- 沼隈町パラグアイ移住史研究(5) -
1.はじめに
沼隈町からパラグアイへ移住するということは、どういうことか。まず航空機の発達した現在と異なる昭和31年に、まさに地球の反対側にあるパラグアイへ行くということからその大変さが想像される。そこで沼隈町出発から移住地到着までの旅程を第一陣の記録から抜粋した。
2.壮行式と沼隈町出発
第一陣の壮行式と出発については,「沼隈町広報」1),『広島県移住史通史編』2),『広島県移住史資料編』3)に掲載されているので,明らかである。すなわち,昭和31年10月7日,沼隈町中山南の光照寺の金明会館で午前10時からおこなわれた。12時頃貸し切りバス二台で千年の岩船桟橋へ移動した。福山市立鷹取中学校のブラスバンド部による蛍の光の演奏が行われた。そこで神原汽船のあき丸に乗船,午後1時半、神戸に向かって出航。なお,このルートは第一陣だけのもので,以降はバスで福山駅に向かい,汽車で神戸へ行ったものと思われる。あき丸は『移民』4)グラビアにその写真を見ることができる。途中で他の船と接触する事故があり到着が遅れた5)。
翌8日午前2時20分神戸港に着き車(ハイヤー)で移住斡旋所へ入所した5)。
また、当日の光景として朝日グラフに写真が掲載された6)。
3.神戸移住斡旋所
神戸市中央区山本通の神戸移住斡旋所は1928年 国立移民収容所として設置され1932年神戸移住教養所と改称の後、1941年閉所。1952年 神戸移住斡旋所として再開されていた。その後、1964年にさらに神戸移住センターと改称され1971年の閉所まで外務省の管轄であった。現在建物は 財団法人日伯協会が管理・運営する「海外移住と文化の交流センター」などとして公開されている。なお、石川達三の『蒼氓』は本所が舞台である。
神戸移住斡旋所での研修日程は『広島県移住史通史編』に掲載されている7)。
10月15日。トラック、ハイヤーでメリケン波止場へ。横浜港を出発したチチャレンガ号に乗る。1時間前くらいから港へ。6時10分出航。
移住斡旋所からメリケン波止場までは、南へ下る坂道である。移民坂と呼ばれ、かつては外国へ持っていくのに必要な物品を売る店が多かったが、現在はその面影はない。途中、山陽本線のガードを抜け、中華街入り口を過ぎればほどなくメリケン波止場である。
ハイヤー、トラック等が手配されたのは神原町長の指示によるものである。
4.神戸港出航後
第一陣がチチャレンガ号で神戸港を出航したのは,昭和31年10月15日。午後6時10分のことである。このときは,神原町長も見送った。その後の旅程は次のようになる。
10月18日。沖縄に寄港。移住者90名が乗船。広島県人会会長の辰野氏から泡盛等贈られる8)。
沖縄出航後,香港,シンガポール,ターバン(アフリカ),ケープタウン,リオデジャネイロ,サントスに寄港後、ブエノスイレスに到着9)。
5.ブエノスアイレス上陸後9)
12月23日。ブエノスアイレスル(アルゼンチン)沖,投錨。通過の手続きと検眼。
24日。岸壁に着く。広島県人,新聞関係者などと会う。クリスマス。
25日。在任県人の好意で市内日本人会館で,アルゼンチン国拓殖組合長片山氏出席のもと歓迎会。
26日。午前7時から,税関で家族別の荷物の検査。午後2時半下船。
バス,トラックに荷物を積み込み,河船の乗船場へ向かう。
県人の見送りを受けて出航。
アルゼンチン国拓殖組合副幹事鈴木氏の案内でエンカルナションまで連れて行ってもらう。
「河船は七百トン位のものでとても汚く内地の船とは比較にならない。ただ黙って寝るだけ。食事は自費で,パン,ハム,果物など一人当たり百円だが,二日目は暑いし,パンはフのようでただ水を飲むばかりであった。」
27日。午後2時ウルグアイとの境にあるコレクションに着く。
岸壁がホーム。待っている汽車にすぐに乗り込む。
外気42℃くらい。空気が乾燥しているので内部は涼しい。
28日。熱気のなかを北上。左右に草原が続々と続く。
午後4時。エルカルナシオンの対岸ポサーダスに到着。移住振興会社職員の出迎えを受ける。手続きを受け,「汽車と共に渡船でアルトパラナ河を渡河,エルカルナシオンに入り,そうして,街はずれの駅に入構,車中で寝をとる」。予定のトラックが来ていない。
なお、「パ国のパククワ渡船場に,日パ拓殖の石橋亘治氏に」迎えられた10)。
6.フラム移住地到着後9)
29日。10時全員荷物とともにトラックに乗り,40キロの地点アペリアに到着。仮宿舎に入る。まずまず大きな建物。雑魚寝。土地はレンガ色。赤塵激しい。
30日。午後入植の現場を見聞す。
31日。入植の手続き。暑くランニングシャツでごろごろしている。
7.第二陣の到着11)
昭和32年1月1日。第二陣が明日2日,エンカルナシオン到着との報。森,小林,河野迎えに行く。
2日。第二陣全員無事にエンカルナシオンに到着、合流。
二陣は3里離れたところに入植。
アペリアからノベリアへ移動。ノベリアではテント生活。まず家を建てる。製材機をもっていっている。
若い男たちが選ばれてジャングルに入って木を切る。
8.おわりに
沼隈移住団第一陣の旅程についておよそのことがわかった。現在と異なる通信事情、交通事情の下で多くの齟齬、トラブルがあった。そのことは本稿で抜粋した簡単な記録からも推定できる。不安と後悔につきまとわれる日々の連続であったに違いない。しかし、後には引き返せない、という事情もまたあったことだろう。
参考文献
1)「沼隈町広報」 S.31.11.15. 縮刷版、p.59
2) 広島県編集発行、『広島県移住史 通史編』、1993年、p.597
3)広島県、『広島県移住史 資料編』、第一法規、1991年、p.863、p.869
4)中国新聞「移民」取材班、『移民』、中国新聞社、1992年
5) 清水凡平、『路傍の詩』第268回、毎日新聞1997.9.18.
http://www.masnet.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta.html
6) 朝日グラフ、朝日新聞社、1656年10月
7)前掲書2)、『広島県移住史 通史編』、p.599
8) 前掲書1)、「沼隈町広報」S.32.1.5. 縮刷版、p.61
9) 前掲書1)、「沼隈町広報」S.32.2.15. 縮刷版、p.63
10)フラム移住地30年誌編集委員会、『パラグアイ国フラム移住史“30年の歩み”』、フラム移住地30年誌刊行委員会、1986年、p.48
11) 前掲書1)、「沼隈町広報」S.32.2.15. 縮刷版、p.64