年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代
年代記7 昭和時代〜
縄文人
10000年前から住む。
渡来人
紀元前3世紀ごろやってくる。 E.トッド『世界像革命」(藤原書店)p.164 速水融
古事記の世界
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代
年代記7 昭和時代〜
縄文人
10000年前から住む。
渡来人
紀元前3世紀ごろやってくる。 E.トッド『世界像革命」(藤原書店)p.164 速水融
古事記の世界
神話となっているが、ここには、朝鮮半島や、中国から色々な民族が渡って来ていたのではないかと思う。そして、それぞれの、民族の伝承が色濃く古事記に反映している。最初の、黄泉の国というのは、祖国である朝鮮半島の事ではないか。一族が別れ別れになって渡来してくる。中には大陸や、半島に残してきたもののことが忘れられずに帰ったものもあったかもしれない。しかし、そこは、もはや異国なのだ。
子どもを生む時見てはならない,と言われ,見ると鰐になっていたという話がある。これも異民族の習慣の違いを言っているに違いない。
風土記の世界
出雲がイツモからきておりその枕言葉の「やつめさす」が朝鮮のヤトメから来ているというおもしろい説が松本清張「古代史私注」(講談社文庫)204頁にあり。
耶馬台国
九州にあったに違いない。
西暦紀元前後
「それ楽浪海中に倭人あり 分かたれて百余国となり 歳時をもって来たり 献じまみゆ」「前漢書」
057年
「建武中元(西暦57年)倭奴国 貢を奉じて朝貢す 使人自ら大夫と称す 倭国の極南界なり 光武賜うに印綬を以てす」「後漢書」
1784年に金印の発見された志賀島。
238年魏、公孫氏を倒して楽浪、帯方を収める。
238年(魏の景初2年)6月 これは3年 倭の女王(ヒミコ)、大夫ナシメたちを帯方郡に送り、さらに魏の皇帝のもとに送り朝献することを求めた。帯方郡大守劉夏は役人を出していっしょに落陽にまで連れて行った。 12月(238年) 「親魏倭王」の称号をさずけられた。その後、10年にわたって魏と倭国の間に使者の行き来があった。
240年(正始元年)
テイシュン倭国へ(魏の皇帝からの詔書と印綬を)
247年(正始8年)
ヒミコと狗奴国の男王ヒミクコの不破を魏王に訴える。
このときヒミコは女王に共立されて以来60年くらいたっていた。
247~248ヒミコ死
難升米(ナシメ)は伊那国の実力者では?(清張)
女王国連合体の最南、いちばん奥のヒムカ。ヤマタイ村のヒムカの巫女がヒムカ。一種の聖地。
連合体の政治的・外交的「王都」は伊那国。
帯方郡の郡使の常に駐まるところが伊都国司2世紀後半
帯方郡から七千余里で狗那韓国
狗那韓国から千余里で対馬国
対馬国から千余里で一支国(壱岐)
一支国から千余里で末ラ国(佐賀県松浦郡)末ラ国から東南へ五百里で伊都国(福岡県糸島郡)
伊都国から東南へ百里で奴国(福岡県那珂郡)
奴国から東行百里で不弥国(ふみ)
「官を多模(たま)と曰い、副を卑奴母離(ひなもり)と曰う。千余家あり。」
不弥国から南水行20日で投馬国(つま)
「官を弥弥(みみ)と曰い、副を弥弥那利(みみなり)と曰う。五万余戸とすべし。
投馬国から南水行十日陸行1月で耶馬台国
女王の都する所。官に伊支馬(いしま)あり、次を弥馬升(みます)と曰い、次を弥馬獲支(みまかし)と曰い、次を奴佳韃(ぬかて)と曰う。七千余戸とすべし。
北側の筑前、筑後は
装飾古墳が、船、鳥、人物、馬と具象的
こちらが女王国
肥筑山脈の南の肥後平野
装飾古墳は横穴の内外に彫刻を施している。同心円、直弧文などの幾何学的
こちらが狗奴国
官名の「くこちひく」……菊池彦
風俗は海南島のものであって日本のものではない。(林屋辰三郎「日本史探訪別巻古代史Ⅱ」97頁角川書店)
◎ポストヒミコ
247年ヒミコ死後 男王をたてるも治まらず。
トヨを王として安定す。魏に男女の生口30人、白玉五千孔献上。
林屋辰三郎はヒミコは、葛城王朝の孝元天皇の娘のヤマトトトヒモモソヒメで、その弟が開化天皇。開化天皇の在位が60年(書記)とあうという。 (同上日本史探訪103頁) 北九州は魏と交渉するときの経路だから、そこに「一大率」をおいて北九州を間接統治した。104頁
ヒミコが死に開化天皇は逃げる途中死ぬ。三輪王朝の崇神が王権をとる。106頁
崇神天皇の娘トヨスキイリヒメがトヨ。
三輪王朝ではヒミコの権威を継ぐために三輪の神大物主の妻にし、箸墓まで作り、伝承を伝えた。109頁
この三輪王朝の崇神天皇に対して開化天皇の異母弟 武埴安彦(たけはにやすひこ)が反乱を起こした。
この葛城王朝の亡命政府(南山城)はのちの近江王朝と関係をもつ。
次の垂仁天皇のときのサホヒコの乱もやはり葛城系の反乱。
◎ポスト耶馬台国
266年 倭の女王、使者を西晋に使わし、貢物を献じる。「晋書」
◎吉野ケ里
「住居跡を囲む、鋭いV字形の環濠にも段階的に拡大していった形跡」「外濠で仕切られた二十五~三十ヘクタールの地域には数百戸にも達する村落」「楼観(ものみやぐら)と城柵跡の土塁の」「絹で織りあげた布片」「美しい青色の管玉が長短あわせて七十五個、これが上質の鉛・バリウムガラス。産地は中国の長沙、細工は朝鮮半島。澄みきった明るい空色はガラスの素地に酸化銅を加えて発色」「族長の墳丘墓の副葬品として発見された十字型……刀剣」(「銅の文化史」154)「
「3世紀の終わりごろには南朝鮮からきた葛城、平群、和珥(わに)、巨勢の祖といった大部族が、盆地の場所割りを完成していて、そのあとの4世紀の半ばから後期にかけて弁韓から夫余族系の大王・物部・大伴の祖がはいって盆地の東側に割り込む。それよりおくれて河内の石川沿岸にきていた蘇我氏があとからあとからくる南朝鮮の移住民団お収容して実力をつけ、飛鳥地方に入ったと思われる」(松本清張「清張通史4」84頁)
(初期大和王朝)……崇神王朝 (第1次
350年頃
初期大和政権。別名崇神王朝、三輪王朝など。纏向(まきむ)氏とでも呼ぶべき。
崇神天皇……初代ではないか。
大和盆地東辺南より、三輪山の山麓地帯、のちの磯城(しき)郡。これが天皇家の本拠地。
葛城氏(西南部)、平群(へぐり)氏(西北部)、春日氏(東北部)、和 (わに)氏(東北)などの有力豪族を統合し連合政権を樹立。
(直木孝次郎「日本神話と古代国家」(講談社学術文庫)24頁)
これは長くない。
ヒコフツオシノマコトは葛城系の始祖である。
崇神は紀伊、尾張を勢力に入れ、開化は近江(和迩)、丹波を支配権に入れた。(「書記」の皇后)林屋、142
林屋辰三郎はヒミコは、葛城王朝の孝元天皇の娘のヤマトトトヒモモソヒメで、その弟が開化天皇。開化天皇の在位が60年(書記)とあうという。 (同上日本史探訪103頁) 北九州は魏と交渉するときの経路だから、そこに「一大率」をおいて北九州を間接統治した。104頁
ヒミコが死に開化天皇は逃げる途中死ぬ。三輪王朝の崇神が王権をとる。106頁
崇神天皇の娘トヨスキイリヒメがトヨ。
三輪王朝ではヒミコの権威を継ぐために三輪の神大物主の妻にし、箸墓まで作り、伝承を伝えた。109頁
この三輪王朝の崇神天皇に対して開化天皇の異母弟 武埴安彦(たけはにやすひこ)が反乱を起こした。
この葛城王朝の亡命政府(南山城)はのちの近江王朝と関係をもつ。
次の垂仁天皇のときのサホヒコの乱もやはり葛城系の反乱。
合戦をして負けた側を娘を差し出す。
政争の拡大したような形で、長期にわたる内乱とはちがう。
開化天皇の子、日子座王(ひこいます)は近江の国に勢力をはる。「古事記」より。これは近江王朝ではないか。(林屋127)葛城の発展。 景行、成務、仲哀、神功皇后
日子座王は息長氏、和迩氏を支配する。(その娘と結婚する) 「古事記」
息長氏は琵琶湖の東岸、和迩氏は西岸でともに日本海ルート・裏日本の渡来人。137頁。航海術、製鉄。
和迩16氏
「銅鐸二十四個を出土した小篠原(野洲町)はかつてアメノヒボコが朝鮮半島・新羅からこのあたりまで足をのばしてブロンズ技術を伝搬したという古伝」「アメノヒボコはツヌガノアラシトとも重なるイメージを持つ、謎の人物もしくは集団である」(「銅の文化史」(158)
景行天皇(オシロワケという首長がいたのでは)
景行は近江朝出、まず美濃の支配。「書記」景行3年。紀伊は不可。三輪側だから。
美濃姉妹説話はその娘たちが崇神と尾張の子というのも、ここでまた崇神の系統を伝えようとする。
ヤマトタケル伝説はこのとき日本統一が近江王朝でなされた。
成務で完成。成務、仲哀も大津に都す。
大和が後進地に。鉄がない。鉄があるのは近江と吉備。
近江王朝は鉄と水軍と農業生産。
近江坂田郡朝妻「なべかま祭り」
朝妻は港。
「朝妻の手人」(技術者の根拠地)
「坂田の金時」まさかりかついだ金太郎
林屋154頁
朝妻は葛城の名。(御所市の字)葛城王朝が南山城へ逃げたとき引きつれて行った。 息長はもぐるときの息が長い(海人)、ふいごで長く息をするの二説あり。
神功皇后の三韓征伐。近江王朝のどこかで朝鮮半島に攻めたことはあったかも。
ここで近江王朝は滅びるのでは。
4世紀末から5世紀はじめに大阪平野の有力豪族が支配したのでは。
4世紀末の応神天皇以降大阪方面に都をおくから、これは別の豪族ではないか。 第2次大和王朝……応神王朝
古代奴隷制社会の最盛期。(大きな古墳)こういうのは一朝にしてならず。
