2019年7月19日金曜日

年代記3

年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代 
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代〜


年代記7 昭和時代〜

1192後白河法皇死去後征い大将軍
    建久3712
        89日 実朝誕生
        918日岩殿、大蔵寺両観音に詣でる(頼朝)


1241(仁治2年)厳島神社造営 これが現在に至る。(日本の歴史6)
 源頼朝ノート

 源頼朝は弟の義経と比べられるせいか、暗いイメージで見られがちである。そのように思うのは私だけではないと思う。義経が希代英雄であり、頼朝はその義経を追放し、後には追って殺害したというのは史実だから、そう思うのは当然である。また、映画にしても、小説にしても頼朝よりも義経のほうが主役にするのに好都合だ。

頼朝ノート

源頼朝1147~1199
義朝の第3子

 鎌倉幕府を関東にもっていくのは何故か。  天下一統の方向として、
  関東~頼朝、北条早雲、謙信、家康
  京都~今川義元、信玄、信長
       中公。日本の歴史12p.14
1180(治承4)年
 源行家が以仁王の令旨を鎌倉へもたらした。4月27日のことである。これから頼朝の挙兵まではしばらく間がある。もちろん挙兵には準備が必要だから、令旨を受け取ってすぐに挙兵というわけにいかぬが、さらにそれ以上大切なのは、機会を窺うことである。頼朝も虎視眈眈と機会を窺っていた。しかし、機会以上に、頼朝の身の上のほうに問題が出てきた。というのは、平氏側の監視が厳しくなったからである。特に6月以降にそれは顕著になった。平家の時代は既に峠を越したと、後世の我々が思うのは勝手だが、平氏方がただ傍観していたわけではない。

 6月19日。三善康信(みよしやすのぶ)の使者が、鎌倉に着く。頼朝は使者を丁寧にねぎらい、人払いをして書状を読んだ。ついに来たか、という思いに近いものが頼朝の胸のうちに沸き起こった。しかし、その険しい表情は一瞬にして消え、いつもの鷹揚な雰囲気に戻った。もちろん誰も、頼朝の顔色を伺えるだけの位置にはいなかったが、もし傍にいたとしても、この変化に気付くものは少ないと思われる。人が近くにいようといまいと、感情が顔に現われることはなかった。蛭ヶ小島の流人としての育ったことで、ひとりでに身にちついた、頼朝の性だった。天離(あまざか)る鄙で幾年(いくとせ)かを過ごしたことによって、頼朝が他の武将らと異なる性格を多く身につけていたが、これもその一つだった。
1181(治承5)年
 1月高倉上皇死す。
 2月清盛死す。
  4月以仁親王、平家追討の令旨(りょうじ)を発した。

1189藤原氏(奥州)を滅ぼす
1190建久元年103日白河法皇に謁見  
 権大納言右近衛(うこんえ)大将 
    1229日鎌倉帰着     
1192後白河法皇死去後征い大将軍
    建久3712
        89日 実朝誕生
        918日岩殿、大蔵寺両観音に詣でる(頼朝)

1193建久4年5月22日富士の巻狩(まきがり)頼家鹿を射る
1194建久5年夏 一条高能(18才)鎌倉へ
「高能で大姫の気にいらぬのなら、ひとつ後鳥羽天皇ではどうでしょうか」
「頼朝の気持ちは大きく動いた。明らかにいつもの冷静さが欠けている」
10月の初め頃から準備
1195建久6年  妻子を伴って再度上京  2月14日鎌倉出発
      東大寺再建の供養(3/12)「あいにくすごい大風雨となったが、とくに上京した頼朝は、多勢の武士たちに護衛されてその式に参列した」(石井進)
 3/14京都着
   兼実を軽視
 3/29丹後の局を六波羅に招き政子、姫が対面
 6/25帰路に着く
 7/8 鎌倉着
 7月稲毛三郎重成の妻死す。
 稲毛三郎重成(いなげのさぶろうしげなり)の妻は頼朝の妻政子の妹である。その妻が亡くなったのは、建久六年(一一九五)七月のことであった。
 妻の死の悲しみは、重成にもこたえたとみえる。重成は葬式が終わって、落ち着くと出家した

  96建久7年 藤原(久条)兼実一派  失脚 土御門通親らの策略
   (つちみかどみちちか)
 この年頼朝征い大将軍を辞任(石井進P232 ) 
 稲毛三郎重成は12月に相模川にかけた橋の完成と亡き妻を偲ぶ追善供養を行なった。を97建久8年7/14大姫亡くなる
    8年10月一条能保(いちじょうよ    しやす)死去



    9年9月一条高良(たかよし)死去     10年1月13日頼朝死す(53才)
 相模川の橋を重成法師が妻の供養のために作った。
 その橋供養に出かけての帰途、落馬した。
 源頼朝
 本文

