」(講談社学術文庫)。
仮名法語を中心に、五輪の書や葉隠れ、もちろん経典、宗教家の主著などから引用しながら、仏教の精神について詳しく解説したもの。すべてが記憶に残るわけではないが、よくわかる。

「虐げられた人々」第二部第二章。これはまあ見事な展開だ。公爵が突然訪れ、物語の急展開させる。まったくドストエフスキーの筆力には感嘆する。これまで以上にこの章は素晴らしい。

「青年」二十四を読む。これで終わり。
「道草」七十六、七十七。
「城」第六章、第七章。場所の関係として始まった物語が、人間の関係に変貌してしまった。城という題は、人と人との関係よりも、場所の関係のことと通しておけばおもしろかったのにと、やや惜しんでいる。
一日中雨が降って、寒い日であった。
 
 
2012年2月14日。火曜日。雨。
よく降った雨がやっと夕方頃には止んだ。この雨で季節が春になればいいのだが。どうだろうか。相変わらずの寒波がつづくのだろうか。
「道草」七十八、七十九。
「城」第八章を読んだ。
「貧しき人々」第二部第三章。話は変わって、主人公の部屋の前の住人である老人の孫と思われる貧しい少女が再び現れ、本をもって帰る。その家を探ろうとする。
 
 
 
 
2012年2月15日。水曜日。曇り一時雨。

「虐げられた人々」第四章。スミス老人の孫娘エレーナが養われている、貧民窟のような家にいき、彼女が虐待されていることを知る。

「城」第九章終わる。背景の構図の異様さを示すのが主題か?
「道草」は七十九、八十、八十一、八十二、八十三を読む。三女が生まれた。

また、明日から寒くなりそうですね。 
 
 
 
 
2012年2月16日。木曜日。曇り。やや暖かい。
首が痛い。肩が痛い。運動のしすぎか?
ラブを塗るだけにしよう。ラブローションは売ってなくて、今度のラブはゼリー状だ。塗りやすいが、あまり効かない。
「虐げられた人々」第二部第五章。またまた変な男が登場する。
「城」第十章。読めば読むほど変な小説だと思う。Kは永久に城に辿り着けないし、何のためにここへ来たのかもわからないのではないか?

「道草」八十四、八十五、八十六。これを読んでいると、健三がしていることが、何か人生の道草のように見える。
これでは、浦島太郎の日記ではないか。いけない。
安藤武編著「三島由紀夫全文献目録」(夏目書房)。やや荒っぽい編集ではあるが、その数には敬服。それを補えばよいのだが,続かない。
 
 
 
2012年2月18日。土曜日。はれ。
寒い朝。

「虐げられた人々」第二部第六章。ナターシャの愚痴めいたものを聞く。煮え切らない。
「城」 第十一章。学校の小遣いになり、宿所は教室である。そこで結婚したフリーだと、助手二人で暖をとりながら寝る。


「道草」八十七、八十八、八十九、九十、九十一、九十二
九十一
 健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。
 実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。むしろ物品であった。ただ実父が我楽多(がらくた)として彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった。
「もうこっちへ引き取って、給仕(きゅうじ)でも何でもさせるからそう思うがいい」
 健三が或日養家を訪問した時に、島田は何かのついでにこんな事をいった。健三は驚ろいて逃げ帰った。酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた。その時の彼は幾歳(いくつ)だったか能(よ)く覚えていないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になって世間に出なければならないという慾が、もう充分萌(きざ)している頃であった。
「給仕になんぞされては大変だ」

九十二
 細君は健三に向っていった。――
「貴夫(あなた)に気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」
小塩節「愛の詩人・ゲーテ」(日本放送出版協会)を読んだ。ゲーテのことがよくわかる。理想主義的なゲーテ。それはそれでよい。
 
 
 
2012年2月19日。日曜日。晴れ。
寒い。

「道草」(青空文庫/岩波文庫)
     九十三~百二を読んで終わる。
百二  
「世の中に片付くなんてものは殆(ほと)んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」

