2019年7月12日金曜日

ふるさとの史跡をたずねて 第139回 黒崎明神(因島田熊黒崎新開)

 干拓地すなわち新開地の特色は神社があるということであろうか。もともと海中にある安芸の宮島、すなわち厳島神社を勧請したものが海辺にあるのは当然としても、住吉神社、金毘羅宮などを祀った小祠などがあって、庶民信仰を考える上ではまことに興味深い。
 黒崎新開の南の端に黒崎明神がある。その北側には潮回しがあり、大きなボラが泳いでいた。黒崎明神はここへ平成2年に移設されたようだが、中庄庄屋の竹内宮地家与三兵衛が天保5年(一八三四)に黒崎新開を作った時、厳島神社から勧請したということだから、その歴史は古い。黒崎明神と呼ばれているが、厳島神社のことだろう。重井町では明神さんと言えば厳島神社のことであるのだが、普段の会話ではたいていが明神さんで済む。明神というのは神仏習合時代の神社の呼び方である。
 中庄町から田熊町へ入ると、山伏山の山裾に天鵞絨ケ原(ビロードがはら)、黒崎、女郎ケ浜、崎西浦と続く。黒崎の沖が黒崎新開でその南が瀬戸の浜と、あでやかな地名が続く。
 女郎ケ浜というのは遊女がいたということであろうから、周囲の港の賑わいが想像される。
 そこから南は海沿いではあるが竹長新開まで新開と呼ばないようだから、干拓ではなく埋立地であろう。竹長新開を過ぎると、金山新開、扇新開と続く。
 竹長新開は山側の上八新開と呼ばれていたところと、後の部分の二度に渡って行われ、天保13年(一八四二)に岡野六兵衛が完成した。初めから綿花を植えるつもりであったようだ。干拓地と言えば塩田か田んぼを想像しがちであるが、この時代は綿花が主要産業になっていたのであろうか。

 現在、生口島へのフェリー発着場が金山桟橋と呼ばれているから、そこよりも北側が竹長新開ということである。(写真・文 柏原林造)