2019年7月20日土曜日

2003年1月


2003年(平成15年)
  
2003年1月1日。 水曜日。晴れ。
 はじめて福山で元旦を迎える。娘は風邪気味。
  昼過ぎ、総社の義姉。泰年君と、高屋の義母とともに来る。

2003年1月2日。 木曜日。晴れ。
 昼に雑煮。年賀状の返事。秀蔵の部屋の片づけ。夜、92年に卒業した生徒のクラス会。120名ほど集まった。

2003年1月3日。 金曜日。雨。
  午後、年賀状を書く。

2003年1月4日。 土曜日。晴れ。
 8時半に起きる。パンを食べる。新聞を読んでから髭を剃る。10時過ぎ、庭の掃除を少しする。二階へ上がって年賀状の返事を書く。
 昼食後再び、年賀状の返事を書く。完了すると更に配達されていたので、返事を書いて終わる。3時頃から5時頃まで昼寝。
 夕食は、おせちの残りとハム。夕食後歩く。寒い。15分ほど歩いて帰る。
  インターネットディスクをインスツール。同期をとり元に復す。
  由起子の英語の勉強も見ることにした。
 「オール読み物」の2002.6月号で、小池真理子の「虚無のオペラ」の1回目を読む。また、伊集院静の「眠る鯉」を読む。これはいい短編である。

2003年1月5日。 日曜日。晴れ。
 雪が積もっている。7時半に目が覚める。8時半からパンを食べる。寒い。炬燵で新聞を読む。10時に二階に上がる。
 10時で4.4度。寒い。
  午後昼ご飯を食べてから1時間ほど昼寝。年賀状が来たので返事を書く。
  「オール読み物」7月号で西村京太郎の連載や笹沢佐保の「麗しき吸血」を読む。
   夜、大変寒い。

2003年1月6日。 月曜日。晴れ。
  7時半に起きる。たまっている可燃ゴミを捨てる。8時半に学校に着く。仕事始め。 
 午後も行く。
   2220分に二階に上がると6.1度。昨日ほどではない。

2003年1月7日。 火曜日。晴れ。
 6時半に起きる。二人が始業式。
 10時前に出て、郵便局によってから行く。

2003年1月8日。 水曜日。晴れ。
  10時前に行く。会議資料を作る。昼に帰って食べる。
 植木のゴミを整理。



2003年1月9日。 木曜日。晴れ。
 5時15分に起きて二階に上がる。6.5度。

2003年1月10日。金曜日。晴れ。
 5時に起きるも、5時35分に二階に上がる。昨日と同じく6.5度。
   メールを見て、『サイボーグ・ブルース』を少し読む。6時10分に降りて、ゴミを出し。
    夜一人で30分ほど歩く。

2003年1月11日。土曜日。晴れ。
 平井和正『サイボーグ・ブルース』(角川文庫)終わる。すごい才能だ。Nature 1月2日号届く。
 昼前に石井皮膚科に行く。
 部屋の壁に化粧ベニヤを貼る。一枚で終わる。少しずつやる。
 夜、三人で歩く。
  「オール読み物」7月号で小池真理子「虚無のオペラ」、光原百合「十八歳の夏」を読む。

2003年1月12日。日曜日。晴れ。
 八時半に起きる。日が照っていいお天気。二階に上がると1015ふん。
  「オール読み物」8月号で、西村京太郎「祭ジャック・京都祇園祭」を読む。
  学校へ。
 部屋の壁に化粧ベニヤを貼る。その後、娘の部屋の拡張。
   夜、「オール読み物」8月号で「虚無のオペラ」を読む。

2003年1月13日。月曜日。晴れ。
 5時半に目が覚めるが、寒いので布団の中で本を読んでいるとすぐに寝てしまった。やはり起きなければだめだ。
 次に目が覚めたのは、8時半。 
 「オール読み物」8月号で、加納朋子の「夢の家のアリス」を読む。なかなか才能のある人だ。
 左の背中かと腹の間くらいが痛む。今までもビールを飲んだ次の日に時々軽く痛んでいたところだ。しかし、今回のはひどい。3日間連続してビールを飲んだのがいけなかったのだと思う。
 一人で少し歩く。早く寝ることにする。
  11時20分に寝る。