「虐げられた人々」第二部第七章はかつての同級生がエレーナを救出するという話で、何がどうなっているのかよくわからない。

「城」第十二章。Kとフリーダは小学校の小使いになり、宿所として教室が当てられた。しかし翌日十分に身支度を整えていないうちに先生と子どもがきて、またまたこの小説を一貫して流れる、訳のわからないドタバタ劇にしてしまう。
 
 
 
2012年2月20日。月曜日。晴れ。
久々の「阿Q正伝」。第四章 恋愛の悲劇、第五章 生計問題を読む。
「城」第十三章、十四章を読む。長すぎる。
「大菩薩峠」 二十八,二十九。こちらも久々に。
「虐げられた人々」第二部第八章。ブブノワという悪女のところから救い出したエレーナを看病しながら、養母のところとナターシャの所を慌ただしく訪ねた。ナターシャのことが気になる。
随分と日が長くなって、朝夕が明るい。そして日中の日射しも春の明るさだ。なのに気温が低い。春が待ち遠しい。
 
 
2012年2月21日。火曜日。晴れ。
「阿Q正伝」第六章 中興から末路へ を読む。
「城」第十五章
手紙を届けるバルナバスの姉オルガが、城とクラムとバルバナスとの関係をKに語る。
「大菩薩峠」  三十
         三十一
「一生の不覚、一生の不覚」
 土方歳三は血の涙をこぼして、
「幼少より剣を学んで……御身ほどの達人を見分ける眼がなかったは……それが残念!」
 島田虎之助はこの時、抑(おさ)えた膝を寛(ゆる)めて、
「剣は心なり、心正しからざれば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」
 こう言いながら土方歳三の襟髪(えりがみ)を取って突き放すと、よろよろと彼方(かなた)に飛んで(どう)と倒れます。
         三十二
そうして最後に到着した結論は「我ついにこの人に及ばず」です。
この結論は竜之助にとって生命をむしり取られるほどに辛(つら)い、けれども、どの手を行ってもこのほかに打つ手はない。
以上で、「大菩薩峠1」(青空文庫/ちくま文庫)を終わる。
「虐げられた人々」第二部第九章。エレーナは少しずつ回復。エレーナの服を買いにいく。ナターシャは不機嫌。
 
 
2012年2月22日。水曜日。曇り後雨。
昨夜の雨は朝にはやんでいたが、夕方からまた降り出した。かなり降った。
「城」は15章の中に「アマーリアの秘密」という章らしきものがある。登場人物が増えるだけで、あまり意味はないように見える。
ワーグナー作、高橋康也、高橋迪訳「ワルキューレ」(新書館)に次いで、「神々の黄昏」を借りてきた。
「虐げられた人々」第二部第十章。義父が公爵に決闘を申し込むと言いだし、主人公ワーニャは反対する。
それにしてもドストエフスキーの物語作りのうまさに感嘆。
 
 
 
 
2012年2月23日。木曜日。雨後晴れ。
春のような日射し。気温は12℃ぐらい。
もう寒波は来ないだろうと期待。
本日、整体の日。

「虐げられた人々」第二部第十一章を読む。これで第二部が終わる。少女エレーナの母の人生がナターシャに重なる。

遠藤周作・芸術新潮編集部編「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(新潮社・とんぼの本)を読む。信仰とは何だろうか、と思うことしばし。
 
 
2012年2月24日。金曜日。晴れ。
「城」はまだ新しい章には入らない。「アマーリアの罰」
この村には、こうした話で自分の心を養っているような人びとがいて、あなたがた二人がここに坐っているようにいっしょに坐り、うわさ話でおたがいにおごり合っているんです。
「阿Q正伝」は 第七章 革命。たいしておもしろくもないのだが・・
中里介山「大菩薩峠2 鈴鹿山の巻」を読み始める。一を読む。
今日も暖かい。春だ。
 