 頼朝
 頼朝の母は正妻であったから、源の義朝の第三子として生まれながら、嫡流であった。 その母は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の娘であった。
 流託
 蛭が小島という。狩野川の川下で、島のように見えるのは、今でいう三角州である。湿地帯であり、この近辺には蛭がたくさんいたのであろうか。韮山付近である。
 東側に丘がある。この向うが宇佐美や伊東である。
 このあたりの勢力をふるった武士に伊東祐親がおり、狩野川の西側には北条時政がいた。
 頼朝は人気があった。といっても当時のことである。いくら流罪の身とはいえ、頼朝は清和源氏の御曹司であったということも、大きく働いていたには違いない。
 そしてこの地方の武士についても、今となっては理解の遠く及ばないことのほうが多い。われわれが普通考える。へいけのと源氏の対立いうようなものがどの程度に、都を遠く

1159年(平治元年)平治の乱起こる。
 義経が父源義朝は 衛門督(えもんのかみ)藤原信頼に与して平治の乱に敗れた。時に一二月二十七日のことである。
 このとき、父源義朝は左馬頭であった。
 源義朝の源氏再興の望みは断たれ、平氏の没落まで、源氏の悲哀は続く。
 重代の郎等はほとんど死亡し、二十数騎が残ったに過ぎない。源義朝は東国をめざして落ちることにした。しかし、京にいるすべての子供を連れていくわけにはいかない。
「この世の別れであろう。……
 幼き子供たちは京に残すほかなかった。
 ことにした。
 長男の悪源太義平(あくげんた)は越前をめざした。しかし、食料もなく近江の石山寺で平家の武士、妹尾太郎兼康、難波三郎経房らに生け捕られ、京の六條河原で斬殺された。次男の中宮の大夫の進朝長は山賊の矢に左の膝を打たれ、美濃にて死んだ。
 その他にも母を異にする子供たちはたくさんいた。尾張の熱田神社の大宮司の娘を母とする頼朝は三男で右兵衛佐(うひょうえのすけ)と呼ばれ、このとき一二才だった。
 範頼は遠江の蒲というとこで成人したので蒲の御曹司と呼ばれた。母は池田宿の遊女である。
 また九條院すなわち近衛天皇の中宮の雑仕であった常盤を母とする子供が三人あった。 一番上が今若で七才、次いで乙若が五才、そして生まれたばかりの牛若である。牛若は都合、九番目の子供である。


後白河天皇1127-92
 77代。鳥羽天皇の第四皇子。母は待賢門院璋子。1155年即位。保元の乱となる。 内裏方。


清盛1118~81(治承5)
1168年 仁安3年
  清盛出家。
1179(治承3年)
 清盛のクーデター

 禿童(かむろ)ほど、恐れられているものはございません。近ごろ都のあちこちを、髪を禿(かむろ)にした少年が、はびこっております。この悪童どもと来たら油断も隙もあったものではございません。京のあちこちを三〇〇人近い禿童が動き回って平家の悪口を言うものはいないかと、嗅ぎ回っております。まるで腐肉にむらがる野犬のようなもので、人々から嫌われておりました。近ごろでは内裏のほうまでも出入りしているとか噂されております。
高倉天皇 1161-81

第八十代天皇は、後白川天皇の第七皇子の高倉天皇である。
 母は建春門院滋子である。
 清盛と後白河法皇の反目の中に過ごす。
1180年安徳天皇に譲位した。

安徳天皇1178-85
 第八十一代は高倉天皇と清盛の娘徳子、のちの建礼門院の第一皇子、言仁である。
 一一八三(寿永二年)の木曽義仲の入京以来、平氏とともに都落ちし、85年、壇ノ浦で入水した。墓は下関市の阿弥陀寺にある。
後鳥羽天皇1180ー1239
 平氏の滅亡とともに壇ノ浦で入水した安徳天皇の後は第八十二の後鳥羽天皇である。後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子で、母は七条院殖子。
 すでに八十三年の都落ちの後、後白河法皇の院旨で践祚していた。このときは三種の神器がなくて、おう

  関東~頼朝、北条早雲、謙信、家康
  京都~今川義元、信玄、信長
       中公。日本の歴史12p.14


1180年8月17日 晴れ。一七日の、明月である。このころは富士山も噴煙をあげていたという。
 頼朝挙兵である。
「事の草創」としておく。


 「吾妻鏡」には「事之草創たり」「関東の事、施行の始め也」という。

 平清盛も頼朝とともに武家の出身ではあったが清盛の政治は公家政権の中に浸透していっただけで、真の武家の政治ではなかった。それゆえ、頼朝をもって武家政治の創始とする。
 考えてみれば、これは頼朝以来、軍人が政治の中心にあった第二次世界大戦終了の一九四五年まで続いたと言ってもいい。すなわち現代の用語で言えば、清盛が文官政治のなかに武力を持ち込んだことによって、完全に頼朝によって権力が武家のものになり、政治形態そのものも、武家のものとなった。明治維新は、一応文官の手に政治はもどり、どちらかというと公家政治に近いものであったが、富国強兵策は当然のことながら武官の政治進出を可能にしたのである。

 しかし、現実的には平氏に対する、源氏の反抗、源家の再興というかたちであるが、平氏があまりにも国家権力に深く結びついていたので、それは国家への反乱、すなわち公家政治へ反乱という形になった。「その場合の武力は、源氏譜代の家人を結集するといっても、実際には京都政権の担い手たる貴族たちの支配に不満を持ち、新しいエネルギーを蓄えて、旧体制を覆さんと望む在地武士層に求めねばならない。」安田元久「鎌倉幕府と源頼朝」(16頁・教育社)