2003年1月14日。火曜日。晴れ。
 4時半頃目が覚める。起きたのは5時45分。だいぶ背中の痛みは引いている。朝食べようか食べまいかと悩む。軽く食べて体力をつけて、ビールをやめておけば直ると思う。
  「オール読み物」9月号で西村京太郎「祭ジャック・京都祇園祭」を読む。6時17分になった。これから下に降りる。
   夜は9時まで。

2003年1月15日。水曜日。晴れ。
 6時に起きて二階に上がると6度。風も吹いている。寒い一日になりそう。
 「オール読み物」9月号で「虚無のオペラ」読む。6時20分に下に降りる。
   出願料3万円を銀行から払い込む。
  12時から会議。6限が授業。
  夕食が終わってからネーブルを食べた頃から背中がまた少し痛くなる。食べ過ぎるとよくないのか。ワッフルも食べたのがいけないのか。
 ワトソンクリックの論文を由起子に読ませる。
  「オール読み物」10月号で「虚無のオペラ」読む。連載終了。
  

2003年1月16日。木曜日。晴れ。
 5時半に起きる。やや背中が痛い。5時35分で2.3
  「オール読み物」10月号で西村京太郎「祭ジャック・京都祇園祭」を読む。
   背中の痛みは少し薄らぐが咳をすると答える。13日ほどは痛くはないので大丈夫だと思う。


2003年1月17日。金曜日。晴れ。
 6時に起きる。4。20分に下に降る。
 「オール読み物」11月号で西村京太郎「祭ジャック・京都祇園祭」を読む。連載終了。

2003年1月18日。土曜日。晴れ。
 センター試験。明け方雨か。 
 5時に起こる。少し本を読んでから、6時40分に出て、東福山駅へ送って行く。

  「オール読み物」11月号でオール読み物推理小説新人賞の朱川湊人の「フクロウ男」を読む。あまり推理小説にはなっていないが、おもしろかった。単なる犯罪小説である。
   亜希子の部屋にあった本棚を下の倉庫に移す。
   日下君から『クローン人間』送ってくる。

2003年1月19日。日曜日。晴れ。
 5時過ぎに起きる。昨日と同じように、由起子を送る。亜希子を8時過ぎに送ってから寝る。昼に雨が降る。
  亜希子と秀蔵の部屋の坂井の欄間障子の上にベニヤ板を貼る。
  夕方古本市場へ。

2003年1月20日。月曜日。晴れ。
  6時に二階に上がる。7.5。眠い。
 9時過ぎに帰る。

2003年1月21日。火曜日。晴れ。
 入試作業はじまる。

2003年1月22日。水曜日。晴れ。
 7時過ぎに帰る。
  
2003年1月23日。木曜日。晴れ。
 9時過ぎに帰る。
  
2003年1月24日。金曜日。晴れ。
 4時に目が覚める。5時に二階に上がる。5.8。昨夜冷えた割には今朝は寒くない。5時半まで『クローン人間』読む。
  7時前に帰る。
  12時前に寝る。

2003年1月25日。土曜日。晴れ。
 7時半に起きる。
  
2003年1月26日。日曜日。曇り。午後雨。
 朝因島へ。昼過ぎ帰る。
 『クローン人間』終わる。
   12時前に寝る。

K様
福山は朝から曇りがちで寒い日になりました。それに午後から雨になり、益々寒くなりました。
『クローン人間』拝読致しました。まずその構成の妙に感心致しました。クローン動物の研究の概観と生殖医療、それに法律と規制によって、今何が問題なのかということがよくわかりました。基礎的なところを、きちっと書いておられるので、大変読みやすくなっていると思います。
内容的にも豊富で大変有益な知識を得たように思います。
最後のところに書かれておられますように、やがては生殖医療の一部として定着してしまうのではないかという見通しに同意する、結論のようにに達するように