2012年2月25日。土曜日。雨後曇り。
春の陽気です。因島へ行ってきました。早春の瀬戸内は、霧に曇っていました。

「城」は 「嘆願廻り」の章。なんでここまで無意味な行為を大袈裟に書かなければいけないのか、と考えてしまう。そうだ、これは寓話なんだ。巨大な官僚制を中世でもなく、現代でもなく、要するにどの時代でもない時の、へんてこりんな「城」という権力にまつわる、寓話なのだ。そして、その権力というのも、見かけ上のもので実質には無いに等しいものなのだろう。

「虐げられた人々」は第三部に入る。第一章では、ナターシャの部屋で公爵とナターシャとの対決で、新しい状況が展開する。ナターシャはアリューシャに愛想を尽かしたのか、新たな態度で臨む。しかし、取り乱したりしないところがこの小説の神髄であろう。
「阿Q正伝」の第八章 革命を許さず と第九章 大団円を読んで、終わる。果たして現在、この小説を読む人がいるのか、と疑問に思わないわけにいかない。これは魯迅の傑作とされていたものではなかったか。残念ながら私にはそうは読めなかった。これは古い訳で改造社の全集が底本になっているようだ。もう何年か前のことだが、古書店で岩波の新書版の魯迅全集が一冊百円で出ていた。買おうかなと一瞬思ったが買わずに帰った。帰ってから、やはり買うべきだったと思い、翌日行ってみたら、なくなっていた。しばらくの間、やはりあれは買っておくべきだったと思った。

「大菩薩峠2」 鈴鹿山の巻 二、三を読む。
 
2012年2月26日。日曜日。曇り時々晴。
朝から曇り。9時過ぎから、少し日は照る。

「城」「オルガの計画」を読んだ。これでやっと十五章が終わったということか。変な構成である。少し後戻りして、Kに手紙を渡さなかった事情などの言い訳がここにきて開陳される。Kと「城」との関係は個人対国家という得体の知れないものとの関係の寓意だろうか。国家の実体がわからないように「城」というものも、最後までわからないのではないか。それでいいのかも知れない、と思っている。

「大菩薩峠2」「鈴鹿山の巻」は四~八を読む。先日、筑摩文庫の一巻が終わったと書いたが、そうではないようだ。筑摩文庫は、原作の数巻を一冊にまとめてあるので、まだまだ一冊目は終わらない。

「レ・ミゼラブル」第一部 ファンティーヌ  第五編 下降  
     九 ヴィクチュルニヤン夫人の成功
     十 成功の続き
を読む。まさにミゼラブルである。悪人が跋扈し弱者が痛い目に遭うのは「大菩薩峠」と同様である。

「虐げられた人々」第三部第二章。アリョーシャの登場で、ぺらぺらと軽薄な事を喋る。父公爵が嘲笑する。そして、ナターシャの出番。意外や意外。父公爵への決別。そしてアリョーシャへの弁護。いや、おそらく返す刀でアリョーシャへの決別ではないか、(いやまだ早すぎるか?)と思われるが、それは次章以下での話。

リヒャルト・ワグナー著、高橋康也・高橋宣也訳「神々の黄昏」(新書館)を読む。これで四部作を終わるのだが、少し単純過ぎるのではないか、と思う。いやいや、これは舞台台本なのだ。この程度でよいのだ、と自分を納得させる。
息子は昼ご飯を食べて、東京へ戻っていった。仕方がないね・・。
 
 
2012年2月27日。月曜日。晴れ。
せっかく春めいていたのに、また寒くなった。こういうふうに行きつ戻りつしながら、日本の四季はめぐっていく。

「城」第十六章。話が戻る。しかし,突然今まで出てきたいた助手の名前が明らかになり,意見を持つキャラクターとして動き出す。イェレミーアスといい,今度はフリーダを巡るKの恋敵という役割まである。変な小説だ。

「虐げられた人々」第三部第三章。ナターシャの怒りの爆発。そしてその標的があろうことか、アリューシャに向かわず父公爵なのである。アリョーシャにけしかけて、ナターシャとの結婚を益々妨害しようとしていると激しく追求する。これは一見奇妙なことだ。悪いのはアリョーシャである。公爵が立腹するのにも無理はない・・・ということになろうか。だが、だが、よく考えてみるとアリョーシャを失わないための見事な作戦ともとれる。果たしてナターシャとアリョーシャは結婚できるのだろうか?