1189藤原氏(奥州)を滅ぼす
1190建久元年10月3日白河法皇に謁見  
 権大納言右近衛(うこんえ)大将に任ぜられた。「この時点で頼朝の居館が幕府と呼ばれる必然性を生じた。」安田元久「鎌倉幕府と源頼朝」(24頁・教育社)     





 1229日鎌倉帰着       
1192後白河法皇死去後征い大将軍
    建久3712
        89日 実朝誕生
        918日岩殿、大蔵寺両観音に詣でる(頼朝)

1193建久4年5月22日富士の巻狩(まきがり)頼家鹿を射る
1194建久5年夏 一条高能(18才)鎌倉へ
「高能で大姫の気にいらぬのなら、ひとつ後鳥羽天皇ではどうでしょうか」
「頼朝の気持ちは大きく動いた。明らかにいつもの冷静さが欠けている」
10月の初め頃から準備
1195建久6年  妻子を伴って再度上京  2月14日鎌倉出発
      東大寺再建の供養(3/12)「あいにくすごい大風雨となったが、とくに上京した頼朝は、多勢の武士たちに護衛されてその式に参列した」(石井進)


 3月14日京都着
   兼実を軽視
 3/29丹後の局を六波羅に招き政子、姫が対面
 6/25帰路に着く
 7/8 鎌倉着

 7月稲毛三郎重成の妻死す。
 稲毛三郎重成(いなげのさぶろうしげなり)の妻は頼朝の妻政子の妹である。その妻が亡くなったのは、建久六年(一一九五)七月のことであった。
 妻の死の悲しみは、重成にもこたえたとみえる。重成は葬式が終わって、落ち着くと出家した

  96建久7年 藤原(久条)兼実一派  失脚 土御門通親らの策略
   (つちみかどみちちか)
 この年頼朝征い大将軍を辞任(石井進P232 ) 
 稲毛三郎重成は12月に相模川にかけた橋の完成と亡き妻を偲ぶ追善供養を行なった。を97建久8年7/14大姫亡くなる
    8年10月一条能保(いちじょうよ    しやす)死去
  9年9月一条高良(たかよし)死去     10年1月13日頼朝死す(53才)
 相模川の橋を重成法師が妻の供養のために作った。
 その橋供養に出かけての帰途、落馬した。
 源頼朝
 本文

 頼朝
 頼朝の母は正妻であったから、源の義朝の第三子として生まれながら、嫡流であった。 その母は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の娘であった。

 流託
 蛭が小島という。狩野川の川下で、島のように見えるのは、今でいう三角州である。湿地帯であり、この近辺には蛭がたくさんいたのであろうか。韮山付近である。
 東側に丘がある。この向うが宇佐美や伊東である。
 このあたりの勢力をふるった武士に伊東祐親がおり、狩野川の西側には北条時政がいた。
 頼朝は人気があった。といっても当時のことである。いくら流罪の身とはいえ、頼朝は清和源氏の御曹司であったということも、大きく働いていたには違いない。
 そしてこの地方の武士についても、今となっては理解の遠く及ばないことのほうが多い。われわれが普通考える。へいけのと源氏の対立いうようなものがどの程度に、都を遠く

 挙兵

1180治承4年12月。大倉の郷に新しい御館(みたち)が完成した。十一日のことである。大倉の郷は鶴岡からやや東によったところにあった。
 頼朝は鶴岡八幡宮のときと同じように。大庭景義(おおばかげよし)を工事責任者にした。
 平氏に反旗を翻した頼朝は、関東にその支配力を及ぼしはじめるとまもなく、その行政能力を発揮しはじめた。と同時にそれが要請されるような状況にあった。大倉の郷の御館も、十分な期間をかけて建設することは不可能であったので、とりあえず、山の内の兼通の家を移転して

 「鎌倉時代の武士」
「いにしえの武士というは、当代の武士のごとくにはあらず、常に田舎に住んで農業を努め、今の世の有徳なる百姓のごとくなり。(中略)(鎌倉の)世にこれを大名と称せしは、在所に名田ということありて、名田を持たる者の中にて、家富み僮僕を多く蓄う者を大名と称せり。」太宰春台「経済録」
 在地領主の在地武士団が御家人層の中核となる。