2003年1月27日。月曜日。雨。
 4時半に目が覚めるが起きれない。やはりもっと早く寝なければ。
 6時に二階に上がり6時20分から弁当を作る。

  
K様
 昨日の午後から雨が降って、寒い日が続いております。お元気でご執筆にご精進のことと思います。
 遅くなりましたが、『クローン人間』拝読致しました。とても素晴らしい本で、教えられるところの多い本でした。哺乳類のクローンの話と、生殖医療の話、それにES細胞との関連で、現代のわれわれが置かれている状況がよく理解できます。その上でクローン人間の問題を考えるという展開は最も当たり前なように見えて、専門家以外はこのようには考えなくて、ただクローン人間を作ることだけの是非を考えているのが現状ではないかと思います。小生自身がそういうものと切り離して考えていました。特に生殖医療の発展の流れ中で考えると、やがては当たり前になる技術なのかと、終章で述べられておられることに納得してしまいます。
 それにしても多方面の知識を簡潔にまとめておられるのには、感心致しました。それにNatureなどの論文の紹介やコメントにはほんとうに驚きました。小生にはひとつひとつをチェックする能力はありませんから、ただ書かれておられることを信じるのみですが、最近のものまでよくフォローされてそれを要領よく整理されている上、統計的数値や法律までも同じ調子で俎上に載せておられるのにも驚き感心致しました。
 それでは、おもしろいかというと、それは読者の興味関心しだい、ということになると思います。生物系の大学生やバイオ系の会社に勤めている文系出身の人間などにも、おもしろく読めると思います。小生にもおもしろく読めました。
 次に、貴君の小説の愛読者は、というと、これは小生の感想でもあるわけですが、「神の手」の作者の背景の奥深さを知って、別のバージョンのクローン人間小説を読んでみたいと思うのではないでしょうか。また、『超人計画』の主人公のモノローグが小手先細工などではなく、深くて広い知識をもった作者の表現だということ知ると思います。
 多方面に深い穴を穿ってこられた貴君が、またもさらに新しい穴を掘ってみせたのですから、次の小説に否が応でも期待せざるを得ないと、『クローン人間』を読みつつ思っておりました。
  とりとめのないことを書いてしまいました。
 おかげで、いい読書体験をさせて頂きました。あらためてお礼とともに、素晴らしい本の上梓を心よりお喜びしたいと思います。
 お忙しい日々を送っておられることとは思いますが、機会がありましたら、また直接お目にかかっていろいろなお話をお聞きしたいものだと思っております。
  では、時節柄ご自愛下さい。

2003年1月28日。火曜日。晴れ。 
 5時40分にあがって来て7.3
  8時前に帰る。。

2003年1月29日。水曜日。雪。晴れ。 
  6時前に起きる。雪が積もっている。6時に二階に上がって3.9。やや寒い。
 大雪注意報が出ている。
   島尾敏雄『死の棘』の第一章、終わる。六時一七分になったので下に降りる。


2003年1月30日。木曜日。晴れ。
 5時40分に二階に上がって来る。1.2。石油ストーブの温度では台所も二階も0度になっている。幸い台所は水は凍っていない。パソコンのファンの音がおかしい。
  島尾敏雄『死の棘』の第二章に入る。少し読んで、六時になったので下におりる、今日は凍結しているので歩いて行くことにする。七時四五分頃には出たい。、



2003年1月31日。金曜日。晴れ。 
  5時55分に二階に上がると3.3。昨日よりはやや暖かいものの依然として寒い。

  夜、8時半に娘を迎えに行く。

2019年7月19日金曜日

年代記6

年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代 
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代〜大正
年代記7 昭和時代〜









1867年(慶応3年)
10月幕府、大政奉還。薩摩・長州に「倒幕の密詔」 
12月「王政復古の大号令」

1868年
3月勝海舟、西郷隆盛と会談して江戸城無血開城。り
「維新の新政府の有力政治家の多くは……彼らは東京を主張先、腰掛け……郷里の糟糠の妻を呼び寄せなかった。そこに……幸田露伴が「一国の首都」で怒りをこめて指摘した」 奥野健男「三島由紀夫伝説」(28)

