2019年7月12日金曜日

ふるさとの史跡をたずねて 第41回ー50回

第41回 長門明神(因島重井町久保)
久保という地名は窪地であることからきている。それが平面的であれ、上下であれ窪んでいる地形は戦略上重要である。それも馬神山の南西であるから、馬神城を守った第三家老末永氏の関係者が住むのに適したところではなかったか。重井四廃寺の一つである正光寺(焼香寺)にも近いから古くから開けていたと思われる。
その久保に長門明神と呼ばれているが、誰を弔い祀ったものかわからない五輪塔がある。まん中の笠石の部分は宝筐印塔に似ている。一番下の自然石を除けば、因島三庄町一区の金成寺跡に似たものがある。
長門明神という名称が興味深い。しかし、長門守という官位をもった人を知らないから、謎は深まるばかりである。敢えて長門について考えれば、因島村上氏六代の吉充ということになる。吉充は秀吉の海賊禁止令の出たとき隠居して、弟のいた鞆城に住む。その後、慶長5年(1600)の毛利氏防長移封に伴い、長門国矢田間(現下関市豊北町矢玉)へ移り、後に備後に帰り、弓削、大島の北部余所国などを経て愛媛県佐方村(現菊間町)で生涯を終える。
かつて矢田間に近い下関市の北部で瓦そばを食べたことがある。そこは山陰地方と言ってもよい。吉充は暖かい瀬戸内が恋しくなって、浪人して帰ってきたのではないだろうか。
(写真・文 柏原林造)

第42回 天神山城跡(因島田熊町天満)

 因島図書館の駐車場から山伏山の方を見ると、標高18mの丘の上に見事な巨樹の雄姿が見える。その丘が天満宮のある天神山城跡である。

 この木は菅原道眞が延喜元年(901)九州左遷の途次停泊し、その記念に植えられたと伝わるクスノキである。樹高20m、胸高周囲7mの大木を見るだけでも感動するが、それ以上に重要なことは、ここが因島宮地氏の出発の地であるということだ。

 応永30年(1423)頃尾道吉和の鳴滝山城から落ちのびてきた宮地大炊助明光がここに身を寄せた。因島村上氏の時代には第4家老として国内通商を中心に活躍し、江戸時代には各地の庄屋を勤めた。そして多くの寺院の創建に係わり、また多数の人材を輩出した因島宮地氏の祖とも言うべき人である。その宮地大炊助明光が、現在の中庄町公民館の裏に位置する大江城へ移るまで居城したのが天神山城であった。

 宮地氏を村上氏に紹介し援助したのが岡野氏だったと言うから、村上、岡野、宮地という因島に多い苗字ベストスリーの三家が、この頃に会したというのも興味深いことである。






第43回 宝筐印塔(因島三庄町善徳寺)

 ハリコ大師で有名な三庄町の善徳寺を訪ねた。今回の目当ては宝筐印塔(ほうきょいんとう)である。石段を上がると、境内の左前方にソテツがある。ソテツの傍に古い宝筐印塔がひっそりと立っている。因島宮地氏の祖、宮地大炊助明光が田熊の天神山にいた時に、父祖の菩提を弔うために作ったものだと伝わる。

 天神山とここまでの距離が気になるところであるが、元は天神山の下にあった。すなわち天神山の西麓に宮地明光が建立した亀甲山自性院善徳寺にあったものである。 

 その後荒廃したこのお寺は約二百年後の江戸時代になって、三庄町の明徳寺の隠居所として現在地に移された。寛永9年(1632)のことである。

 現在は石井山自性院善徳寺と呼ばれ、真言宗であるが、かつては臨済宗であった。

 因島には宮地氏ゆかりのお寺が多い。三庄町善徳寺はまさにその嚆矢(こうし)であると言ってよいだろう。





第44回 大江投錨(因島中庄町大江山)

 宮地大炊助明光は田熊町天神山城から、現在中庄町公民館のある所の裏山に移った。そこを大江山と言い周辺を大江と呼ぶのは、宮地氏の姓が大江であることに因む。 

 中庄町公民館の裏、大江山の山裾に大江投錨と呼ばれる小祠がある。伯方島にトウビョウ鼻、土生町の因島南中学校上の竹藪の中に東廟稲荷神社があり、重井町にトウビョウガワラがある。いずれも海の近くであるから、船の安全を祈願したものと考えられる。