「仁徳から仁賢にいたる9人の天皇のほとんどが葛城氏の女を妃としている。」(松本)
(第2次大和政権)
15代応神は難波の大隅(おおすみ)宮
神武東征伝説の根拠となるのではないか。
382年
ソツヒコが新羅に派遣される。
(応神が実在の最初の天皇)
「四~五世紀には、まだ古代的統一やその中枢権力は形成されていないかった。四~五世紀の日本列島には、いくつかの地域国家が併立していたのであって、ツクシ、キビ、イヅモ、タンバ、ミノ、ケヌなどがそれであってヤマト地域国家もそのひとつであった」(門脇禎二「葛城と古代国家」87ページ) 「ヤマト国家は、神事・祭祀上の機能を果たす女王と外交・軍事上の機能を果たす男王との、聖俗二重王権の権力形態……女王位は世襲的傾向が強いが、男王は同一血統で継承される場合、有力首長層の意志で異なる血統に移行する場合が矛盾なく併存していたらしい。」山尾幸久「日本古代王権形成史論7章」(門脇禎二「葛城と古代国家」88ページより)
16代仁徳天皇は難波の高津(たかつ)宮
18代反正(はんぜい)天皇は丹比(たじひ)の柴籬(しばがき)宮(大阪府羽曳野市)(陵も河内泉方面にある)
これらは大量の鉄製武器
19代允恭天皇
20代安康天皇(允恭の子)
21雄略天皇(允恭の子)
5世紀後半。
東北と九州南端以外は支配下といわれるが、そうでない。
吉備氏がたびたび反抗。(良質の鉄の産地をもつ)
「葛城の伝統的首長は吉備の上道臣の首長と結んできていたから、前者の滅亡がひいては吉備の上道臣の首長の命運をも変えることになった。」(門脇禎二「葛城と古代国家」114)
さらに門脇は「大王家(三輪王朝)を中心に、領域内諸地域の首長層の結合した体制で、葛城氏もその首長層の一つであった、と理解する」(門脇「葛城と古代国家」136) しかし、この雄略が葛城を相当やっつけ、その後、葛城系の天皇が誕生するというのがよくわからない。ようするに最高権力者の地位を取ったり取られたりということか。
伊勢、播磨などでも反乱。
このころ斎蔵、内蔵に大蔵をつけ加えて三蔵とした。
斎蔵……祭祀の費用とするための財物
内蔵……大王家の費用としての財物
大蔵……朝廷費運用。
雄略が死ぬとその妃の吉備わか媛は子の星川皇子に謀反をすすめ「天下の位に昇ろうとすればまず大蔵をとれ」
5世紀末 顕宗(けんぞう)天皇。仁賢天皇は播磨から身を起こして即位。
このように地方、中央の豪族の力が強くなる。
武烈天皇
6世紀初頭。
大伴氏の力を借り平群氏を滅ぼす。
第3次大和王朝……継体王朝
継体天皇
越前地方の豪族。
河内北部で即位。20年後大和に入り、磐余(いわれ)に都す。
(大和の豪族を統一したということか)
物部氏、安閑・宣化天皇を排斥。
欽明天皇
物部を押しのけて蘇我稲目が擁立。
安閑・宣化・欽明朝の下で物部・大伴は大連。
「天皇家の祖先は夫余族系だから血縁共同体となる。」(松本)
蘇我本宗家……(蘇我石川)ー満智ー韓子ー高麗ー稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿
満智は百済の豪族、木満致(もくまんち)と関係がある。(書記・応神25年)0
宣化天皇
蘇我稲目、大臣となり活躍する。「清張通史」4の80頁)
「中央豪族のうち最後に残ったのが大王家と物部氏と蘇我氏の三つである。」
552年(欽明13年)
百済の聖明王が使者をよこして釈迦仏金銅像を経論を天皇にたてまつった。
大臣蘇我稲目は礼拝を主張。
大連物部尾興は反対。
その後仏像排斥うんどうに中臣鎌子らもくわった。
蘇我の馬子、軍隊をさしむけて物部守屋を攻め、物部氏滅ぶ。
物部とならぶ大伴は、金村の対百済軟弱外交で失脚していた。蘇我の天下となった。
宗教争いというのは書記の作り事で、本当は部族争い。ふるい部族と新しい部族。
574
聖徳太子574-622(推古30)
用明天皇の第2皇子。母は穴太部間人王。名は厩戸豊聡耳皇子。上宮王とも。おばにあたる推古天皇の摂政。
厩戸豊聡耳皇子は用明天皇がまだ皇子の頃に穴太部(あなほべ)の間人王の娘に生ませた子供である。
母親はたいそう信心深い人であった。母親がまだ懐妊していない頃夢を見た。夢にあらわれた僧は金色の僧服を纏って輝いていた。その僧が言うには、「わたしは世を救うために生きている。ついては、あなたのお腹に宿るからよろしく頼む」と言うことだった。「かくおっしゃるあたなはどなたです」と母親が訊ねると、金色の僧服に輝く僧は「わたしは救世観音です」と言った。
聖徳太子がお生れになる前のことである。聖徳太子の母は穴太部間人王と言って、信心深い人で、仏教を懇ろに敬っていた。その母のある夜の夢に現われた僧は不思議な服を身に纏うていた。僧の背後からまばゆいばかりに朝日が当たり、逆光になって僧の顔ははっきりとはわからない。しかし、その衣服だけは不思議とよく見えた。日の光を反射する境目だけではなく、こちらの面も黄金色に輝いていた。
年代記
618唐起こる。
● 聖徳大子
母の間人皇后(まひとこうごう)は大浜の里に隠棲した。この地は今は丹後町間人(たいざ)と言われる。母子像碑がある。
622聖徳太子死す。
693
吉備真備693~775(持統7~宝亀6)右大臣、従二位。
吉備地方の豪族の出身。
717(養老1)留学生として入唐。
735年(天平7)帰朝。
儒学、天文、兵学など各種の学芸に通じ、玄ぼうとともに橘諸兄の下で活躍。藤原仲麻呂政権下で一時左遷され、再度入唐。帰朝後太宰大弐となり「いと城」を築く。た
仲麻呂没後従二位右大臣になった。著書「私教類じゅう」
629年 34代舒明天皇即位。六百四十一年10月崩御。
岡本の宮
蘇我蝦夷が推戴した。山背大兄(やましろのおおえの)王をを凌いで即位した。
万葉集2にあり。「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ちれ
これは香具山に登って国見をしたときの歌だという。
642年皇極元年
皇極(こうぎょく)天皇は敏達(びたつ)天皇の曽孫にあたる。父は茅渟王(ちぬのおおきみ)であり、母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ)である。
皇極は舒明天皇の皇后であった。皇后になったのは舒明二年のことである。舒明天皇は十三年の十月にお亡くなりになった。翌年一月十五日に皇極天皇は即位した。この年が皇極元年である。
皇極天皇は先の天皇が重くもちいていた蘇我臣蝦夷(そがのおみえみし)を引き続いて大臣とした。国政の大半は大臣の子の蘇我鞍作(くらつくり)ー後の入鹿(いるか)がとき、その頃では父の蝦夷よりも、何かにつけ勝っていた。
この頃の刑罰は非常に厳しく、道に落ちているものを、盗賊でも取らなかったと言われていた。
一月二十九日。大仁阿曇連比羅夫(だいにんあずみのむらじひらふ)が筑紫の国から早馬で帰ってきた。比羅夫は百済(くだら)に派遣されていた男である。
「百済国は天皇御崩御を聞き、弔使を派遣してきました。私は筑紫まで一緒に帰り、葬儀に間に合うように急遽早馬で帰ってきました。なお、百済国は現在大乱になっています」 比羅夫は馬からおりると、即、直属の上司に伝えた。
朝廷では、比羅夫の報告を検討した結果、二月二日に阿曇山背連比羅夫(あずみのやましろのむらじひらふ)ら三人のを百済の事情を詳しく聞くために、筑紫に派遣した。
また二月の六日には高麗からも人がやってきて、難波の津に上陸した。
このように、ヤマトでは新しい天皇が即位して、慌ただしい日々を送っているのに、大陸の政変は日々刻々と変わり、その様がヤマトにも届いた。そんなとき、奇妙なことが起こったという。
三月三日のことだ。よく晴れて、空には雲がないのに、ぱらぱらと雨が降ってきた。人々はただ、空を仰いで、その透明な水玉が、輝きながら落下してくるのを、訝りながら眺めた。
三月六日には新羅から使いが到着した。先の舒明天皇の崩御を弔い、新天皇の即位を慶賀した。この人たちは十五日に帰途についた。それまで、国賓として、日夜歓迎の宴が催された。連日雨が降っている。
5月 稲が秋のように熟した。
7月
ひでりが続く。
蘇我蝦夷は衆僧を屈請して大雲経を読ましめ……
客星(目に見えない怪星)が月に入った。8月 天皇が南淵の河上に……
10月8日と9日に地震
12月小墾田に移る。
二年(643)年11月、山背大兄皇子ら、蘇我入鹿に攻められ、自殺。
「小豪族は大豪族に依存する。それを中央集権的な組織に編成されやすい。それを蘇我稲目・馬子がした。
大化の改新の官僚組織は蘇我氏が準備し、孝徳・天智が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼして横取りをした」(松本清張「古代史私注」118頁)
このころの政治課題は大陸の勢力との関係もあって、部族国家から中央集権国家へと変わる必要があった。
舒明天皇の子である中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足は政治改革を断行しようとした。そのブレーンは遣唐使の帰朝者の南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、高向玄理(たかむこうのくろまろ)である。
南淵請安のもとに集まりクーデターの計画を立てたのはいつのことであろうか。
クーデターは645年(皇極天皇4年)6月に計画どおり実施された。 三韓朝貢の日。大極殿で蘇我入鹿を殺し、 蘇我蝦夷(えみし)の家を襲って