「大菩薩峠2」「鈴鹿山の巻」は九を読む。
 
2012年2月28日。火曜日。晴れ。
朝とても寒い。寒波+放射冷却。夜から雨か雪などと昨日の天気予報では言っていた。一日中寒い日だった。ガソリンが値上がりしている。
「城」第十七章。クラムの事情聴取を受けることになった。これで城の正体が少し明らかにされそうではあるが,期待するほうが無理というものだろう。
 
「大菩薩峠2 鈴鹿山の巻」十,十一を読む。
         十  竜之助はついにお浜を殺してしまいました。
「レ・ミゼラブル」「第一部 ファンティーヌ  第五編 下降」の十一,十二,十三を読む。  
     十一 キリストわれらを救いたもう
 このファンティーヌの物語はそもそも何を意味するか? それは社会が一人の女奴隷を買い入れたということである。
 そしてだれから? 悲惨からである。
 飢渇と寒気と孤独と放棄と困苦とからである。悲しき取り引き、一片のパンと一つの魂との交換、悲惨は売り物に出し、社会は買う。
     十二 バマタボア氏の遊惰 
     十三 市内警察の若干問題の解決 
マドレーヌがあらわれ,ファンティーヌの事情を理解する。マドレーヌを恨んでいたファンティーヌは,それが誤解だったと悟る。
以上で第五編が終わる。
 
「虐げられた人々」第三部第四章。ナターシャに遠慮するアリョーシャ。とはいえ結局父公爵をなぐさめるとか言って出て行く。アリョーシャについてはその性格を見抜いていながら、別れようとしないナターシャはよくわからない。そこにこの作品の本質があるのかもしれない。
 
2012年2月29日。水曜日。晴れ。
「城」第十八章。ますますわからなくなる。意味の通じない長い章。不条理なのだといわんばかり。
「虐げられた人々」 第三部第五章。主人公はナターシャのところにも、旧友のところにも、養父母の所にも行く、そしてエリーの待つ自分のところにも。静かな章。
一月に続いて寒い二月であった。その二月も今日で終わる。明日から弥生三月。日に日に春めいてくるだろう。春を待ちたい。
 
 
 
 
今年5冊目。
湊かなえ著「境遇」(双葉社)。
今年6冊目。
リヒャルト・ワーグナー著、高橋康也・高橋宣也訳「ジークフリート」(新書館)。
今年7冊目。
白川義員「聖書の世界」(新潮社・とんぼの本)。
今年8冊目。
小塩節「心の旅 祈りの旅」(青蛾書房)。
今年9冊目。
湊かなえ著「花の鎖」(文藝春秋社)。
今年10冊目。
ワグナー作、アーサー・ラッカム絵、寺山修司訳「ラインの黄金」(新書館)。
今年11冊目。
渋澤幸子、池澤夏樹著「イスタンブール歴史散歩」(新潮社・とんぼの本)。
今年12冊目。
鎌田茂雄「現代人の仏教」(講談社学術文庫)。
今年13冊目。
小塩節「愛の詩人・ゲーテ」(日本放送出版協会)。
今年14冊目。
夏目漱石著「道草」(青空文庫/岩波文庫)。
今年15冊目。
ワーグナー作、高橋康也、高橋迪訳「ワルキューレ」(新書館)。
今年16冊目。
遠藤周作・芸術新潮編集部編「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(新潮社・とんぼの本)。
今年17目。
ワグナー作、高橋康也・高橋宣也訳「神々の黄昏」(新書館)。