明治39年
 内務大臣原敬、地方官大更迭



◎孫文(1866~1925)
1894年ハワイで興中会結成
1895年10月、広東で最初の蜂起
   学生、民族資本家、華僑を
   『馬賊』P.29
1896年9月ロンドン
   『馬賊』P.30
1899年 2度目の来日
   『馬賊』P.31
1905年8月 東京
   興中会・華興会・光復会などが結集し、中国革命同盟会が結成。
    『馬賊』P.44
1911年 辛亥革命
    『馬賊』P.46
1912年臨時大総統
    『馬賊』P.51
1919年5月4日 北京大学学生三〇〇〇人が二一ヵ条撤廃のスト
1921年中国共産党成立
1924年 第一次国共合作
    『馬賊』P.49
1925年3月
 「北京において肝臓癌で死ぬ。」
    『馬賊』P.88
◎エン世凱1859~1916
  エン世凱は軍閥の指導者であったとき、孫文に対抗して起用された。
 エンは革命軍が武力・資金の乏しいのを知った。このとき、蒋介石に、清帝の退位を条件に大総統になることを密約させた。
「野心のかたまりのようなタフな男で……
 詳しく」『馬賊』P.51
1912年2月、宣統帝(1908~12)は退位し清、滅ぶ。
 3月エン世凱臨時大総統に就任。
 国民党を弾圧。
    『馬賊』P.51 
    『馬賊』P.57
1913年第二革命失敗
◎川島芳子(東珍トンチェン)
    『馬賊』P.52、71
◎薄益三(天鬼テイエンコエイ)
 日本人馬賊。『馬賊』P.53
◎山本菊子
 女馬賊、「満州お菊」
       『馬賊』P.55
◎伊達順之助 (張宗援)
 張作霖の第1の子分・張宗昌将軍に負傷させた。  『馬賊』P.74
 出口王仁三郎と会う。
     『馬賊』P.82、87
◎尚旭日(小白竜シャオパイルン)
     『馬賊』P.77~、87、89◎松本要之助
「モーゼル、コルト、なかでもブロージなどを愛用した」『馬賊』P.83
 1903年小樽生まれ。「日本軍諜報機関の雑役のような仕事をする。」
     『馬賊』P.84~86
◎蒋介石
1927年クーデター『馬賊』P.50
1927年4月南京入場。南京国民政府樹立。      『馬賊』P.89

◎張作霖1873~1928チャンツオリン 中国の軍閥。はじめ馬賊の頭目であったが次第に勢力を拡大して1916年(43才)奉天督軍兼省長となり、19年までに満州全部を支配下におく軍閥に成長、日本の援助を得て中央進出を企てた。日本政府は21年5月、満豪権益拡大のため張作霖援助の方針を決めたが、張の中央進出を好まなかった。しかし、張は閣内諸軍閥との抗争を繰り返し27年大元帥と称して北京政府の実権を握ったが、国民政府軍(蒋介石軍)の北伐に敗退し、奉天への帰途関東軍参謀らにより爆破されて死去した。
「民間自衛組織の一環としての馬賊ということになる。張作霖は奉天・吉林を中心にして……」『馬賊』P.23
「ロシア側には張作霖がいた」
   『馬賊』P.37
「張作霖のごときは多分に政治的・謀略的要素をもっていて……以下かなり詳しく」
   『馬賊』P.39~41
1916年7月1日パブジャップの乱
   『馬賊』P.73
1919年
 直隷派は奉天の張作霖と結んで安キ派に対立した。「世界の歴史21 中国の革命」(講談社)P.204
1922年
 「山海関をこえて北京、天津付近に軍隊を駐屯させた。」 「世界の歴史21 中国の革命」(講談社)P.204
 長辛店で破れ、山海関まで退却(第一奉直戦争)  『馬賊』P.81
「このどさくさの最中伊達順之助は奉天の張作霖邸を訪ねた。」『馬賊』P.81
1924年夏・華南
 張作霖。大軍を山海関と熱河にくりだした。       『馬賊』P.87
1924年10月23日
 北京入場。『馬賊』P.88


粕正彦
 関東大震災当時は憲兵大尉。懲役10年となるが、刑期を3年にして出獄。満州に渡り、満州事変後は満州国協和会幹部となった。田中義一1863ー1929
 1931年満州事変のさいもその近くにいる。『馬賊』P.101、102

 山東出兵を強行。張作霖曝死事件の前後処置をめぐり総辞職。9月病死。


[概略]
 反日運動が続く満州。中国人が日本人軍隊に乱暴される。
 反日運動の一つのグループに正義にあふれた英雄が出現する。「赤い鷲」のグループである。反日運動を中心に行なっているが首領は日本人の大使館員であり、日本人の味方でもある。