源義経

静御前
  丹後半島の網野町が故郷であり、義経と別れたあと、網野町磯に帰り二十余才で死んだ。この地に小さな神社、静神社がある。 
1221年(承久3年)この年北条義時追討の院宣を下した。しかし、北条側の対応は迅速で、クーデターは失敗した。その結果隠岐に配流された。
 配流地は海より少し奥に入っているとはいえ、潮の薫りがしじゅうしていた。耳を澄ませば、浪の音が聞こえる。
 小山にせり出した岩の下が、風を防ぐのに適していたので、そこから松の木を柱として屋根を萱で葺いて小さな小屋を作った。
 あわれでもあり、寂しくもあったが、これとて、仮初めの宿りと思えば、苦にもならない。
 ふと西行のことが思い出された。
いづくにも 住まれずばただ 住まであらむ  芝のいほりの しばしある世に
 という気持ちになれば、それなりに風情があった。
 はるかに見える浪の上も遠くまでも水平線が連なり、二千里の外には人の心すらもなき気持ちで、思わず寂寥感に襲われる。
 また、東風が吹き荒ぶ。少しは手加減してくれぬものだろうか。せっかく私が、この島に住みなづもうと思っているのに。
我こそは 新島守よ おきの海の
   荒き浪風心して 吹け
 水無瀬の離宮は、わが趣味にあわせ、何かと心やすらぐものがあった。ここ隠岐島でも私が新しいここの主になるのだから、夜になれば、都と変わらぬ月に出てもらいたいものだ。

 また、
同じ世に また住みの江の 月や見ん
  けふこそよそに おきの島守

足利尊氏1305-58
 足利氏は源義康の孫で、源義国の子である源義康が下野足利荘に住んだのがはじまりである。源平の争乱では頼朝に従い、義康の子、義兼以降、北条氏と通婚し、上総・三河の守護となった。清和源氏である。
1338(延元3)年足利尊氏光明天皇より征夷大将軍に仁ぜられ、京都に幕府を開く。「実に天下の将軍、武家の棟梁」(「梅松論」)

1396年(応永3)
 小笠原長秀・今川範忠・伊勢貞行らに命じて武家礼式を定めた。「南方紀伝」
 細川ガラシャ
 明智光秀の娘で細川忠興の妻ガラシャは、本能寺の変で実家と婚族の狭間に置かれて3年間丹後半島の中部の弥栄町(やさか)味土野(みどの)に幽閉されていた。石碑がある。
徳川家重1711-61
 9代将軍。吉宗の長男。虚弱で言語不明瞭。
徳川家斉(いえなり)1773-1841
11代将軍。寛政の改革を行なう。馬で品川の御殿山へ狩りに行く途中、烏を見付け、鉄砲で打った。かなり重い鉄砲を片手で打てるだけの力があった。

 挙兵
1536
豊臣秀吉1536-98

 秀吉の長子捨丸という名の、長男は育たないという伝説についての松本清張の考察が「古代史私注」(講談社文庫201頁)にある。
1600
姫谷焼き
 1600年代の中ごろ有田焼きの技術がもたらされて生産がはじまった。
 福山市北部、標高約四百メートルの盆地。「日本の初期色絵磁器のひとつ。色鮮やかな皿や鉢、碗は珍重された。しかし1600年代末にはすたれた」
 窯跡は1937年に県史蹟。1977年から2年間市教委が発掘。
「窯は同じ場所で築き替えられていた。いずれも山の傾斜を利用。食パンを連ねたような格好をした階段状連房式登り窯。最初に築かれた窯は半地下式の五房で構成され全長は12.8メートルあり、これを埋めて整地した上に造られたのは六房で全長16.8メートル。幅は両方とも2.3メートル。規模などから使われた期間は数十年と短く、大量生産できないことがわかった。だが、どうしてこの地に伝わり、なぜ消滅してしまったかなど、多くはいまだ解明されない。福山藩主の水野家が入封の後に窯が造られ、断絶の前後に生産されなくなったのも疑問を呼ぶ。当時、色絵の赤をだすのが陶工たちの夢だっただけに「鮮やかな赤色はお姫さんの血を使ったから姫谷焼きの名がついた」との伝説も残る。ただルーツだけは、窯の構造や焼く時に使われた窯詰め道具、生産された磁器の形や色絵のデザインなどから有田焼のと流れをくんでいるとされる。有田焼きに比べ材質や窯の焼き上げ温度などの違いから、黄色味を帯びているのが特徴だ。」
約100点が現存。
「色絵石榴文中皿」直径17.5センチ。
「色絵飛雲桃文輪花中皿」直径18.7センチ。 以上「朝日新聞」1993.9.25.

1748
菅茶山 1748ー1827(寛延1-文政10)
 江戸後期の儒者、漢詩人
名は普師、通称太仲
京都二出て、那波魯堂に学ぶ。
そのご郷里で黄葉夕日村塾。
1801年福山藩に仕官。
一時頼山陽は塾頭。
著書「室町志」「福山志料」「黄葉夕日村舎詩」
 菅茶山
備後神辺川北村 庄屋で酒造業、農業を営む家に生まれ、俳諧をたしなむ父、医学漢籍に通じ和歌・狂歌をよくした叔父高橋慎庵の感化で学問を志す。19才で上京。古文辞学、朱子学を学ぶ。詩社混沌社に出入りし、多くの学者・文人と交遊するうち「当代の詩人で茶山ほどの人はいないだろう」と評判をとる。