中大兄皇子の勲であった。
斉明天皇は蘇我入鹿を寵幸す。
645年(皇極4年)大化の改新
隋・唐の制度にならい天皇独裁の律令国家にしようとしたが、まだ緒部族の豪族らの連合体が残っていた。大部族連合国家のようなもの。
「大化の改新は帰化人集団の推進によって蘇我氏がこれをおこなったといえる」(松本)
中兄大皇子と鎌子が飛鳥寺の槻の木の下で打毬の集まりを機会に接近する。
6月12日 大極殿の皇極天皇の目の前で入鹿を謀殺。
この日のことは「清張通史4」113頁に詳しい。る
入鹿は天皇に「身におぼえのないことを。これは、いったいどういことですか」と叫ぶ。天皇も驚き中兄大に聞く。る
「鞍作が皇統をほろぼして天皇の位をねらっているのです。尊い天孫を鞍作づれにどうしてとってかえることができましょうか」とこたえる。
653年
中兄大、孝徳の反対を押し切って難波から飛鳥へ遷都。
654年(白雉5年)
孝徳天皇、有馬皇子を残して憂悶のうちに生涯を閉じた。
655年
重祚して斉明天皇
657年蝦夷征伐。
658年
11月有間皇子の変。
蘇我赤兄有間皇子をそそのかし、夜捕らえる。
659年
7月 唐国へ派遣。
660年
3月 唐・新羅、百済を攻める。
7月 百済滅ぶ。
661年1月
斉明天皇が北九州に向けて、遷都ととも等しい規模の船団の大移動を開始したのは661年の正月のことだった。春を間近に控えたヤマトは、ヤマト平野を取り囲む連峰から、春の若木が一斉に芽吹いていた。
斉明天皇は百済を救うため北九州に向け出発。
中兄大、大海女、鎌足
太田皇女と讃良皇女も大海女に従う。
大伯海(おおく)で太田が出産。これが大伯皇女。
1月斉明女帝を擁して北九州をめざして難波を出発。中大兄、大海女もいる。これは遷都にも等しい。
「熱田津に船乗りせむと月待ては潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
3月 娜大津(ナノオホツ)(博多港)につく。
4月鬼室福信の使者、王子をの帰国を願う。
7月斉明女帝朝倉宮で死亡。
662年
5月 豊璋を百済に送る。
663年
8月 白村江の戦いで敗北。
9月25日敗残兵帰着
664年一月までの間にまた都を飛鳥へ返す。
663年大津皇子誕生。那大津(博多付近で誕生か)
近江朝成立前に太田皇女死す。天智は祖父になる(伯父でもあり)。
近江朝では祖父の天智にかわいがられる。
[太田皇女]
ここで太田皇女について書いておこう。大伯皇女と大津皇子姉弟の母親である、太田皇女は、天武と遠智娘の娘である。母の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である。
太田皇女の妹が後の天智の皇后となる鷸野讃良女である。したがって、大津皇子にとっては天武天皇は父方の伯父にあたるし、母方の祖父でもある、という現代からみれば変な関係になる。
天智天皇は大海兄大皇子の時代に、太田皇女を娶り、北九州に向かう船上で、備前の大伯海(おおく)で大伯皇女が生まれ、また北九州で大津皇子が生まれた。しかし、太田皇女は近江朝成立以前に他界した。そのため、後に娶った、太田皇女の妹の鷸野讃良女が皇后ということになり、太田皇女は妃ということになっている。
なお、人気の高い大津皇子の娶った山辺皇女も天智の娘であるか、従妹にあたるわけである。
白村江では完全に敗北した。
倭古京に住む豪族や渡来人は非難した。
これほどの兄の憔悴を見たことはなかった。鎌足にも妙案はなかなか浮かばなかった。外政の失敗は内政で、と思いたいところであったが、、それに変わるだけのことはなかった。下手に騒ぐと、さらに追い打ちをかけられうだけだろう、と鎌足は見ていた。
そのような状況だったから、大海人皇子を皇太子に立てたことは最後の切札にも等しかった。
このときの危機的状況は、自分がいたからこそ切り抜けることができたのだと、大海女は思っていた。
事実そのとおりなのである。
その安定があったからこそ、近江への遷都がスムーズに運んだのだ。
額田王
鏡王の娘、姉が一人いる。王族。鏡王の娘といわれている。
巫女ではない。
大海人皇子との間に十市皇女(とおち)を生む。斉明天皇の即位以前ではないか。
女帝に仕える。
近江朝では天智天皇の後宮。姉も。
十市皇女は天智天皇の皇太子・大友の妃となり、その子が葛野王(カドノ)。
葛野王が生まれてから、天智天皇は大友に譲位する気持ちになる。
大友は大政大臣となる。
したがって、天智の孫・葛野王(カドノ)とい うのは天武にとっても、孫なのである。
斉明天皇の時代、大海女皇子は兄・天智天皇の娘、太田皇女と讃良皇女を妃にする。政治的結託をかたくする政略結婚。、
讃良皇女との間の子が草壁皇子。
太田皇女との子が、大来皇女(おおく)と 大津皇子
草壁皇子は662年・天智1年に生まれ、689年持統3年に亡くなっている。11才の時に壬申の乱に参加。日並知の皇子とも。
万葉集110には石川女郎(いらつめ)に贈った相聞の歌が載ってある。
664年(天智3)
2月 甲子の制
中大兄、大海女を大政大臣(オオマツリゴトノマエツギミ) に相当する地位に置いた。
667年大和から近江へ都を移す。
反対する声もあった。
礎石を利用しない掘立柱の建物。 大陸から来た渡来人がその地での瓦の焼き方を伝えた。の
666年
高句麗から2回も使節来る。
667年 対馬と讃岐と大和に山城を築いた。(唐。新羅の連合軍への防衛)
3月 近江遷都
8月 中兄大、奈良へ。
667年大和から近江へ都を移す。
反対する声もあった。
礎石を利用しない掘立柱の建物。 大陸から来た渡来人がその地での瓦の焼き方を伝えた。の
668年 (天智7)
1月 近江で中兄大即位して天智。
(663年大津皇子誕生。那大津(博多付近で誕生か)
近江朝成立前に太田皇女死す。天智は祖父になる(伯父でもあり)。
近江朝では祖父の天智にかわいがられる。
白村江では完全に敗北した。
倭古京に住む豪族や渡来人は非難した。
事実そのとおりなのである。
その安定があったからこそ、近江への遷都がスムーズに運んだのだ。
額田王
鏡王の娘、姉が一人いる。王族。
巫女ではない。
万葉集に長歌3、短歌9
大海女皇子との間に十市皇女(とおち)を生む。斉明天皇の即位以前ではないか。
「天皇は初め鏡王の女、額田王を召して十市女を生まれた」(書記・天武下)
鏡王……「かつて天智天皇の妃でありその妃を帝が鎌足に賜った」(「隠された十字架」186)
斉明天皇の時代、大海女皇子は兄・天智天皇の娘、太田皇女と讃良皇女を妃にする。政治的結託をかたくする政略結婚。、
668年 (天智7)
1月 近江で天智即位
果断な天智。緻密な鎌足。
天智の猜疑心。
この年、大友皇子20才。(書記は21)、大政大臣を拝す。23立ちて皇太子。。 この年、高句麗滅びる。
鎌足、渡来人のブレーン。在来の地主豪族の不満。
今まで協力してきたのが急に独裁になったことへの豪族層の不満。
《天智の迷い》
大海女は東宮(皇太子)となった。(「書記」天武)
このように、即位とともに皇太子を立てたのは聖徳太子、中兄大皇子、それに大海女だけで古代では異例である。だから史実かどうかあやしい。しかし、事実上はこのような地位にあった。
琵琶湖にのぞむ高殿で酒盛り。大海女皇子、長槍をとって広間の敷き板を刺しつらぬく。天智は怒り、殺そうとしたが鎌足がとりなした。(「大職冠伝」)
大友皇子の母は伊賀出身の采女(ウネメ)。 伊賀の国造・伊賀臣(イガノオミ)
地方では高苦手も天皇一族や畿内の豪族にくらべると低い。
(采女は大化以前の風習。国造(くにのみやつこ)県主(あがたぬし)まが従属のしるしに女性を天皇のもとに差し出す。) 大友の他の兄弟もやはり低い。
大海女の母は斉明天皇ではるかに高い。 さらに天皇に有力な弟がある場合はさきに天皇になるおいうのが当時の慣例。
さらに大海女には有力な皇子がいるので、そちらに皇位がいくと自分のほうにもどっていかない。現在の天皇の地位は自分が作りあげてきたものだけに、それが……
大友の皇子
「魁岸奇偉(カイガンキイ)風範弘深(フウハンコウシン)
眼中に精耀あり、顧盻イヨウ」
「すぐれてたくましく、がどがあり、立派。風采が広大で深遠。ふりかえると目元が美しく輝く)懐風藻
(本文)
(回想)兄天智との仲が急速に悪化したのは、兄が即位してからである。それまでは、中大兄皇子、大海女皇子という二人は、兄弟仲良く新しい時代を築いてきたではないか。あたかも二人三脚のように。もちろん兄、中大兄皇子の人間、行動、どれひとつをとっても、自分よりははるかに勝り、わが一族の中でも栄えある力を備えたお方であった。しかし、この新しい時代を作るという難事が彼一人の手で行なわれたわけではない。鎌足と自分が陰になり日向になりして、支えたからこそ、大化の政変以来の、数々の事業が進捗してきたのではないか。
……しかし、兄が即位たとき、すなわち天智天皇は、もはや、自分の兄の中大兄皇子ではなかった。この国の支配者であるとともに、兄を越えた存在になってしまた。それは兄弟でもなんでもなく、ただ、一人、一族から抜きんでた、神の代理をする人となったのである。
それとともに、兄はまた、凡庸になってしまった。半面では広く未来を見つめていながら、身内のことになると、俄然視野が曇ってしまった。
5月5日蒲生(かまふ)の狩
大海女、鎌足、額田王など
「あかねさす 20」