 ところが重井町のトウビョウガワラは「闘病河原」だと思っている人が多いように、負のイメージがつきまとう。それは、青木城下のトウビョウガワラにあった船玉神像が、のちに厄病神(とうびょう)として嫌われるようになったからであると言われている。これは、海上守護神として金刀比羅宮(金毘羅宮)の人気に負けたことを示している。かつて崇められていたものが価値観の変遷によって見捨てられたり破壊されたりすることは世界中で見られることで、その一例である。今でも海辺の石灯籠の多くに金刀比羅(金毘羅)の文字を見ることができる。

 大江投錨は例外かと思っていたら、祟りがあるので近づくなと子供の頃言われたと言う人がいた。また、四国の犬神の類にトウビョウと呼ばれるものがあるが、厄病神(やくびょうがみ)という意味なら納得できる。()






第45回 毘沙門天像(因島中庄町成願寺)

 宮地大炊助明光(晩年に妙光と改名)は応永30年(1423)田熊天神山城に来て、その後中庄の大江城へ移った。宝徳元年(1449)には子息資弘とともに金蓮寺を再建した。同じ年に大山へ明光山成願寺を仏通寺派臨済禅寺として創建した。成願寺は天正10年(1582)現在地に再興され後に曹洞宗になった。

 永禄12年(1569)因島村上氏6代吉充が向島余崎城から本城を重井に移し青木城を築城したとき、鬼門、裏鬼門の方角へそれぞれ伊浜八幡神社、山の神社を祀った。その山の神社の近くに毘沙門堂を建て、三原瀬戸の守護仏として毘沙門天像(写真)を祀ったのが第4家老宮地氏であった。この毘沙門堂が天和3年(1683)に重井の善興寺となり、善興寺は宝永2年(1705)現在地へ移った。

 成願寺にはこの毘沙門天像と、宮地明光が守本尊として出陣時に兜の前立とした小像の2体が伝わる。長い歴史をもつ大小の毘沙門天像2体は成願寺の毘沙門堂の中で、小林和作画伯の壁画に囲まれて安置されている。桃山時代のものと言われる邪鬼の上に立つ大像は今でも燦然(さんぜん)と輝いている。()




第46回 板碑(因島三庄町明徳寺)

 三庄町の現在明徳寺のあるところが第5家老南彦四郎泰統の館跡だと言われている。だから三庄町の土居城跡というのは現在の明徳寺とその周辺のことである。この説を信じるならば、明徳寺は南氏が去ってから開基されたか、あるいは別の地にあったものがそれ以降に現在地に移ったということになる。

 それではいつ南氏の館でなくなったのかというと、天正16年(1588)の海賊禁止令の時から、慶長5年(1600)の村上氏の因島退去までの間ということになる。

 次に、明徳寺が別の場所から移ったとすると、それは南氏の菩提寺であったと言われる円妙寺のあった場所と考えるのが妥当である。

 さて、明徳寺の境内には板碑と呼ばれている古い墓碑がある。この墓碑の意味するところは、上記歴史と符合しているように私には思われる。例えば、もし移ってきたものなら、それは円妙寺や明徳寺があった場所からだろうし、その時期は明徳寺が移った時か、開基した頃である、というように。

 この墓碑は山形の頂部、中央の身部からできており種子(しゅじ)と呼ばれる梵字があり、板碑(板石塔婆)の一種と呼んでよいと思うが、頂部と身部の間に二段の切込みがないので、板碑の一般論を当てて解釈するのは危険である。また、この板碑と南池近くの崖下にあって、かつて南氏の墓だと言われていた墓碑と錯綜した記述が見られるので注意が必要である。()




第47回 美可崎城跡(因島三庄町三ケ崎)

 安芸の地乗りと呼ばれる古くからの航路は布刈瀬戸を通り、江戸時代になって開発された伊予の沖乗りと呼ばれる航路は弓削瀬戸を通る。このことからも、備後灘が海を支配する者にとって重要だったことがわかるだろう。その備後灘を一望できるのが美可崎城跡である。鼻の地蔵尊で有名な地蔵鼻は三ケ崎の鼻とも呼ばれ、その先端にある。

 因島に数ある城跡と呼ばれている砦跡は住居か見張り所であったということしか伝わっていないが、美可崎城跡には多くの事柄が伝わっている。

 古くは海の関所であり、後に帆別銭、駄別銭などを徴収したとも言う。また、鼻の地蔵伝説に伺えるような「賊」としての海賊衆の面も伝わる。

 さらにまた、ここを管理した、今は明徳寺になっている土居城跡に住んだ第五家老南彦四郎泰統と、城代とも奉行とも呼ばれる金山亦兵衛康時は、どのような経緯で因島村上氏の主要武将となったのだろうか。ここにも因島村上氏について理解するためのヒントがあるように思われる。