事件1 1928(昭和3)5月   済南(サイナン)事件
事件2 1928(昭和3)張作霖暗殺阻止。失敗に終わる。
事件3 29年一月10日張学良、楊宇霆・常蔭槐を射殺する。
事件4 29年12月28日(旧暦)
 尚旭東、奉天占領未遂事件

 どこまでも続く地平線
 夕日が真っ赤に染まって沈んでいく。
 冬はマイナス四十五度にもなる
[時代]
1906年11月
 南満州鉄道創立
   『馬賊』P.43
1916年7月1日
 パブジャップの乱
   『馬賊』P.71

7月二十四日。未明。芥川龍之介が亡くなった。雨が降っていた。
 芥川比呂志は八歳だった。竹垣を乗り越えて入ってきた新聞社のカメラマンは、比呂志と弟の多加志を狙って写真をとった。多加志はとうとう泣きだした。
 翌日の新聞には写真が載り遺児と呼ばれた

[中国の状況]
 1911年(明治44)の辛亥革命の後、内乱が絶えず、軍閥は各地に割拠して


 日中戦争
 当時のことが小林秀雄全集4の社会時評の項に出てくる。昭和一三年の二月頃か。 眼鏡やと歯医者が一緒になっている。
 長崎から船が出てヨウスコウへ行く。
 見せ物や、不具の子供。
 蘇州ではタンポポの綿毛が舞う。秀雄全集四・P.956
 「日本の文学51(中央公論社)P.535 火野葦平の「麦と兵隊」(これは1938 年5月の余州会戦)等の著作


 4・12クーデタ当時
 郭沫若、国民党軍政治部副主任


他の参考
 「道教と拳法」
     『馬賊』P.79
[参考文献]
渡辺龍策『馬賊』(昭和三九年、中央公論社)
大江志乃『張作霖爆殺』中央公論社一九八九年
檀一雄『夕日と拳銃』



 中国年代記

前210 始皇帝死す。


前209年 陳勝・呉広の乱。


項羽前232~前202
 楚の名将の子孫。


劉邦
 農民の子。
前206年劉邦、秦を滅ぼす。項羽と対決する。民心をうまくつかんだ劉邦が優勢になった。前202年、漢がはじまる。首都を長安とした。

 ヨーロッパ年代記

前332年 アレキサンダー大王エジプト制服。
 エジプトは紀元前三千年ごろファラオが統一国家とした。その後三十一の王朝が興亡した。

 アレクサンダーは32歳で急逝。


年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代 
年代記5 江戸時代

年代記6 明治時代〜大正

年代記7 昭和時代〜

年代記5

年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代 
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代〜

年代記7 昭和時代〜
1600
姫谷焼き
 1600年代の中ごろ有田焼きの技術がもたらされて生産がはじまった。
 福山市北部、標高約四百メートルの盆地。「日本の初期色絵磁器のひとつ。色鮮やかな皿や鉢、碗は珍重された。しかし1600年代末にはすたれた」
 窯跡は1937年に県史蹟。1977年から2年間市教委が発掘。
「窯は同じ場所で築き替えられていた。いずれも山の傾斜を利用。食パンを連ねたような格好をした階段状連房式登り窯。最初に築かれた窯は半地下式の五房で構成され全長は12.8メートルあり、これを埋めて整地した上に造られたのは六房で全長16.8メートル。幅は両方とも2.3メートル。規模などから使われた期間は数十年と短く、大量生産できないことがわかった。だが、どうしてこの地に伝わり、なぜ消滅してしまったかなど、多くはいまだ解明されない。福山藩主の水野家が入封の後に窯が造られ、断絶の前後に生産されなくなったのも疑問を呼ぶ。当時、色絵の赤をだすのが陶工たちの夢だっただけに「鮮やかな赤色はお姫さんの血を使ったから姫谷焼きの名がついた」との伝説も残る。ただルーツだけは、窯の構造や焼く時に使われた窯詰め道具、生産された磁器の形や色絵のデザインなどから有田焼のと流れをくんでいるとされる。有田焼きに比べ材質や窯の焼き上げ温度などの違いから、黄色味を帯びているのが特徴だ。」
約100点が現存。
「色絵石榴文中皿」直径17.5センチ。
「色絵飛雲桃文輪花中皿」直径18.7センチ。 以上「朝日新聞」1993.9.25.