 1796年(寛政4年)
 塾と塾付きの土地を藩に献じて郷塾として、講釈中心の教育をほどこした。茶山の名声は全国に広まる。

1780

頼山陽1780ー1832(安永9ー天保3)江戸後期の儒者・詩人・歴史家。春水の子。大阪生まれ。生後1年で広島藩儒となった父にともなわれ広島に移る。柴野栗山に「通鑑綱目」を学び18才のとき江戸にでて、尾藤二洲に経学、国史を学ぶ。翌年帰藩。一時脱藩の罪により自宅に閉居。のち京都に出て、篠崎小竹、梁川星巌、大塩平八郎らと交わる。子供の頼三樹三郎は安政の大獄で刑死。山陽の祖父竹原の紺屋又十郎の生涯の願いは、①瓦葺きの家に住むこと。②諸国を遊覧すること。③子孫を学者にすること。の3つ。子供の三兄弟、春水、春風、杏平をつぎつぎと大阪へ遊学ささ大成させた。

吉田松陰1830-59
 杉常道の次男。

 安政の大獄により江戸伝馬町の牢で刑死。 一瞬の輝きであった。それも特大の稲妻のようなものだ。
 死を前にした十日前の手紙に言う。
「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格出来申さず、非常の変に立到り申し候。さぞさぞ愁傷も遊ばさるべく候。」
 言葉を信じ、行動を信じる人間の明確すぎる論理がある。
 死を恐れる理由など、これっぽっちもなかった。純粋な自己の信念に従って生きることに至上の価値を置いている人間のみが味あうことのできる喜びと陶酔があった。っそしてそれ故にその魂は不死となった。葉

橋本左内1834-59
 福井藩士。1849大阪に出て、緒方洪庵に医学・洋学を学んだ。
 将軍継嗣問題では福井藩主・慶永を助けて一橋慶喜擁立に努力した。
 安政の大獄で斬首。取り調べのとき、役人をからかいすぎたとも言う。

1863年
 六卿都落ち。三条実美らは京都を追われて長州に落ちのびる途中鞆に立ち寄った。保命酒醸造元の中村屋に宿泊した。
 軍議を開いたり、浅野藩にあてて手紙を書いた。
 中村屋は入り母屋造り二階建の本宅の中に一階にある床の間付きの十五畳広間、6畳の和室。三条に同行した公家が感謝を込めて贈った掛け軸「七卿落図」。また「三条公履歴」。部屋から庭園が見える。
7月二十四日。未明。芥川龍之介が亡くなった。雨が降っていた。
 芥川比呂志は八歳だった。竹垣を乗り越えて入ってきた新聞社のカメラマンは、比呂志と弟の多加志を狙って写真をとった。多加志はとうとう泣きだした。
 翌日の新聞には写真が載り遺児と呼ばれた

1939年。昭和14年
。アメリカ日米通商条約の破棄を通告してきた。これは支那事変のためである。

1940年
 6月にドイツによってフランスが降伏した。これを見たん日本は、フランスの手が出ないということをこの上ない機会ととらえフランス領インドシナの北部へへ進駐した。

1941年。昭和16年。
 外務大臣松岡洋右イタリア、ソ連を訪問して、その帰途日ソ中立条約を結んだ。
 これによって北の脅威を一先ず押さえ、いよいよ戦争突入の準備はととのえられた。
 さっそく、前年進駐していた北部フランス領インドシナに続いて南部フランス領インドシナへ進駐した。
 これにより、石油、ゴム、スズが確保できた。

昭和四十五年十一月二十五日。秋にしては温かくよく晴れていた日だったと思う。


1863年(嘉永6年)
ペリー来航。
勝海舟31才。
 23才ころ蘭学を始める。他に剣と禅を学。蘭学の力で兵学を学ぶ。

1855年(安政2年)
 長崎にて新式海軍術の伝習はじまる。ん
1860年(万延元年)
 カン臨丸派遣。
1863年(文久3年)
 8月。このころから尊皇攘夷運動下火に。
1864年(元治元年)
 勝海舟、軍艦奉行二千石取りとなる。


1866年(慶応2年)
 勝海舟、再び軍艦奉行となる。

1867年(慶応3年)
10月幕府、大政奉還。薩摩・長州に「倒幕の密詔」 
12月「王政復古の大号令」

1868年
3月勝海舟、西郷隆盛と会談して江戸城無血開城。り
「維新の新政府の有力政治家の多くは……彼らは東京を主張先、腰掛け……郷里の糟糠の妻を呼び寄せなかった。そこに……幸田露伴が「一国の首都」で怒りをこめて指摘した」 奥野健男「三島由紀夫伝説」(28)

明治39年
 内務大臣原敬、地方官大更迭


1925年(大正14年)
 ヒトラー「マイカンプ」書き始める。
 トロッキー解任。スターリン独裁。
 孫文死す。

1929年(昭和4年)
 ウォール街の株の大暴落。
昭和7年
 上海事変、血盟団事件、五・一五
昭和8年
 神兵隊事件


昭和11年
 二・二六事件
昭和12年
 支那事変

昭和13年
 近衛、大東亜新秩序宣言

1940年(昭和15年
 新体制運動


1941年(昭和16年
  太平洋戦争

1943年(昭和18年
1944年(昭和19年
1945年昭和20年
 敗戦
 満州の赤い鷲
第一話 張作霖救出指令
    (暗殺阻止)