「むらさきの 21」
669年
10月内大臣鎌足危篤。
藤原鎌足(~669(天智8)
娘二人は大海女の妃。(氷上娘、五百重娘)
天智の妃であった鏡王女を時運の妻にしている。
また別の娘を大友のきさきにもしている。
1、 鎌足死後1年あまりで、鎌足の(兄弟を結びつけていた)膠のようなはたらきがなくなると、にわかに、不穏な空気がただよいだすのは仕方のないことであった。
2、 蘇我臣赤兄らの大官がにわかに台頭。3、近江令の全面施行にマイナス。
また大政官執政部の実現を促す。
670年
1月
近江朝、流言飛語の禁止。
2月 造籍の断行。(庚午年籍)
「いかに中央政府のもとで国・郡の地方官人組織が充実していたかを、われわれに示唆する。」「全国的規模」(北山茂夫「壬申の内乱」15ページ。
671は次の文書
671(天智10年)正月。
太政官執政部の人事発表
新しい陣容
大友皇子……太政大臣(オオマツリゴトノエマエツギミ) 蘇我臣赤兄(アカエ)……左大臣(ヒダリノオオマチギミ)
中臣連金(コガネ)……右大臣
蘇我臣果安(ハタヤス)、巨勢臣人(ヒト)、紀臣大人(ウシ)……御史大夫(オオキモノモウスツカサ)
北山茂夫氏は次の3点をいう。
① 天皇が大海人と熟議のうえで決定したこと。
② 鎌足物故後の空隙を埋める最高人事であること。
③ 古代史上空前の太政大臣は、太政官の首座であって、その地位は臣下大一等という点にあり、それ自体が決して将来の皇諸たるを約束したものでなかった。
北山茂夫「壬申の内乱」15頁
蘇我臣赤兄は有間皇子事件の張本人。大海女に女を入れているが天智とはもっと深い関係である。
中臣連金は鎌足の余光。り
蘇我臣果安は事に処するに激するところあり、行動的。
巨勢臣人は他に追随。
紀臣大人は孤立、慎重派。
左右大臣がそろうのは658(斉明四)以来のことである。
御史大ははじめて。その後、大納言になる
大化時代に大臣を出した安倍臣氏、大伴連氏のごとき大族が締め出され、不満をもつ。
(本文)この人事を見て、足がわなわなと震えた。しかし、大海女の皇子は、すぐに悟った。ここで怒ればどのような運命が待ち受けているかということを。これは恐喝なのだ。気に入らねば、反旗を翻せ!。いつでも相手になってやるぞ、という、兄の、いや今ではかつての兄と思ってはならぬ。兄ではない天智なのだ。天智天皇なのだ。その天皇がこのように言うのだ。
ひたすら恭順の意を示すしかないではないか。太皇弟という称号のままに今までどおりに天皇の次席であると、信じて、いや信じているふりをし続けることが肝要なのだ。
しかし、大海女にとってすべてが不利に働いているのではないと、冷静になってみればわかる。すなわち、この天智の後退ぶりに、すでに天智の衰弱ぶりが表れている。そのことが自分にはよくわかるのである。
大化の政変以来、兄はことあるごとに、自分に言った。「今までのままでは大王とまで言われてきたわが王家も、ここまで豪族方に妥協してしまえば、大王家としての権威はなくなってしまう。そのためには、豪族に勝手にふるまいを許す)機会を与える、左右の大臣を廃止すべきなのだ。そうすることによって、わが大王家をますますこの国の中心に据えることができる。」と。もちろん兄の意見の裏には藤原鎌足の意見もあるが、しかしこういう方針で、ここまでやってきたのである。そしてそれは見事に成果をあらわしてきている。それを、この期に及んで後退するというのはいかがなものであろうか。これは天智の気力の衰え以外の何物でもない。
そしてまた、それには自分を頼りにしないという、あるいは頼りにできないという予想からこのように後退したのであろうか。大友皇子が後継者になっても、自分が支えておけば、このように古い、一度は捨てた制度を復活させつ必要はない。そうはできないと、読んで天智は、復活したのであろう。ということは、すでに離反した自分の立場を読んでいるではないかと思った。
671(天智10)年8月。天智、病床につく。 (中公「日本の歴史」318頁)
9月になってもなおらない。
10月、百仏開眼の供養。法興寺に珍品を奉納。る
671(天智10)年
10月17日。大海女を病床に招く。
大海女皇子に譲位しようとしたが、断る。 内裏の仏殿の南で髭髪をそらせて僧の姿となる。そして邸に帰るとすぐに兵器をことごとく宮司に差し出した。天智は使者を派遣して、大海女に袈裟を贈った。。
19日、大海女天皇に拝かつして吉野宮で修道する許可を求めて認められる。
その日のうちに、讃良、草壁、忍壁を連れて吉野の離宮に引退)。110㌔。を1日半。天皇への猜疑心からか。大海女は40を越えている。
赤兄、金、果安らは宇治(ぅ道)まで見送る。
(本文)
大海女皇子はその日、朝から気分がすぐれなかった。急に朝夕の冷気が増したせいか、体調を崩したらしい。
「お兄さまが、お呼ばれになっております」 蘇我臣安麻呂(そがのおみやすまろ)であった。能吏である。さして口数は多くなく、どちらかというと目立たぬ男である。しかし、そのなすこと、一時の疎漏なく、確実かつ迅速なることは、だれにもひけをとらなかった。そんならところから、兄・天智天皇に信頼されていた。それは大海女の皇子とても同様であった。
「お兄さまのご様子はいかかじゃ」
「はい、今朝はお気分もいささかよろしいようで」
そうか、と言おうとして、大海女皇子は安麻呂の眼をじっと見詰めたまま、何も言わなかった。
水鳥の鳴く声が聞こえるほかは、物音ひとつしない静かな朝だった。
ただ、二人の眼が冷たくぶつかりあった。大海女の澄んだ眼をじっと安麻呂は見つめている。……大海女の皇子の眼に小さな笑みが浮いた。そして間髪を入れず安麻呂の眼にも。「守備は?」
大海女が口を開いた。周囲に誰もいないと、さっきからようすを伺っていた安麻呂は、機敏な動作で大海女に近付くと、耳元で小声を発した。
「お引き受けしてはなりません。お引き受けする意志をお示しになるや、危害が……」
「わかった」
大海女は決心した。安麻呂の言うことに間違いはない、と思った。今までのなりゆきからも、そのことは理解できた。
二人の間が、このような形で相争うようになることは、今でも信じられないような気がするが、しかし、すべての状況はそのそのようになっていることを指し示している。
「大海女よ。こちらへ。」
天智は横になったままだ。冷気が兄の病気を一層悪くしている。
「兄上、ご機嫌はいかがでございましょう」「すぐに回復するかと思ったのに、一向によくわならぬ。それにこの寒さだからのう。」 元気がない。この調子では、兄が行動を移すことはあるまい、と思った。しかしそのことを喜んではならぬ。
湖が霞んで見える。波がたっているのだろう。湖上に水鳥に混じって、白いものがあまた揺れている。
「この寒さ、ちとこたえまする。ご用心なされるがよい」
大海女皇子は努めておだやかに言おうとした。しかし、眼はらんらんと輝いている。いくら静めても、元来がこのような眼であり、これ以上に曇らせることはできなかった。
「ああ、そのことよ。用心しても、だめかも知れぬ。今回はもう再起不能かも知れぬ」
「何を、気の弱いことをおっしゃいますか」「いや、わしにはよくわかっておる。だから……政のことはすべて、そなたにまかせる。位をそなたに譲ろう」
一瞬、大海女皇子は天智が熱ののせいで、あらぬことを口走っているのではないかと思った。
しかし、大海女は天智の言葉をすぐには受け入れるわけにはいかなかった。有間皇子のこともある。古人皇子のこともある。この人たちの運命は今でも大海女にとってはありあありと浮かべることができる。有間皇子も 古人皇子も、天智に逆らったわけではなかった。自ら皇位を望んだわけではなかった。ただ、生きておれば、中大兄皇子が皇位を継承するのに、比較の対照にあなるというほどの人たちであった。しかし、それとても、あえて亡きものにする必要があったのだろうか。しかし、兄のような性格であれば、日夜猜疑心に襲われて不安の種はつきぬものかもしれぬ。
しかし、一方ではこれが兄の真の姿のようにも思える。大友皇子をよりも自分に皇位を譲ったほうがはるかに、これからの近江朝が安定することは明らかなのだ。
しかし、そう思ったのは一瞬のことだった。大海女には既に腹は決まっていた。ここはしりぞくにこしたことあはない。かねて計画していたとおり、髪をおろして僧籍に入ろう。「わたしは既に堅い心でまいりました。私はすぐに髪をおろし、吉野に篭もって、ひたすら兄上の平安をお祈りさせていただきたいと思っております。今日はそのお許しをいただきとうございます」
「ならば、次の大王にはならぬ、というのか」「ええ、皇后さまがいらっしゃいます。皇后さまにお譲りになされるのが、。よろしいでしょう。それに執務は、大友皇子さまがなされるでありましょう」
「そうか、そうまで思っているのであれば、仕方があるまい」
「では、出家のことはご承知くださいますか」「もちろん」
「では、さっそくに」
「準備をさそう」
大海女はっさっそく仏殿に入り、髪をおろした。
この気持ちを兄に悟られてはまずい。兄がすべてを悟って、難癖をつけて大海女を幽閉することもできなくはななかった。それを恐れぬわけではなかった。でも今はつとめて自然にふるまうしかなかった。もし、兄が強権を発動したら……。そのときはそのときで、近江朝のうちでも大海女に味方するものに頼むしかない、と思った。
何事もなく髪を下ろすと、大海女は普段と変わらぬ顔をして邸に帰った。
サラサは隣に住む。(夫婦別居)