 このように美可崎城跡は地理的に重要なものであっただけでなく、因島村上氏の歴史を留めた重要な史跡である。()





第48回 船隠し(因島三庄町三ケ崎)

 美可崎城の西の海岸が船隠しだったと言われている。弓削瀬戸に面した南側の海岸である=写真上(弓削から)。一方、北側の三庄湾の入口の海岸だとも言われる=写真下(椋浦峠から)。

当時の人が船隠しと呼んでいたかどうかはわからないが、船隠しという言葉には三つの意味があるように思われる。 

 一つは、敵に襲われないように船を隠しておくところ、二つ目は、敵が近づくまで気づかれないように隠しておくところ、そして、隠すということにこだわらない単なる船溜り。

 美可崎城としての船隠しは、後二者の意味と考えてよいだろう。近くには水ノ浜、釜ノ浜と呼ばれる砂浜などがあるが、先端から離れれば機動性に欠けるだろう。

 弓削瀬戸に面していることと入江になった広い砂浜があることから南側がいかにも船隠しにふさわしいように思われる。



しかし、海には潮の干満があるので潮が引くに連れて船を沖へ出しておかないと出航できなくなる。そう考えると北側が適している。



 とは言え、場所に応じた用い方をすれば、どちらも利用できたかもしれない。()



第49回 鼻の地蔵尊(因島三庄町三ケ崎)

 三ケ崎よりも地蔵鼻とよく言われるように鼻の地蔵さんの方が美可崎城跡よりも有名である。この地蔵さんは玉ねぎ状の風化花崗岩の内部にある球状の母岩(コアストーン)を思わせる見事な大岩に彫られている。

 この地蔵さんには伝説があることも人気の秘密である。その有名な話は、お地蔵さんを作って供養したら問題が解決したという典型的な仏教説話であることからもわかるように、それぞれの時代の価値観を反映しながら変容してきたものだと思われる。例えば、女性の願い事なら何でも叶えられるというのは、女性の願望がまだささやかだった時代に付け加えられたもので、妙泰神社のご利益とも重なる。

 だから、鼻の地蔵さん伝説を全て同時代のことと受け止めるのは注意が必要だが、前もって帆別銭を払って鑑札をもらっていたという記述は興味深い。その頃の美可崎城の役割が帆別銭を徴収するのではなく、帆別銭を払ってない船を襲い、帆別銭・鑑札というシステムを裏から支えていたことにならないだろうか。()






第50回 百梵山城跡(因島三庄町百梵)

 土生町の変電所の横を東へ走ると切り通しの最頂部あたりが土生町と三庄町の境になる。そこを通過するとき右側を見てみよう。と言っても深い切り通しだから見えるのはセメントの壁ばかりである。しかし注意して見れば上の道に上がる階段がある。それを上がって、南に進路を取ると、左の山が百梵山である。頂上が百梵山城跡で、船奉行片山数馬の居城だったと伝わる。そのせいか周囲に字(あざ)片山がある。

 登山道らしきものはなく、三度試みてやっと頂上に辿り着いた。最初は南の畑から。かなり高い位置だからすぐだと思ったが途中で蔓草に遮られて諦めた。次は西に回ってみかん畑を登ったが畑の先には行けなかった。最後は百梵池近くから山に入って雑木の間を登った。頂上は思ったより広かった。南に下がって石を積んでいるところから草を刈りながら尾根を進むと最初に諦めたところの反対側に出た。やはり最初の見当は正しかったのだ。ただ、通る人がいなけければ、再び蔓草や茨に覆われ道はわからなくなるだろう。

 近くには日野山砦や小丸城跡があり、往時は賑わっていたのではないかと思う。だが、肝心の船はどちらに置いていたのだろうか。箱崎浦も三庄湾も今よりはもっと奥まで海だったのだが、それでも陸上を移動させるには峠が高過ぎる。両方に置いて二手に分けるのは合理的ではないから、土生側に置いて村上本家や稲井家と行動をともにする場合が多かったのではないかと想像するだけである。()

南側より。
北側より。(左から百凡山城跡、日野山砦、小丸城跡)