姫谷焼き
1600年代の中ごろ有田焼きの技術がもたらされて生産がはじまった。
福山市北部、標高約四百メートルの盆地。「日本の初期色絵磁器のひとつ。色鮮やかな皿や鉢、碗は珍重された。しかし1600年代末にはすたれた」
窯跡は1937年に県史蹟。1977年から2年間市教委が発掘。
「窯は同じ場所で築き替えられていた。いずれも山の傾斜を利用。食パンを連ねたような格好をした階段状連房式登り窯。最初に築かれた窯は半地下式の五房で構成され全長は12.8メートルあり、これを埋めて整地した上に造られたのは六房で全長16.8メートル。幅は両方とも2.3メートル。規模などから使われた期間は数十年と短く、大量生産できないことがわかった。だが、どうしてこの地に伝わり、なぜ消滅してしまったかなど、多くはいまだ解明されない。福山藩主の水野家が入封の後に窯が造られ、断絶の前後に生産されなくなったのも疑問を呼ぶ。当時、色絵の赤をだすのが陶工たちの夢だっただけに「鮮やかな赤色はお姫さんの血を使ったから姫谷焼きの名がついた」との伝説も残る。ただルーツだけは、窯の構造や焼く時に使われた窯詰め道具、生産された磁器の形や色絵のデザインなどから有田焼のと流れをくんでいるとされる。有田焼きに比べ材質や窯の焼き上げ温度などの違いから、黄色味を帯びているのが特徴だ。」
約100点が現存。
「色絵石榴文中皿」直径17.5センチ。
「色絵飛雲桃文輪花中皿」直径18.7センチ。 以上「朝日新聞」1993.9.25.
目明かし忠庵
世の人たちは忠庵先生のことを、目明かし忠庵とさげずむが、まだ医術の未熟な当時において、ポルトガル流の医術をわが国に伝授した大功労者であるのは確かなことである。その南蛮流医術と呼ばれた先生の方法は、我々門人のみならず『南蛮流外科秘伝書』として、広く江湖の師に資したのである。また、先生が訳述編集『乾坤弁説』は遠く泰西の新しい暦学を伝えのである。
目明かし忠庵こと沢野忠庵先生は、クリストヴァン・フェレイラと称し、1580年ポルトガルのトレス・ベトラスに生まれた。耶蘇教徒となられたのは、16才のときで、その後、コインブラ大学で学業を了えた後、自ら東洋への布教を希望して、マカオを経て渡来したのは1610年のことである。
忠庵は、日本に来る前に滞在した神の御名の都市のことを思い出した。マカオのことである
参考資料
伊藤俊太郎編『現代科学思想事典』(講談社新書)204p
東光博英『マカオの歴史』大修館書店
1748
菅茶山 1748ー1827(寛延1-文政10)
江戸後期の儒者、漢詩人
名は普師、通称太仲
京都二出て、那波魯堂に学ぶ。
そのご郷里で黄葉夕日村塾。
1801年福山藩に仕官。
一時頼山陽は塾頭。
著書「室町志」「福山志料」「黄葉夕日村舎詩」
菅茶山
備後神辺川北村 庄屋で酒造業、農業を営む家に生まれ、俳諧をたしなむ父、医学漢籍に通じ和歌・狂歌をよくした叔父高橋慎庵の感化で学問を志す。19才で上京。古文辞学、朱子学を学ぶ。詩社混沌社に出入りし、多くの学者・文人と交遊するうち「当代の詩人で茶山ほどの人はいないだろう」と評判をとる。
1796年(寛政4年)
塾と塾付きの土地を藩に献じて郷塾として、講釈中心の教育をほどこした。茶山の名声は全国に広まる。
1780
頼山陽1780ー1832(安永9ー天保3)江戸後期の儒者・詩人・歴史家。春水の子。大阪生まれ。生後1年で広島藩儒となった父にともなわれ広島に移る。柴野栗山に「通鑑綱目」を学び18才のとき江戸にでて、尾藤二洲に経学、国史を学ぶ。翌年帰藩。一時脱藩の罪により自宅に閉居。のち京都に出て、篠崎小竹、梁川星巌、大塩平八郎らと交わる。子供の頼三樹三郎は安政の大獄で刑死。山陽の祖父竹原の紺屋又十郎の生涯の願いは、①瓦葺きの家に住むこと。②諸国を遊覧すること。③子孫を学者にすること。の3つ。子供の三兄弟、春水、春風、杏平をつぎつぎと大阪へ遊学ささ大成させた。
吉田松陰1830-59
杉常道の次男。
安政の大獄により江戸伝馬町の牢で刑死。 一瞬の輝きであった。それも特大の稲妻のようなものだ。
死を前にした十日前の手紙に言う。
「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格出来申さず、非常の変に立到り申し候。さぞさぞ愁傷も遊ばさるべく候。」
言葉を信じ、行動を信じる人間の明確すぎる論理がある。
死を恐れる理由など、これっぽっちもなかった。純粋な自己の信念に従って生きることに至上の価値を置いている人間のみが味あうことのできる喜びと陶酔があった。そしてそれ故にその魂は不死となった。
不死を夢見たのでは無い。現実に体当たりすることに無情の情熱を捧げた男の、魂が、歴史というものに、体当たりしただけである。その体当たりして、松陰の肉体は伝馬町に砕け散った。しかし、ほんとうに砕け散ったのは、どちらであっただろうか。
橋本左内1834-59
福井藩士。1849大阪に出て、緒方洪庵に医学・洋学を学んだ。
将軍継嗣問題では福井藩主・慶永を助けて一橋慶喜擁立に努力した。
安政の大獄で斬首。取り調べのとき、役人をからかいすぎたとも言う。
1863年
六卿都落ち。三条実美らは京都を追われて長州に落ちのびる途中鞆に立ち寄った。保命酒醸造元の中村屋に宿泊した。
軍議を開いたり、浅野藩にあてて手紙を書いた。
中村屋は入り母屋造り二階建の本宅の中に一階にある床の間付きの十五畳広間、6畳の和室。三条に同行した公家が感謝を込めて贈った掛け軸「七卿落図」。また「三条公履歴」。部屋から庭園が見える。
1863年(嘉永6年)
ペリー来航。
勝海舟31才。
23才ころ蘭学を始める。他に剣と禅を学。蘭学の力で兵学を学ぶ。
1855年(安政2年)
長崎にて新式海軍術の伝習はじまる。ん
1860年(万延元年)
カン臨丸派遣。
1863年(文久3年)
8月。このころから尊皇攘夷運動下火に。
1864年(元治元年)
勝海舟、軍艦奉行二千石取りとなる。
1866年(慶応2年)
勝海舟、再び軍艦奉行となる。