頭を丸めた夫を見て、驚いたのはサラサである。サラサはついに来た、と悟った。天智との訣別のときが、ついに来た。予想されっていたことっとはいえ、れがこのような形でこようとは思ってもみなかった。
父と夫。その対立のなかでどちらを選ぶか? できることなら争いはしてほしくなかった。もし、そのようなことがあったら、夫の側につくしかあるまい、と決めていた。
サラサは不思議そうな顔をして夫を見た。「吉野へ行き、天皇の平安を祈る」
大海女はきっぱりと言った。
この頃は妻問い婚、夫婦別居
その日、大海女はトネリに邸にある武器をそろえさせて宮におさめさせた。
ここまでが17日。
671年10月19日、 大海女皇子、近江大津宮を去る。
妃・ウ野讃良皇女(うののさらら)( )
皇子・草壁皇子
忍壁皇子(おさかべ)
舎人(とねり)・女孺(めのわらわ)が数十人 (30人くらい)
(本文)「すぐに追うべきだ」と思う者は多かった。しかし、天智は何もおっしゃらない。天智も迷っているように見えた。天智の側近ははじめから意見を言うようにはなっていない。天智から意見を求められば言うが、自ら進言するものはいなかった。
だら近親のすぐに大海女を討つべきだという声も、天智には届かなかった。仮に届いていても、天智はそうしなかっただろう。
いかなる状況から判断しても、大海女の人気に、それに加えて日毎に衰えていく、自分の体力のことを考えると、ここで大海女を追って勝算があるわけではなかった。
近江朝の左右大臣や御史大夫などの高官が宇治辺りまで見送る。その中のものが言う。「虎に翼をつけて放すようなものだ」
大和は朝廷直轄地である。
(10月19日)晩秋、というよりも初冬に近かった。大和盆地を吹き抜ける風が、冷たい。
この日の夕刻飛鳥、島の宮に着く。
10月20日
「雪まじりの氷雨のそぼ降るなかを、竜門山系の峠をこえて、めざす吉野についた。」(中公321頁)
中荘村の宮滝のあたりである。
吉野川が大きくまがっている。
吉野ついたものの、完全に安全になったというわけではない。大海女も、古人大皇子をのことを忘れてはいない。あのときも古人大皇子も頭を丸めて吉野に入ったが、中兄大皇子は、ここまで追ってきている。
こうてみると、まだ兄の疑いを完全に解いたとは言えないとと大海女は気付いた。トネリを減らそう。そう思った。半分にして近江に返してやろう。
せっかく、近江からここまで従ってきた者たちを返すのは、かわいそうな気がする。しかし、まだこれだけでは多すぎる。
「みんな聞いてくれ。自分はここで仏道に入って修業する。そして、ひたすら天智天皇の御快癒を祈ろうと思う。自分とともに仏道の修業をしようとするものは留まり、都で官につかえて名をなそうと思うものはどうか遠慮せずに近江に帰っていただきたい」
みんな、うつむいたままである。だれ一人として動こうとしない。明日をも知れぬ自分にしたがうトネリたちの気持ちがうれしい。「自分の言っていることには嘘はないんだ。もう一度言おう。自分はここで仏の道の修業をする。兄である天智天皇の病気平癒をひたすら祈るんだ。だから自分と同じように仏道に入ろうとする者は残り、
近江では天智の病状が悪化するばかりで、吉野の大海女に追討軍を出すだけの余裕はなか11月23日(近江)「大友皇子、蘇我赤兄以下五人の重臣が内裏の西殿の織物の仏像の前にあつまり「六人が心を同じくして「天皇の詔」を奉じ、大友皇子を守ろう」という誓いを立てた。おそらく天智天皇の希望によっておこなわれたのであろう。」(中公322頁)
11月29日にも誓いは天皇の前でおこなわれた。
12月3日。天智天皇病没。厳冬の近江大津宮。四十六才(日本書記)。58才説も。 その遺骸は11日もがりの宮に移された。
12月3日。天智天皇病没。厳冬の近江大津宮。四十六才(日本書記)。58才説も。
当時都にはやる歌
「み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島辺(シマベ)も吉(エ)き え苦しえ 水葱(ナギ)のもと 芹のもと 吾(アレ)は苦しえ」
「水葱(ナギ)や芹の生えている濁った小川にすむ鮎は苦しいだろうと大海女に同情した歌」(中公333)
「赤駒の いゆきはばかる まずくはら 何のつてこと 直(タダ)にし吉(エ)けむ」
「大海女皇子の再起を望む声を吉野に伝えたいがさえぎられて伝えにくい。伝言など待たずに直接行動をとればよいのに」(中公333)
「このような空気の中で大友皇子は近江朝の新しい主人公となった。その前途は最初から多難であるといわなければならない。」(中公333)
大友皇子の妃は十市(トオチ)皇女。
十市(トオチ)皇女は大海女と額田女王との 間に生まれた子。(夫と父との板挟み)
大友皇子は即位したという説がある。弘文天皇。
大伴連馬来田(マクタ)、吹負(フケイ)の兄弟は近江朝廷を去り、大和の家に帰った。二人は大伴一門の中心人物。これは近江朝内の反大友派の空気を代表するものだろう。
「このような情勢のもとにあっては、大友としても吉野に対する警戒心を片時もゆるめることができない。近江京から大和の飛鳥にいたる道の要所要所に物見をおいて、警備にあたらせた」(中公325)
(本文)
「近江から、飛鳥まで、大友方の兵が厳重に監視しています」
「いよいよ始まったのだろうか」
「いえ、その気配はありませんが、気をつけたほうがよろしいかと思います」
「もし、我らを討ってきたらどうしよう。当面武器すらもない我々としては逃げるしかないな」
「できるだけはやく武器をあつれえるよう手配しております」
「また、近江朝側が天智の陵を山科につくるために美濃。尾張の国司に命じて多数の人夫を徴発し、これに武器を与えているというニュースは大海女方に衝撃を与えた。これは5月」(中公325)
霜月のなかば。連日、雨が深い山を覆う。今日は降らぬ日かと思っていても、よく見ると小糠雨が、灰色の空の下を舞うように降っている。
大津宮から、死に物狂いで逃れてきて、はや五十日も経とうかと思われる。周囲の森を跋扈させた、この山がちな気候のせいもあるが、今のこの暗鬱な気持ちは、雨のせいばかりではなかった。流宅にも似た境遇が、じわじわと、心身を苦しめるのである。
彼方を飛ぶ白い雲の塊を見ては、今日も吉野の連峰が雨に煙る、と思うだけでも陰惨の気があたり一面をすっぽりと覆ってしまう。 しかし、この吉野の地を選んだのは自分自身である。この地ならば、仮に近江朝側から追われても、深い吉野の連山に身を隠すこともできようかと、思った故である。さらに、何よりもよいのは、この地にありて、的確に敵の動静すら把握すれば、難波にも伊勢にも道が通じていることがあげられる。
挙兵第一段階美濃ので徴兵。
6月22日 大海女挙兵。
美濃出身のトネリ三名を美濃に向けて立たせた。。村国連男依(オヨリ)、朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)ら。大海女の直領地である湯沐邑(ユノムラ)を根拠地として湯沐令(ユノウナガシレイ)や美濃 の国司と連絡をとって軍をあつめ、美濃と近江を結ぶ不破道をふさぐ。(中公326)
6月24日大海女吉野をたつ。トネリ二十余人。女嬬(ジョジュ)( )十余人。
「険阻な山道を越えて脱出行は難渋をきわめた」(角川148)
ウノノサラサ、草壁、忍壁も。
吉野川の支流をさかのぼる。大宇陀町を経る。
夕刻、大和と伊賀の境に到着。
ここで黒雲の瑞兆を見る。
さらに夜を撤して伊賀国を南から北に通過して(伊賀路を東へとも) 伊賀から鈴鹿を越える。
25日の明け方、たらの( 萩野)を通過した。そこには既に、人が出迎え朝餉の準備が出来ていることを伝えた。ここまでくれば一安心という気持ちになったのか、大海女は、朝餉を取るように指示した。伊賀の地形から見て、この地に無事着いたことは、自分たちに微かではあるが運が向いていると思った。
しかし、目的地はここではない。里人から供給された朝餉に活力を取り戻すと、いそいそと移動を開始した。
里人たちが灯した松明から離れていくにつれ、東のほうに、紫色の光彩が立ち篭めているのがわかった。
25日早朝、積殖(ツムエ)の山口に到着した。 いまの柘植(ツゲ)である。(中公327)
一昼夜半。
大和は朝廷直轄地だからいちばん危険。「虎の尾を踏む心地」(松本清張)
ウノサラサが強行軍に疲れてくる。
高市皇子、手兵をひきつれ大津宮から甲賀の山をこえてここに来て合流する。(密使で)
異腹の兄高市皇子(19才)も都から脱出し、東行。(近江側は人質に近い高市をやすやすと逃がしている)
人麿の長歌。「壬申の乱といえば高市皇子、高市皇子といえば壬申の乱」(梅原)
さらに伊勢に入ると(25日)鈴鹿あたりで、国守三宅連石床(イワトコ)、湯沐令ら出迎える。
26日。 大津皇子には吉野宮の大海女からの密使で、大津皇子は伊勢に走り父の陣中に加わる。
26日昼前、伊勢北部の朝明郡(アサケグン)に到 着。伊勢の天照らす大神を伏し拝む。
村国男依も来る。
「予定どおり美濃の兵の動員が進行し、不破の道を占領した」(中公328)
27日 尾張国守小子部(チイサコベ)連 鈎(サヒチ)が2万の兵を率いて大海女軍に味方す。(中公329)
●近江朝側。24日の夕刻大海女の東国入りのこがわかる
「群臣ことごとく驚き、京内は震動した。東国に遁れようとするものもあれば、山や沢に匿れようとする者もあった。」書記(中公328)
大友、群臣を集め相談。すぐに騎兵を派遣して追撃すべし、というのと、諸国に徴兵に使いを出し集まって攻撃をはじめる。