「張作霖を暗殺しようという計画がある。それを阻止するのが、当面の問題だ」
 若槻五郎が、淡々と言ったとき、百合子はやはり来たか、と思った。
「その、暗殺計画はつかんでいるの?」
「いや、皆目わからない。でもそういう計画があるということは確かなんだ。だから、その計画を事前に掴むとともに、作戦を巧妙に阻止するんだ」
 1928年6月のことだった。6月の満州は初夏である。広くどこまでも続く大陸のあちこちにアカシアの花が赤い花を咲かせている。
 若槻五郎は日本領事館の三等書記である。三等書記官というのは表向きのことで、東亜友好協会の工作員であった。
[ノンフィクション]張作霖
 1928年6月奉天近くの列車内で日本軍によって暗殺された。満州事変に先立つ事件である。日中関係の悪化は既に始まっていたとはいえ、さらにそれに拍車をかけた事件であった。
 多くの点でこの事件は日中戦争のはじまりともいうべき大きな事件であった。
 その一つは、大江志乃夫が述べているように天皇の統率権をふみにじった最初の事件であったということである。大江によれば、軍隊は、もちろんこんときの軍隊だけでなくいつの時代の軍隊でも同じことであろうが、命令系統のもとに統率されており、いかなる小隊といえども勝手に作戦遂行することは許されていない。それがこの張作霖爆殺においては、関東軍が郡発
[背景]

[登場人物]
◎孫文(1866~1925)
1894年ハワイで興中会結成
1895年10月、広東で最初の蜂起
   学生、民族資本家、華僑を
   『馬賊』P.29
1896年9月ロンドン
   『馬賊』P.30
1899年 2度目の来日
   『馬賊』P.31
1905年8月 東京
   興中会・華興会・光復会などが結集し、中国革命同盟会が結成。
    『馬賊』P.44
1911年 辛亥革命
    『馬賊』P.46
1912年臨時大総統
    『馬賊』P.51
1919年5月4日 北京大学学生三〇〇〇人が二一ヵ条撤廃のスト
1921年中国共産党成立
1924年 第一次国共合作
    『馬賊』P.49
1925年3月
 「北京において肝臓癌で死ぬ。」
    『馬賊』P.88
◎エン世凱1859~1916
  エン世凱は軍閥の指導者であったとき、孫文に対抗して起用された。
 エンは革命軍が武力・資金の乏しいのを知った。このとき、蒋介石に、清帝の退位を条件に大総統になることを密約させた。
「野心のかたまりのようなタフな男で……
 詳しく」『馬賊』P.51
1912年2月、宣統帝(1908~12)は退位し清、滅ぶ。
 3月エン世凱臨時大総統に就任。
 国民党を弾圧。
    『馬賊』P.51 
    『馬賊』P.57
1913年第二革命失敗
◎川島芳子(東珍トンチェン)
    『馬賊』P.52、71
◎薄益三(天鬼テイエンコエイ)
 日本人馬賊。『馬賊』P.53
◎山本菊子
 女馬賊、「満州お菊」
       『馬賊』P.55
◎伊達順之助 (張宗援)
 張作霖の第1の子分・張宗昌将軍に負傷させた。  『馬賊』P.74
 出口王仁三郎と会う。
     『馬賊』P.82、87
◎尚旭日(小白竜シャオパイルン)
     『馬賊』P.77~、87、89◎松本要之助
「モーゼル、コルト、なかでもブロージなどを愛用した」『馬賊』P.83
 1903年小樽生まれ。「日本軍諜報機関の雑役のような仕事をする。」
     『馬賊』P.84~86
◎蒋介石
1927年クーデター『馬賊』P.50
1927年4月南京入場。南京国民政府樹立。      『馬賊』P.89

◎張作霖1873~1928チャンツオリン 中国の軍閥。はじめ馬賊の頭目であったが次第に勢力を拡大して1916年(43才)奉天督軍兼省長となり、19年までに満州全部を支配下におく軍閥に成長、日本の援助を得て中央進出を企てた。日本政府は21年5月、満豪権益拡大のため張作霖援助の方針を決めたが、張の中央進出を好まなかった。しかし、張は閣内諸軍閥との抗争を繰り返し27年大元帥と称して北京政府の実権を握ったが、国民政府軍(蒋介石軍)の北伐に敗退し、奉天への帰途関東軍参謀らにより爆破されて死去した。
「民間自衛組織の一環としての馬賊ということになる。張作霖は奉天・吉林を中心にして……」『馬賊』P.23
「ロシア側には張作霖がいた」
   『馬賊』P.37
「張作霖のごときは多分に政治的・謀略的要素をもっていて……以下かなり詳しく」
   『馬賊』P.39~41
1916年7月1日パブジャップの乱
   『馬賊』P.73
1919年
 直隷派は奉天の張作霖と結んで安キ派に対立した。「世界の歴史21 中国の革命」(講談社)P.204
1922年
 「山海関をこえて北京、天津付近に軍隊を駐屯させた。」 「世界の歴史21 中国の革命」(講談社)P.204
 長辛店で破れ、山海関まで退却(第一奉直戦争)  『馬賊』P.81
「このどさくさの最中伊達順之助は奉天の張作霖邸を訪ねた。」『馬賊』P.81
1924年夏・華南
 張作霖。大軍を山海関と熱河にくりだした。       『馬賊』P.87
1924年10月23日
 北京入場。『馬賊』P.88
1925年1月
  郭松齢の反乱。張作霖かろうじて脱出。      『馬賊』P.88
1926年 安国軍総司令になる。
      『馬賊』P.89
1927年4月頃
 「北京に入りて大元帥となる」
      『馬賊』P.89