目明かし忠庵
 世の人たちは忠庵先生のことを、目明かし忠庵とさげずむが、まだ医術の未熟な当時において、ポルトガル流の医術をわが国に伝授した大功労者であるのは確かなことである。その南蛮流医術と呼ばれた先生の方法は、我々門人のみならず『南蛮流外科秘伝書』として、広く江湖の師に資したのである。また、先生が訳述編集『乾坤弁説』は遠く泰西の新しい暦学を伝えのである。

 目明かし忠庵こと沢野忠庵先生は、クリストヴァン・フェレイラと称し、1580年ポルトガルのトレス・ベトラスに生まれた。耶蘇教徒となられたのは、16才のときで、その後、コインブラ大学で学業を了えた後、自ら東洋への布教を希望して、マカオを経て渡来したのは1610年のことである。

忠庵は、日本に来る前に滞在した神の御名の都市のことを思い出した。マカオのことである


参考資料
 伊藤俊太郎編『現代科学思想事典』(講談社新書)204
  東光博英『マカオの歴史』大修館書店

1748
菅茶山 1748ー1827(寛延1-文政10)
 江戸後期の儒者、漢詩人
名は普師、通称太仲
京都二出て、那波魯堂に学ぶ。
そのご郷里で黄葉夕日村塾。
1801年福山藩に仕官。
一時頼山陽は塾頭。
著書「室町志」「福山志料」「黄葉夕日村舎詩」
 菅茶山
備後神辺川北村 庄屋で酒造業、農業を営む家に生まれ、俳諧をたしなむ父、医学漢籍に通じ和歌・狂歌をよくした叔父高橋慎庵の感化で学問を志す。19才で上京。古文辞学、朱子学を学ぶ。詩社混沌社に出入りし、多くの学者・文人と交遊するうち「当代の詩人で茶山ほどの人はいないだろう」と評判をとる。


 1796年(寛政4年)
 塾と塾付きの土地を藩に献じて郷塾として、講釈中心の教育をほどこした。茶山の名声は全国に広まる。

1780

頼山陽1780ー1832(安永9ー天保3)江戸後期の儒者・詩人・歴史家。春水の子。大阪生まれ。生後1年で広島藩儒となった父にともなわれ広島に移る。柴野栗山に「通鑑綱目」を学び18才のとき江戸にでて、尾藤二洲に経学、国史を学ぶ。翌年帰藩。一時脱藩の罪により自宅に閉居。のち京都に出て、篠崎小竹、梁川星巌、大塩平八郎らと交わる。子供の頼三樹三郎は安政の大獄で刑死。山陽の祖父竹原の紺屋又十郎の生涯の願いは、①瓦葺きの家に住むこと。②諸国を遊覧すること。③子孫を学者にすること。の3つ。子供の三兄弟、春水、春風、杏平をつぎつぎと大阪へ遊学ささ大成させた。

吉田松陰1830-59
 杉常道の次男。

 安政の大獄により江戸伝馬町の牢で刑死。 一瞬の輝きであった。それも特大の稲妻のようなものだ。
 死を前にした十日前の手紙に言う。
「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格出来申さず、非常の変に立到り申し候。さぞさぞ愁傷も遊ばさるべく候。」
 言葉を信じ、行動を信じる人間の明確すぎる論理がある。
 死を恐れる理由など、これっぽっちもなかった。純粋な自己の信念に従って生きることに至上の価値を置いている人間のみが味あうことのできる喜びと陶酔があった。そしてそれ故にその魂は不死となった。
  不死を夢見たのでは無い。現実に体当たりすることに無情の情熱を捧げた男の、魂が、歴史というものに、体当たりしただけである。その体当たりして、松陰の肉体は伝馬町に砕け散った。しかし、ほんとうに砕け散ったのは、どちらであっただろうか。



橋本左内1834-59
 福井藩士。1849大阪に出て、緒方洪庵に医学・洋学を学んだ。
 将軍継嗣問題では福井藩主・慶永を助けて一橋慶喜擁立に努力した。
 安政の大獄で斬首。取り調べのとき、役人をからかいすぎたとも言う。