「大友皇子の優雅な性格と官僚体制の行動力のなさ」(梅原猛)
挙兵第2段階東海道・東山道の徴兵
戦闘開始
高市皇子は不破の前線で総指揮。
大海女は後方で全軍の統括。
しかし 大津は軍事に関係してない。草壁、忍壁は皇后とともに伊勢国の桑名にいたのでは。
672年6月27日 大海女皇子は、桑名郡家をたち不破郡野上に赴いてから、一ヵ月にわたる戦争の間もこの地を離れなかった。
(本文) 桑名から野上に赴いたのは6月27日のことだった。近江朝側は伊賀の積埴に向かう軍と湖の南を北上してくる勢力の二手に分けて来るという連絡が入っていた。じわじわと敵の襲来を桑名で待つことは何としてでも避けたいものだ、と大海女の皇子は思った。ここで両方から挟まれるよりは、しかるべき所で撃って出たいと思った。左に行って鈴鹿の関を越えるのは得策ではない。右へ行けば、湖北に出る。
大和の戦い
6月29日大伴吹負(フケイ)、漢(アヤ)氏一族と 連絡をとって飛鳥古京を急襲。近江側の守備隊を追い払う。
7月2日
第1軍 紀臣阿閉麻呂(アヘマロ)らを将として伊勢・伊賀を通って大和の吹負と連絡し、南から大津京をつくのを目的とする。
第2軍 村国男依らが将とならい、不破からただちに近江に入り、東から大津に迫る。衣の上に赤い布をつけた。
7月6日 大和盆地の中央で決戦
上津道(カミツミチ)
中津道(ナカツミチ)
下津道(シモツミチ)
7月23日瀬田川の戦い
大津宮は兵火に焼け落ちた。
大友皇子は山前の地で首をくくった。
25才
十市皇女は葛野王を連れて難を遁れた。
(本文)瀬田の大橋(大津市)
小波に湖面が静かに揺れている。対岸の敵兵が小さく見える。顔までは見えないが、体の格好は窺うことができる。背の高い者。前屈みに歩く者。いかにも一隊の将という感じの者。従卒。…… しかし、その表情を窺うことはできないから、いつ攻めてこようとしているのか、あるいは何か奇策があるのかは、その表情を通して探ることはできなかった。
大津宮は焼け、その柱を引き抜いて持ち去った。
大津京
現在の大津市錦織のあたり。
桧皮(ひわだ)ぶきの内裏正殿、内裏南門、板ぶきの回廊。
大規模な門と回廊を示す柱穴が見つかっている。
高市皇子大津で裁判をする。右大臣中臣金(ナカトミノカネ)、左大臣蘇我赤兄(アカエ)、大納言巨勢比等(コセノヒト)などを審問。、
8月25日 近江朝の重臣に対する処置を発表。
9月8日 大海女大和へ向かう。
672年壬申の乱
天皇の死後半年で……。
大友皇子を攻め、大友皇子は自害。妃の十市皇女と額田王は難を免れる。
十市は父天武の宮殿に住み、天武の子、高市皇子と恋が生じ、天皇・皇后はこれに反対し十市を神に仕える女にしようとするが、それに抗議して宮中で自害。
大豪族対小豪族
大海女側;小豪族中心、なかには大伴、 紀臣阿閉麻呂の例外もある。 近江;蘇我、中臣、巨勢などの大豪族
673年2月 大海女皇子、飛鳥浄御原で即位。天武天皇となる。
大海女皇子は兄・天智天皇の娘、太田皇
女と讃良皇女を妃にする。
讃良皇女との間の子が草壁皇子。
太田皇女との子が、大来皇女(おおく)
と大津皇子
妹の讃良皇女を皇后にした。姉太田皇女は近江朝ができる前に死んでいる。
その娘、大伯皇女は673年4月に伊勢の斎宮に入ることが決定されていた。翌年10月伊勢に向かう。
673年12月 天武天皇、大官大寺建設。
729年 左大臣長屋王の横死
673年2月 大海女皇子、飛鳥浄御原で即位。天武天皇となる。
大海女皇子は兄・天智天皇の娘、太田皇女 と讃良皇女を妃にする。
讃良皇女との間の子が草壁皇子。
田皇女との子が、大来皇女(おおく)
と大津皇子
妹の讃良皇女を皇后にした。姉太田皇女は近江朝ができる前に死んでいる。
その娘、大伯皇女は673年4月に伊勢の斎宮に入ることが決定されていた。翌年10月伊勢に向かう。
673年12月 天武天皇、大官大寺建設。
686年
大津皇子(663ー686)死亡。
人麿はこのような方が亡くなられるということに、言いようのない怒りを覚えた。今までにも、多くの人々の死に向かい、その悲しみを歌った。それらの幾多の悲しみにも増して、大津皇子の死は悲しい。
大津皇子とは、直接お会いしたことはなかったが、その詩風は夙に有名で、新しい時代の流れを感じていただけに、この皇子の若い死がなおさら痛ましい。
689年
草壁皇子(663ー689)死亡。
697年(文武元年)
軽皇子(683ー707)、文武(もんむ)天皇として即位。
不比等の娘宮子(みやこ)を文武夫人とする。
698年(文武2年)
不比等は藤原のままで他の藤原家はもとの中臣にかえれという詔。深
701年(大宝元年)
大宝律令。
不比等、大納言になる。
707
711年(和銅4年)9月18日
古事記撰録の命下がる。
藤原不比等(53才)右大臣。
不比等は鎌足(614ー669)の次男。
このときの左大臣は石上麻呂(640ー717)で72才。
712年(和銅5年)1月28日
古事記完成。太安万侶が天皇に献上。
元明天皇。
729年 左大臣長屋王(676ー729)の横死
684
長屋王(ながやのおう)684~729
「天武天皇の孫、高市皇子の第1皇子。母は天智天皇の娘御名部皇女。721年藤原不比等死後右大臣。724年聖武天皇即位とともに左大臣となり、藤原氏に対抗する勢力をなした。729年密告により邸宅を囲まれ、天皇の命により妻子とともに自殺。これを長屋王の変という。藤原氏陰謀の犠牲になったと考えられている。」
木簡を再利用するときは表面の文字を削った。この器具を刀子(とうす)という。
都祁(つげ)は奈良時代に氷室があった。ここから長屋王の家へ夏になると、氷を運んだ。また、都祁(つげ)へ宮を作るために人を雇った。ここは長屋王にとって離宮だった。「太宰師(だざいのそち)だった粟田朝臣真人は714年死んだ中務卿小野毛野(おののけの)のあと中務卿を兼務し、翌年5月、 太宰師が多治比池守に、中務卿が大伴旅人に交代した」
754年鑑真和尚来日。
[鑑真]688ー763律宗の開祖。受戒制度の確立。
688年。唐4代皇帝中宗(李顕)の嗣聖5年。)
揚州、江陽県に生まれる。俗姓は淳宇(じゅんう)。父親は揚州大雲寺び智満(ちまん)禅師について禅門を習い、受戒している。中小地主以上。
14才の鑑真は父につれられて大雲寺に行き、そこで仏像を見て、すぐに僧になることにした。そこで剃髪、受戒した。これは当時では、僧になれば苛酷な賦役から逃避でき、出世すれば社会的に高い位置になれる。
642年皇極元年
皇極(こうぎょく)天皇は敏達(びたつ)天皇の曽孫にあたる。父は茅渟王(ちぬのおおきみ)であり、母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ)である。
皇極は舒明天皇の皇后であった。皇后になったのは舒明二年のことである。舒明天皇は十三年の十月にお亡くなりになった。翌年一月十五日に皇極天皇は即位した。この年が皇極元年である。
皇極天皇は先の天皇が重くもちいていた蘇我臣蝦夷(そがのおみえみし)を引き続いて大臣とした。国政の大半は大臣の子の蘇我鞍作(くらつくり)ー後の入鹿(いるか)がとき、その頃では父の蝦夷よりも、何かにつけ勝っていた。
この頃の刑罰は非常に厳しく、道に落ちているものを、盗賊でも取らなかったと言われていた。
一月二十九日。大仁阿曇連比羅夫(だいにんあずみのむらじひらふ)が筑紫の国から早馬で帰ってきた。比羅夫は百済(くだら)に派遣されていた男である。
「百済国は天皇御崩御を聞き、弔使を派遣してきました。私は筑紫まで一緒に帰り、葬儀に間に合うように急遽早馬で帰ってきました。なお、百済国は現在大乱になっています」 比羅夫は馬からおりると、即、直属の上司に伝えた。
朝廷では、比羅夫の報告を検討した結果、二月二日に阿曇山背連比羅夫(あずみのやましろのむらじひらふ)ら三人のを百済の事情を詳しく聞くために、筑紫に派遣した。
また二月の六日には高麗からも人がやってきて、難波の津に上陸した。
このように、ヤマトでは新しい天皇が即位して、慌ただしい日々を送っているのに、大陸の政変は日々刻々と変わり、その様がヤマトにも届いた。そんなとき、奇妙なことが起こったという。
三月三日のことだ。よく晴れて、空には雲がないのに、ぱらぱらと雨が降ってきた。人々はただ、空を仰いで、その透明な水玉が、輝きながら落下してくるのを、訝りながら眺めた。
三月六日には新羅から使いが到着した。先の舒明天皇の崩御を弔い、新天皇の即位を慶賀した。この人たちは十五日に帰途についた。それまで、国賓として、日夜歓迎の宴が催された。連日雨が降っている。
5月 稲が秋のように熟した。
7月
ひでりが続く。
蘇我蝦夷は衆僧を屈請して大雲経を読ましめ……
客星(目に見えない怪星)が月に入った。8月 天皇が南淵の河上に……
10月8日と9日に地震
12月小墾田に移る。
二年(643)年11月、山背大兄皇子ら、蘇我入鹿に攻められ、自殺。
「小豪族は大豪族に依存する。それを中央集権的な組織に編成されやすい。それを蘇我稲目・馬子がした。
大化の改新の官僚組織は蘇我氏が準備し、孝徳・天智が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼして横取りをした」(松本清張「古代史私注」118頁)
このころの政治課題は大陸の勢力との関係もあって、部族国家から中央集権国家へと変わる必要があった。