 しょうかいせきの「南京国民政府は武漢国民政府と合体して張作霖らの軍閥打倒に踏み切った」
      『馬賊』P.89

1928年4月
 第二次北伐決行(蒋介石が張作霖らの軍閥を追う)『馬賊』P.89
1928年4月
 「北京にいた張作霖は、国民革命軍が天津のすぐ近くに迫っているときいて、奉天に戻ろうと決意した。そしていろいろ思案していた。」『馬賊』P.90
1928年
「一方、満州においては、日本の関東軍が、外国資本をもって満鉄包囲線を作り、日本勢力を駆逐しようとしてきた張を、すこぶるにがにがしく思っていた。チャンスがあれば張をたおそうと決定していた。」
    『馬賊』P.91
1928年5月15日
 満鉄総裁・山本条太郎北京で張作霖と別れる。  『馬賊』P.92
「その頃、北京在留邦人間に「二一日会というのがあった。公使、駐在武官を含めての公使館幹部、会社支店長、北京政府顧問。新聞特派員などが月21日に大和クラブに集まって」    『馬賊』P.92
「6月4華の払暁、貴賓車、展望車、食堂車、寝台車を連結した列車がいよいよ奉天に近づき、京奉・満鉄両鉄道鉄道の交サ点の陸橋お通過した。瞬間、突如、爆破された。張は展望車のなかで即死した。
 張作霖爆殺計画の直接の指導者は、関東軍高級参謀の河本大作大佐である。かれは「張作霖頼むに足らず、政府の狐疑逡巡は国策を誤るもの」と断じて、計画をごく少数の腹心だけにうち明け、その実行方法を工夫していたのである。。すなわち工兵隊をして極秘裡に陸橋脚上に仕込ませる一方、……
      『馬賊』P.93~94

粕正彦
 関東大震災当時は憲兵大尉。懲役10年となるが、刑期を3年にして出獄。満州に渡り、満州事変後は満州国協和会幹部となった。田中義一1863ー1929
 1931年満州事変のさいもその近くにいる。『馬賊』P.101、102

 山東出兵を強行。張作霖曝死事件の前後処置をめぐり総辞職。9月病死。


[概略]
 反日運動が続く満州。中国人が日本人軍隊に乱暴される。
 反日運動の一つのグループに正義にあふれた英雄が出現する。「赤い鷲」のグループである。反日運動を中心に行なっているが首領は日本人の大使館員であり、日本人の味方でもある。


事件1 1928(昭和3)5月   済南(サイナン)事件
事件2 1928(昭和3)張作霖暗殺阻止。失敗に終わる。
事件3 29年一月10日張学良、楊宇霆・常蔭槐を射殺する。
事件4 29年12月28日(旧暦)
 尚旭東、奉天占領未遂事件

 どこまでも続く地平線
 夕日が真っ赤に染まって沈んでいく。
 冬はマイナス四十五度にもなる
[時代]
1906年11月
 南満州鉄道創立
   『馬賊』P.43
1916年7月1日
 パブジャップの乱
   『馬賊』P.71
1926
 「北伐」軍が総計十万の兵を八軍にわけ三つのコースをとって北上した。いわゆる「国民革命」
 尾崎秀樹「上海1930年」(岩波新書)p.20
1926年上海
 谷崎潤一郎、内山完造の書店で郭沫若らと会う
1927年 中国
四月 
蒋介石 南京入城、南京国民政府樹立 広東革命を引き継ぐ武漢政府と対立

張作霖 大元帥と称して北京政府の実権を握った。
北京にいた張作霖は国民革命軍が天津のすぐそばに迫っていると聞いて、奉天に戻ろうと決意した。そしていろいろ思案した。
 5月十五日
 6月四日
1927年上海
 佐藤春夫、内山完造と会う。
     「上海1930年」p.32
1927(昭和2) 
 蒋介石、国民党政府を南京にたてる。
 田中内閣、山東出兵(第一次)を行なう。
 「対中国積極政策を標榜して、中国国民革 命軍の北上を妨げるため在留邦人保護の名 目で強行」
 「済南には2200名、青島には12000名の日本人がいた」『馬賊』P.91