1863年
 六卿都落ち。三条実美らは京都を追われて長州に落ちのびる途中鞆に立ち寄った。保命酒醸造元の中村屋に宿泊した。
 軍議を開いたり、浅野藩にあてて手紙を書いた。
 中村屋は入り母屋造り二階建の本宅の中に一階にある床の間付きの十五畳広間、6畳の和室。三条に同行した公家が感謝を込めて贈った掛け軸「七卿落図」。また「三条公履歴」。部屋から庭園が見える。


1863年(嘉永6年)
ペリー来航。
勝海舟31才。
 23才ころ蘭学を始める。他に剣と禅を学。蘭学の力で兵学を学ぶ。

1855年(安政2年)
 長崎にて新式海軍術の伝習はじまる。ん
1860年(万延元年)
 カン臨丸派遣。
1863年(文久3年)
 8月。このころから尊皇攘夷運動下火に。
1864年(元治元年)
 勝海舟、軍艦奉行二千石取りとなる。


1866年(慶応2年)
 勝海舟、再び軍艦奉行となる。



年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代 
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代〜

年代記7 昭和時代〜

年代記4

年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代 
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代〜

年代記7 昭和時代〜
足利尊氏1305-58
 足利氏は源義康の孫で、源義国の子である源義康が下野足利荘に住んだのがはじまりである。源平の争乱では頼朝に従い、義康の子、義兼以降、北条氏と通婚し、上総・三河の守護となった。清和源氏である。
1338(延元3)年足利尊氏光明天皇より征夷大将軍に仁ぜられ、京都に幕府を開く。「実に天下の将軍、武家の棟梁」(「梅松論」)

1396年(応永3)
 小笠原長秀・今川範忠・伊勢貞行らに命じて武家礼式を定めた。「南方紀伝」
 細川ガラシャ
 明智光秀の娘で細川忠興の妻ガラシャは、本能寺の変で実家と婚族の狭間に置かれて3年間丹後半島の中部の弥栄町(やさか)味土野(みどの)に幽閉されていた。石碑がある。
徳川家重1711-61
 9代将軍。吉宗の長男。虚弱で言語不明瞭。
徳川家斉(いえなり)1773-1841
11代将軍。寛政の改革を行なう。馬で品川の御殿山へ狩りに行く途中、烏を見付け、鉄砲で打った。かなり重い鉄砲を片手で打てるだけの力があった。

 挙兵
1536
豊臣秀吉1536-98

 秀吉の長子捨丸という名の、長男は育たないという伝説についての松本清張の考察が「古代史私注」(講談社文庫201頁)にある。
1600
姫谷焼き
 1600年代の中ごろ有田焼きの技術がもたらされて生産がはじまった。
 福山市北部、標高約四百メートルの盆地。「日本の初期色絵磁器のひとつ。色鮮やかな皿や鉢、碗は珍重された。しかし1600年代末にはすたれた」
 窯跡は1937年に県史蹟。1977年から2年間市教委が発掘。
「窯は同じ場所で築き替えられていた。いずれも山の傾斜を利用。食パンを連ねたような格好をした階段状連房式登り窯。最初に築かれた窯は半地下式の五房で構成され全長は12.8メートルあり、これを埋めて整地した上に造られたのは六房で全長16.8メートル。幅は両方とも2.3メートル。規模などから使われた期間は数十年と短く、大量生産できないことがわかった。だが、どうしてこの地に伝わり、なぜ消滅してしまったかなど、多くはいまだ解明されない。福山藩主の水野家が入封の後に窯が造られ、断絶の前後に生産されなくなったのも疑問を呼ぶ。当時、色絵の赤をだすのが陶工たちの夢だっただけに「鮮やかな赤色はお姫さんの血を使ったから姫谷焼きの名がついた」との伝説も残る。ただルーツだけは、窯の構造や焼く時に使われた窯詰め道具、生産された磁器の形や色絵のデザインなどから有田焼のと流れをくんでいるとされる。有田焼きに比べ材質や窯の焼き上げ温度などの違いから、黄色味を帯びているのが特徴だ。」
約100点が現存。
「色絵石榴文中皿」直径17.5センチ。
「色絵飛雲桃文輪花中皿」直径18.7センチ。 以上「朝日新聞」1993.9.25.


年代記1 奈良時代
年代記2 平安時代
年代記3 鎌倉時代
年代記4 室町戦国時代 
年代記5 江戸時代
年代記6 明治時代〜

年代記7 昭和時代〜