舒明天皇の子である中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足は政治改革を断行しようとした。そのブレーンは遣唐使の帰朝者の南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、高向玄理(たかむこうのくろまろ)である。
南淵請安のもとに集まりクーデターの計画を立てたのはいつのことであろうか。
クーデターは645年(皇極天皇4年)6月に計画どおり実施された。 三韓朝貢の日。大極殿で蘇我入鹿を殺し、 蘇我蝦夷(えみし)の家を襲って
中大兄皇子の勲であった。
斉明天皇は蘇我入鹿を寵幸す。
645年(皇極4年)大化の改新
隋・唐の制度にならい天皇独裁の律令国家にしようとしたが、まだ緒部族の豪族らの連合体が残っていた。大部族連合国家のようなもの。
「大化の改新は帰化人集団の推進によって蘇我氏がこれをおこなったといえる」(松本)
中兄大皇子と鎌子が飛鳥寺の槻の木の下で打毬の集まりを機会に接近する。
6月12日 大極殿の皇極天皇(女帝)の目の前で入鹿を謀殺。
この日のことは「清張通史4」113頁に詳しい。
入鹿は天皇に「身におぼえのないことを。これは、いったいどういことですか」と叫ぶ。天皇も驚き中兄大に聞く。る
「鞍作が皇統をほろぼして天皇の位をねらっているのです。尊い天孫を鞍作づれにどうしてとってかえることができましょうか」とこたえる。
改新後,皇極帝から軽皇子へ譲位。孝徳天皇となる。中兄大太子。
653年
中兄大、孝徳の反対を押し切って難波から飛鳥へ遷都。
654年(白雉5年)
孝徳天皇、有馬皇子を残して憂悶のうちに生涯を閉じた。
655年
重祚して斉明天皇
657年蝦夷征伐。 この年川島皇子生まれる。
[川島皇子]657ー691天智天皇の皇子。母は色夫古娘(いこふこのいらつめ)681年に刑部親王らと「帝紀」「「上古諸事」を編纂。大津皇子の変では友人でありながら讒言した。
658年
11月有間皇子の変。
有間皇子 640(舒明12年)~658(斉明4年)
孝徳天皇こうとくてんのうの皇子
母は阿倍倉梯麻呂の娘小足媛
磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかえり見ん
( いわしろの はままつがえを ひきむすび まさきくあらば またかえりみん)
(巻2/141)有馬皇子(ありまのみこ)
家にあれば 笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
( いえにあれば けにもるいいを くさまくら たびにしあれば しいのはにもる)
(巻2/142)有馬皇子(ありまのみこ)
658年は忘れられない年である。万葉集でも有名な有馬皇子が忙殺された年である。勿論皇位争いの一つである。相手は中大兄皇子,後の天智天皇である。
悲劇は突如6として起こった。紀伊白浜は当時から有名な温泉地であった。
10月15日に斉明天皇は,中大兄皇子などと牟婁(むろ)の湯に行幸している
その留守の11月3日の夜のことだ。蘇我赤兄という男が有間皇子と談笑する。その間にいろと世間話の中で,現天皇の粗を話題にした。身内ゆえの気楽さがあったのかも知れない。批判するつもりは毛頭なかった。ただ見聞きすることを話たに過ぎない。財産のこと,支出のことなど。赤兄の口車に乗せられて,多少若者の正義感からオーバーな発現があったのかもしれない。夜捕らえる。
運命の658年。
10月15日、斉明天皇は中大兄皇子などを引きつれて紀の国/牟婁(むろ)の湯に行幸した。
年明けまでの長期な温泉静養の滞在である。
現在ではこの場所は和歌山県「白浜温泉」の牟婁(むろ)の湯(湯崎地区)らしい。
この「牟婁(むろ)の湯」は今では公営浴場になっている(写真)
この「白浜温泉」は日本の代表的な温泉であり、関西の奥座敷と言われている。
その半月ばかりあとの11月3日、有馬皇子は都の留守官である蘇我赤兄(そがのあかえ)と談議した。
そこでの話は、天皇の蓄財、浪費などの非をあげつらい今は決起しなければならないという内容であった。
19歳という若さの有馬皇子は赤兄の口車にのせられ「わが生涯ではじめて兵を用いるときが来たようだ」とまで言わしめられたのである。
ところが、その信頼していた蘇我赤兄が裏切ったのである。
自分が有馬皇子に決起をたきつけておきながら、逆に皇子が天皇をくつがえす謀略を練ったとして突然屋敷を包囲し白浜行幸の天皇に連絡したのである。
通説では赤兄と中大兄皇子がしくんだ罠ということになっている。
諸説あるのだが、蘇我赤兄はこの後の天智天皇の時代には左大臣にまで出世していることを考えるとやはり赤兄と中大兄皇子(天智天皇)がしくんだ罠という感じがする。
捕らえられた有馬皇子はその沙汰を受けるために行幸先の紀伊の国に連行されていく。
●絞首(こうしゅ)された有馬皇子
紀伊に向かった有馬皇子は11月9日に、磐代の海岸までたどりつく。
この地は今の和歌山県日高郡南部(みなべ)町の岩代(大字岩代小字西岩代)である。
もう25キロほどで天皇と中大兄皇子が滞在する白浜温泉(紀の湯)であり、そこに到着すれば彼の謀反についての取り調べが行われる。
この裁きを前にした有馬皇子の心はいかばかりであったろうか。
赤兄が私をだましてその気にさせたのだとか、そんな反逆心はもともとないんだとかいろいろ訴える事柄が頭をめぐったろう。
また、心から謝罪すれば命は助けてくれるかも知れない、とも考えたであろうか?
いずれにしても切羽づまった心境であることは確かであるかも知れない。
そして、先の2首がこの磐代で詠まれた。
次の日の10日には、「牟婁(むろ)の湯」で中大兄皇子によって取り調べが行われた
そして帰された・・・と思ったが、帰途、追っ手がかかり熊野街道・藤白の坂(今の海南市)にて絞め殺されたという。(11/11)
短い19年の生涯であった。
経 歴 生来賢明であったが,父孝徳天皇が失意のうちに死んだ後,有力な皇位継承資格者として斉明朝では微妙な立場にあり,改新反対派は期待を寄せた。
657年 狂気を装って時流から逃れようとし,紀伊国牟婁むろの湯(白浜温泉湯崎)に行き療養した。
658年 10月天皇が牟婁の温泉に出かけると,11月都の留守官であった蘇我赤兄そがのあかえが斉明さいめい朝の失政3か条をあげて謀反をそそのかしたので,皇子は赤兄の家で塩屋?魚らと盟約をしたという。
その夜赤兄は兵をもって皇子の家を囲み,皇子と?魚・守君大石らを捕らえた。
ただちに天皇のいる紀伊の牟婁の湯に送られ,皇太子中大兄皇子なかのおおえのみこ(天智天皇てんじてんのう)の尋問を受けた後,藤白坂ふじしらさか(海南市藤白)で処刑された。
謀反事件は,一般に中大兄皇子らの謀略によるものと考えられている。
659年
7月 唐国へ派遣。
660年
3月 唐・新羅、百済を攻める。
7月 百済滅ぶ。
689年(持統3年)飛鳥浄御原令
年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代
754年鑑真和尚来日。
[鑑真]688ー763律宗の開祖。受戒制度の確立。
688年。唐4代皇帝中宗(李顕)の嗣聖5年。)
揚州、江陽県に生まれる。俗姓は淳宇(じゅんう)。父親は揚州大雲寺び智満(ちまん)禅師について禅門を習い、受戒している。中小地主以上。
14才の鑑真は父につれられて大雲寺に行き、そこで仏像を見て、すぐに僧になることにした。そこで剃髪、受戒した。これは当時では、僧になれば苛酷な賦役から逃避でき、出世すれば社会的に高い位置になれる。
****
****
754年鑑真和尚来日。
[鑑真]688ー763律宗の開祖。受戒制度の確立。
688年。唐4代皇帝中宗(李顕)の嗣聖5年。)
揚州、江陽県に生まれる。俗姓は淳宇(じゅんう)。父親は揚州大雲寺び智満(ちまん)禅師について禅門を習い、受戒している。中小地主以上。
14才の鑑真は父につれられて大雲寺に行き、そこで仏像を見て、すぐに僧になることにした。そこで剃髪、受戒した。これは当時では、僧になれば苛酷な賦役から逃避でき、出世すれば社会的に高い位置になれる。
939年(天慶2)年 平将門の乱
「兵力の大部分は農民であって、農閑期にのみ動員しうる存在だったのである。史料上からみても、10世紀頃には、まだ武士という名称は一般的ではなく、武力にすぐれてあ人々は「兵」(つわもの)と呼ばれていた。」安田元久「鎌倉開府と源頼朝」(28頁)
10世紀。律令体制から摂関体制へ。公田体制から荘園体制へ。
「将門記」は岩波の日本思想大系8の「古代政治社会思想」の中へある。
上記「将門記」の意訳。
平将門(たいらのまさかど)というのは、桓武天皇より五代目の子孫である。
935年(承平5年)2月4日
将門はもうこうなったら、この地んの支配権をみづからとるしかあるまいと考えた。2月4日に総攻撃をした。まず野本や石田、大串、取木など館から攻めて国香をまず打った。
天慶2年11月21日。常陸の国に於いて将門は謀反を起こして千人にも及ぶ兵を以て、いどむ。家はことごとく焼け、煙に追われ、燃え盛る家の中から暑さに耐えかねた兵士が走り出た。しかし、外では弓を構えた将門の兵によって射打たれ驚いてまた中に入った。
一条天皇980-1011
第66代。母は藤原の兼家の娘詮子。在位中は藤原道長の全盛期。紫式部、清少納言などが宮廷に集められた。