 東方会議開かれる。(6月27~7月7)1928年 2月
  郭沫若、妻子とともに日本に亡命
     「上海1930年」p.33  1928(昭和3) 
 2月蒋介石が復職。国民党軍、北伐再開(4月には山東省に至。
 4月19日 田中内閣、再び山東出兵(第二次)決定。熊本の第六師団に出動命令。 4月 奉天総領事、吉田茂から林久治郎に変わる。
 5月済南(サイナン)事件起こる。
 (日華両国軍隊の衝突)
 「中国山東省済南に起こった日本軍と蒋介 石に率いられた国民政府軍との武力衝突事 件。4月、北伐を再開した国民政府軍は5 月済南に入城、当時山東に出兵していた日 本軍が防壁を築いて軍事行動を妨害したし たため、国民政府軍は内政不干渉・防壁撤 去を要求。防壁撤去後、日本軍は警戒区域 境界線を通過した国民政府軍兵士を射殺。 、総攻撃を開始、同時に日本政府は第3次 山東出兵を声明、一方国民政府は国際連盟 に提訴したため、29済南事件に関する協 定が成立し、日本は撤兵した。」(日本史辞典)
 「5月1日済南で日本軍と北伐軍が直接に向かいあう……」(『張作霖爆殺』p.1 2)
 5月16日(東京)「満州地方の治安維持に関する措置案」閣議決定。
 『張作霖爆殺』p.13)
『馬賊』P.91 
 5月17日 閣議決定、田中首相兼外相より天皇に奏上。
 5月18日 覚え書き、張作霖と南京政府に通告。
6月3日
「川合貞吉は李宗仁やショウカイセキを見かけ、外交部へ訪ねてゆくが、応対したのは張群だった。北京を去る張作霖の列車を駅で見送ったが、その直後張作霖は爆殺された」
  『上海1930年』p.120

「内務省北京駐在の調査機関にいた陸士出身の小松重雄や(中略) 小松は川合より一足早く北京(爆殺の)を去り上海へ向った」
  『上海1930年』p.120
 6月4日早朝 関東軍、張作霖暗殺する。1928年12月末
 アグネス・スメドレー中国入り。29年元旦ハルビン到着。青天白日旗がかかげれていた。29年5月上海入り 29年末尾崎秀実と会う。  『上海1930年』p.48
1929年5月
  孫文の遺骸が南京の中山陵に移されたとき尾崎秀実は取材に行った。
 犬養毅、健、頭山満、宮崎竜介に会う。
     「上海1930年」p.43  1929年11月 支那公使佐分利貞夫が箱根宮の下のホテルで殺される。
  『上海1930年』p.43
1930年1月 ゾルゲ上海に到着。
  『上海1930年』p.152
「昭和5年十月か十一月頃から私(尾崎秀実)のもとに、鬼頭銀一なるものが出入しはじめました」
  『上海1930年』p.164
1930年12月1日
 日中戦争すなわち満州事変の原因は満鉄の危機に原因がある。おりからの世界恐慌のあおりを受ていたところに中国側の満鉄包囲網が計画され、膨大な投資をしてきた満鉄が危機におちいることがあきらかになった。これは1930年12月1日の大阪朝日新聞のトップに書かれた。
 (岩波講座世界史27巻215頁)
1931(昭和6)
 柳条溝事件起こる。(満州事変)
1931年1月23日
 松岡洋右(前満鉄副総裁、政友会)衆議院本会議での演説で「日本の生命線」という。  (岩波講座世界史27巻210頁)
1932年1月28日
 上海事変起こる。この日は南京政府と広東政府の合作が成立した日でもある。
  『上海1930年』p.184
1932年1月
 玉井組(火野葦平)五〇人の仲仕とともに上海へ派遣される。「日本の文学51(中央公論社)P.534

1932(昭和7)
 血盟団事件が起こる。
 満州国が独立する。
 5・15事件が起こる。
1933(昭和8)
 国際連盟を脱退する。
 京大事件が起こる。
1934(昭和9)
 満州国帝政を実施する。
 ワシントン条約を破棄する。

[中国の状況]
 1911年(明治44)の辛亥革命の後、内乱が絶えず、軍閥は各地に割拠して


 日中戦争
 当時のことが小林秀雄全集4の社会時評の項に出てくる。昭和一三年の二月頃か。 眼鏡やと歯医者が一緒になっている。
 長崎から船が出てヨウスコウへ行く。
 見せ物や、不具の子供。
 蘇州ではタンポポの綿毛が舞う。秀雄全集四・P.956
 「日本の文学51(中央公論社)P.535 火野葦平の「麦と兵隊」(これは1938 年5月の余州会戦)等の著作


 4・12クーデタ当時
 郭沫若、国民党軍政治部副主任


他の参考
 「道教と拳法」
     『馬賊』P.79
[参考文献]
渡辺龍策『馬賊』(昭和三九年、中央公論社)
大江志乃『張作霖爆殺』中央公論社一九八九年
檀一雄『夕日と拳銃』



 中国年代記

前210 始皇帝死す。


前209年 陳勝・呉広の乱。


項羽前232~前202
 楚の名将の子孫。


劉邦
 農民の子。
前206年劉邦、秦を滅ぼす。項羽と対決する。民心をうまくつかんだ劉邦が優勢になった。前202年、漢がはじまる。首都を長安とした。

 ヨーロッパ年代記

前332年 アレキサンダー大王エジプト制服。
 エジプトは紀元前三千年ごろファラオが統一国家とした。その後三十一の王朝が興亡した。

 アレクサンダーは32歳で急逝。


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