唐樋の内側(西側)に水郷地帯がある。と、書けばオーバーであろうか。飛ぶ翡翠の別名のあるカワセミが目の前を飛んで行った。慌ててシャッターを押したが、掲載できるものは撮れなかった。かつて野ウサギの時(場所は非公表)もそうだった。野生動物を写すのは難しい。
さて、干拓地の防潮堤の内側には池があり、樋門やポンプによって排水されている。通常の河川と違い、こちらの方が海水面より低いせいだ。それで、潮が引いて、こちらより低くなったとき、樋門を開けて水を流した。水路を海面より高くすれば
よいのだがが、干拓地ではなかなかそうはいかない。
このような池を潮回し(潮廻し)という。重井町ではタンポという。湯たんぽのタンポである。他の地域で潮待ちと呼ぶ人がいた。意味はわかるが、鞆や牛窓などの潮待ち港での海水の流れの方向が変わるの待つことを潮待ちというから、紛らわしい。おそらく潮待ち池の意だろう。そんな具合であるから、紛らわしい。かつて遊水池と私自身も書いたことがあったが、遊水池、遊水地には別な意味があるので、このような場所を呼ぶのは適切ではないようだ。ただ、場所によっては遊水池的役割を果たしているものもあるようだ。
潮回しの役的は、低地ゆえに集まる水を溜めておく他、灌漑用水、塩害の防止などがある。しかし、近年その役目を終え、埋められたり狭められたものも多い。そして、そこが干拓地であったことすら、わかりにくくなっているところもある。だから、潮回しや樋門のあるところは貴重な干拓遺跡であり、産業遺跡である。そしてそこに行けば、先人たちが海に挑み、陸地を広げた苦労が偲ばれる。また、それを維持するのに膨大な費用を費やしたことも想像される。
文政2年(一八一九)というから二百年前であるが、中庄村絵図には、既にここまで干拓が進んでいたことが示されている。そして唐樋の隣にはお社も描かれている。現在の唐樋明神社である。(写真・文 柏原林造)