長徳二年(996)年の春の県召の除目のことである。春というのは正月のことである。すなわち、新年の辞令交付のときのことである。紫式部の父の為時は淡路守に任命されたが、不満だった。そこで、
苦学の寒き夜 紅涙襟を霑(うるほ)し
除目の春の朝(あした)、蒼天眼に在り
という詩を天皇に指しだして、悲憤の情を訴えた。陛下としては、いたく同情するもののどうしょうもなく寝込んでしまわれた。
そこへ藤原道長がやってきて、女房に尋ねた。
「陛下はどうされたんだ?」
女房から事情を聞いた、道長は、先に越前守の発令を受けている源国盛を呼んで、越前守を辞退させた。そして為時を改めて、越前守に任命した。陛下の心は晴れたものの、このことを聞いた他の国守たちが不審に思ったのは言うまでもない。
紫式部978~1016 975とも。
香子(たかこ)
藤原宣孝と結婚。2年で死別。
少女時代~勝ち気、率直、行動的、明るく優しい。知性豊か。
時代区分~未婚時代、結婚時代、寡居時代、宮仕え時代
世界観~孤独、愁嘆、憂き読感、無常感、宿世感、これらの情感を心の中に濃くただよわせながらも、埋没することなく、人の世の常理を見極めようとする。事象(環境)、心象(自己)を対象化、客体化、客観視して。っか
996年(長徳2)初夏、父の越前赴任に同行し、1年半ばかり国府武生に滞在した。翌年(長徳3)冬帰京。さらにその翌年(998年長徳4)冬、山城守・右衛門権佐藤原宣孝と結婚。このとき式部は24才、藤原宣孝は四十四、五才。999年(末ころ)賢子生む。長保3年(1001)4月25日藤原宣孝と死別。寛弘2、3年の12月29日に一条帝の中宮彰子のもとへ初出仕。1014年40才で死ぬ。
非常に知的で活発な少女である。いたづら好きである。性格的には超陽性。ただ、知的なのだ。知的だということは考えることができるということである。だから、結婚までの式部は陽性な性格が知性を凌駕し、その知性がどちらかというと邪魔になるという感じだ。 それが、夫の早い死。悲嘆にくれる。悲嘆にくれきれない。どうしてか。陽性な性格だからか。知性がありすぎるのか。知識がどう結びつくのか。(ここは書きながら考えるか)
1028(長元2)年 平忠常の乱
平将門の乱後、関東地方は桓武平氏一族が勢力をふるったが、そのうちの有力者であった平忠常は上総、下総に勢力を大勢力を形成した。
この乱以後、東国は清和源氏の強固な地盤となった。
平忠常(967-1031)
忠頼の子。内乱では源頼信に屈伏。京都へ護送される途中美濃で病死。千葉氏、上総氏はその子孫。(豪族的大武士団)
私営田領主の一人である。
鳥羽天皇1103-56
74代。崇徳、近衛、後白河の3代二十八年間院政を行なう。
源頼政1104-80
源三位入道(げんさんみにゅうどう)。
家人。武将。
源仲綱1126-80
源頼政の子。
伊豆の守。所有する鹿毛(かげ)を平宗盛に強引に奪われる。
その前の所望されたときの歌に
「恋しくは来ても見よかし身にそへるかげをばいかが放ちやるべき
鹿毛(かげ)は体毛は褐色で、たてがみなどは黒色。
1156年(保元元年)7月11日。
崇徳院側の軍議で源為義が言った。
「内裏のほうに比べれば、こちらの勢力はあまりに少ないではないか。多くの郎等は皆義朝に従って内裏についてしまった。こちらに残ったのは、わずかに小男二人だけではないか。」
義朝は息子の頼賢、為朝のほうは見なかったが、二人は笑いもせず父を凝視していた。
崇徳天皇1119-64
七十五代。 鳥羽天皇の第一皇子。母は待賢門院璋子。五歳で即位。四十一年鳥羽上皇は、譲位を迫り、寵妃美福門院の子近衛天皇を即位させ、さらに近衛天皇死後、弟の後白河天皇を立てた。鳥羽法皇の死後、藤原頼長と組み、保元乱を起こしたが敗れた。
崇徳天皇側を白河殿方という。左大臣藤原頼長。源為朝。
左大臣藤原頼長は武者所の武士・親久に内裏方の偵察をしてこいと命ぜると、時すでに遅く、こちらに向かって攻めていると判明。為朝は早期攻撃を入れられなかったことを悔いたが、後の祭りだ。それを為朝が憤慨すると、急に除目が行なわれて、為朝を蔵人にすると言い出した。武人為朝は戦が迫っているのに除目とは何事か、自分は今までどうりの鎮西の八郎でいっこうにかまわないと言った。
642年皇極元年
皇極(こうぎょく)天皇は敏達(びたつ)天皇の曽孫にあたる。父は茅渟王(ちぬのおおきみ)であり、母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ)である。
皇極は舒明天皇の皇后であった。皇后になったのは舒明二年のことである。舒明天皇は十三年の十月にお亡くなりになった。翌年一月十五日に皇極天皇は即位した。この年が皇極元年である。
皇極天皇は先の天皇が重くもちいていた蘇我臣蝦夷(そがのおみえみし)を引き続いて大臣とした。国政の大半は大臣の子の蘇我鞍作(くらつくり)ー後の入鹿(いるか)がとき、その頃では父の蝦夷よりも、何かにつけ勝っていた。
この頃の刑罰は非常に厳しく、道に落ちているものを、盗賊でも取らなかったと言われていた。
一月二十九日。大仁阿曇連比羅夫(だいにんあずみのむらじひらふ)が筑紫の国から早馬で帰ってきた。比羅夫は百済(くだら)に派遣されていた男である。
「百済国は天皇御崩御を聞き、弔使を派遣してきました。私は筑紫まで一緒に帰り、葬儀に間に合うように急遽早馬で帰ってきました。なお、百済国は現在大乱になっています」 比羅夫は馬からおりると、即、直属の上司に伝えた。
朝廷では、比羅夫の報告を検討した結果、二月二日に阿曇山背連比羅夫(あずみのやましろのむらじひらふ)ら三人のを百済の事情を詳しく聞くために、筑紫に派遣した。
また二月の六日には高麗からも人がやってきて、難波の津に上陸した。
このように、ヤマトでは新しい天皇が即位して、慌ただしい日々を送っているのに、大陸の政変は日々刻々と変わり、その様がヤマトにも届いた。そんなとき、奇妙なことが起こったという。
三月三日のことだ。よく晴れて、空には雲がないのに、ぱらぱらと雨が降ってきた。人々はただ、空を仰いで、その透明な水玉が、輝きながら落下してくるのを、訝りながら眺めた。
三月六日には新羅から使いが到着した。先の舒明天皇の崩御を弔い、新天皇の即位を慶賀した。この人たちは十五日に帰途についた。それまで、国賓として、日夜歓迎の宴が催された。連日雨が降っている。
5月 稲が秋のように熟した。
7月
ひでりが続く。
蘇我蝦夷は衆僧を屈請して大雲経を読ましめ……
客星(目に見えない怪星)が月に入った。8月 天皇が南淵の河上に……
10月8日と9日に地震
12月小墾田に移る。
二年(643)年11月、山背大兄皇子ら、蘇我入鹿に攻められ、自殺。
「小豪族は大豪族に依存する。それを中央集権的な組織に編成されやすい。それを蘇我稲目・馬子がした。
大化の改新の官僚組織は蘇我氏が準備し、孝徳・天智が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼして横取りをした」(松本清張「古代史私注」118頁)
このころの政治課題は大陸の勢力との関係もあって、部族国家から中央集権国家へと変わる必要があった。
舒明天皇の子である中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足は政治改革を断行しようとした。そのブレーンは遣唐使の帰朝者の南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、高向玄理(たかむこうのくろまろ)である。
南淵請安のもとに集まりクーデターの計画を立てたのはいつのことであろうか。
クーデターは645年(皇極天皇4年)6月に計画どおり実施された。 三韓朝貢の日。大極殿で蘇我入鹿を殺し、 蘇我蝦夷(えみし)の家を襲って
中大兄皇子の勲であった。
斉明天皇は蘇我入鹿を寵幸す。
645年(皇極4年)大化の改新
隋・唐の制度にならい天皇独裁の律令国家にしようとしたが、まだ緒部族の豪族らの連合体が残っていた。大部族連合国家のようなもの。
「大化の改新は帰化人集団の推進によって蘇我氏がこれをおこなったといえる」(松本)
中兄大皇子と鎌子が飛鳥寺の槻の木の下で打毬の集まりを機会に接近する。
6月12日 大極殿の皇極天皇の目の前で入鹿を謀殺。
この日のことは「清張通史4」113頁に詳しい。る
入鹿は天皇に「身におぼえのないことを。これは、いったいどういことですか」と叫ぶ。天皇も驚き中兄大に聞く。る
「鞍作が皇統をほろぼして天皇の位をねらっているのです。尊い天孫を鞍作づれにどうしてとってかえることができましょうか」とこたえる。
653年
中兄大、孝徳の反対を押し切って難波から飛鳥へ遷都。
654年(白雉5年)
孝徳天皇、有馬皇子を残して憂悶のうちに生涯を閉じた。
655年
重祚して斉明天皇
657年蝦夷征伐。 この年川島皇子生まれる。
[川島皇子]657ー691天智天皇の皇子。母は色夫古娘(いこふこのいらつめ)681年に刑部親王らと「帝紀」「「上古諸事」を編纂。大津皇子の変では友人でありながら讒言した。
658年
11月有間皇子の変。
蘇我赤兄、有間皇子をそそのかし、夜捕らえる。
659年
7月 唐国へ派遣。
660年
3月 唐・新羅、百済を攻める。
7月 百済滅ぶ。
年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代
年代記7 昭和時代〜